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日光道中・奥州道中 その40「春風や 明日はどこまで 里程標(草加宿)」

 (前回の続きから)

 老舗の趣きを感じる看板や、懐かい雰囲気のスズラン街灯の並ぶ日光街道・草加宿を進みます。
 すると、オレンジ色の庇(ひさし)のような商店の前、歩道の片隅に、石柱のような「何か」が見えてきました。
 おそれることなく近づいてみましょう。

 人の身長より高い石柱。
 倒壊防止のためか、周囲は金属の支柱で補強されています。


明治四拾四年
距谷塚村管轄境


千住町へ貳里拾七町五拾
越ケ谷町へ壹里三拾三町

 これは、明治6年12月20日(その前年の明治5年から今の暦(新暦・太陽暦)の使用が始まったため、今の暦と同じ12月20日です)の「太政官第四百十三號」により定められた、道路の距離を示す「里程標」です。
 「太政官」は、明治時代の初期に制定された、国家行政などを取り扱う最高機関(明治18年の内閣制度の発足により廃止された)で、太政官による国家事業の一つとして、主要道路の距離の測定や、その測定された距離を示す「里程標」の設置が行われました。


 引用:太政官第四百十三號 

 内容は、大まかに次のとおりです。

 これまで「街道の距離」とされてきた数値は、必ずしも正確な距離ではないため、測定方法(歩数などに頼らず、分間(測量)用の麻縄や鎖を使うこと)や距離の単位(一里は三十六町、一町は六十間、一間は六尺とすることなど)を統一する。

 東京・日本橋と京都・三条大橋のそれぞれ中央に全国の街道の拠点となる元標を設け、大阪府や他の各県は県庁所在地の四達枢要の場所(四方からの道が達するような重要な場所)に府県管内の街道の元標を建てること。

 各県の県境にも里程標を建てること。

 県庁所在地のほか、駅や郵便役所や陸運会社のある市や村も、「高札場」のような便利で重要な場所に里程標を建てること。
 (「駅」について、明治6年時点では、鉄道は明治5年に開通した「新橋~横浜」だけで、東海道本線など主要鉄道の開通もまだ先のことです。この「駅」とは、もしかしたら、江戸時代の宿場のような荷物の中継所「宿駅、駅逓」の意味かな?と勝手に想像しました。
 なお、明治5年には江戸時代から続いた「伝馬制(公用の旅人や荷物を次の宿場までリレー式に運び届ける制度)」と「助郷(伝馬制の荷物を運ぶ馬や労働力を近隣の村から徴発する制度)」が廃止され、荷物の運送を扱う「陸運会社」が各地に設置されました。
 また、「高札場」は、明治6~7年頃に廃止されますが、当時の人々にとっては、「町中の、街道に面した重要な場所」を例えるのに「高札場のあるような場所」という表現が分かりやすかったのでしょうか?)

 標柱は檜(ヒノキ)や椴(トドマツ)の木材を使い、県庁所在地や県境の里程標は一丈二尺(高さ約363cm)、「駅」などのある村の里程標は一丈(高さ約303cm)とするが、実情に応じ、石を据え付けたり、竹矢来を設置してもよいこと。

 そして、距離を測定して里程標を設置する対象となる道路が指定され、東京から長崎に通じる道路、東京から本州最北端の大間へ通じる道路や、東北から九州まで、主要な町などを繋ぐ道路が「陸前國」や「信濃國」などの明治初年当時の「国名」で記されています。
 (当時は、「廃藩置県」により「府・県」が設置されましたが、当時の「府・県」は、地名というより、行政上の区分(税金や警察の管轄など)の意味合いが強かったほか、「府・県」の合併や再編が続いたこともあり、住所などの地名を書く際には旧国名も使われ続けていたそうです。
 なお、その後も、旧国名の廃止令や禁止令が出されることはなく、現在の47都道府県の普及で旧国名が事実上使われなくなったようです。)


 そして、実際に里程標の設置が進められた明治8年には、その実情が考慮されたのか、「里程標柱」に書き記すべき事柄を定めた「太政官 達 第百九十九號」が制定されました。

 引用:太政官達第百九十九號
http://japan.road.jp/Law/M8_DajyoT199.htm

  (ふぅ・・・
  条文を解読しつつの説明が長くなりましたぽこ・・)

 さて、実際に街道沿いにあるものを見ましょう。


 太政官による里程標の条文は明治6年に出されましたが、これには明治44年の年号が記されています。
 素材も、太政官が指定する「ヒノキやトドマツの木材」ではなく石で造られており、道路の改良などで距離数が変わったり、木製標柱が雨風で朽ちたりして作り直されたのでしょうか?

 この里程標には
 距 谷塚村 管轄境 貳拾四町 貳間 五尺
 (谷塚村との境界まで2621m程度)

 千住町へ 貳里 拾七町 五十三間 三尺
 (千住町まで9797m程度)

 越ケ谷町へ 壹里 三拾三町 三拾間 三尺
 (越ケ谷町まで7576m程度)

 距 浦和町 元標 四里 貳拾町(その下は物陰で見づらい)
 (浦和町の元標=県庁所在地の元標まで17.876km程度)

 距 栗橋町 管轄境 拾里 拾三町(その下が物陰で見づらい)
 (栗橋町との境界まで40.657km程度)

と記されています。
(メートルへの換算の際、端数は適宜省略などしています。あしからず。)


 ふぅ・・・とりあえず、太政官による里程標の規程と、この石柱に記された地名と距離数を解読したことにしておきましょうポコ・・・