日光道中・奥州道中 その28「大曲り 乙女椿に いざなわれ(千住宿~草加宿)」
増田橋から、さらに北へ進みます。

標識の「日光街道」は今の国道4号かな?
日光街道の西側、竹ノ塚駅へ向かう途中には「竹塚神社」があります。

まさに「由緒」ある言い回しや字体が沢山!

「人皇(にんのう)」は、日本書紀に記される
「神武」以降の天皇を意味し、それより前の
「神代」と区別する言い方。
「御宇(ぎょう)」は、その天皇の時代という
意味で、ここでは「円融天皇の時代」。
「茲」は「ここ」と読む。
「當」は「当」の旧字体、「当社」。
「𦾔」は「旧」の旧字体、「旧跡」。
「傳」は「伝」の旧字体、「伝えられる」。
「凡そ」は「およそ」です。
由緒書の案内板、由緒ありすぎる言い回しが次々にあらわれ、油断なりません・・・(笑)
今度は日光街道の東側へ、保木間の氷川神社へ。


この付近を勢力下とした「千葉たね一族」
の陣屋跡と伝わる地です。
千葉氏は、北極星や北斗七星を神格化する
「妙見」を信仰して大切にしていました。
(参考:千葉氏と妙見信仰)
この保木間地区は、今では東京都足立区の一部ですが、昭和七年(1932年)までは東京府の南足立郡淵江村でした。

衆議院議員の公職にあった田中正造は、
東北本線の古河駅からも上京しましたが
栃木・群馬の被害住民たちは、
日光街道を歩いて東京を目指し、
「東京市」まであと少しの地「保木間」で
田中正造の演説に心打たれ、「淵江村」の人々の支援もあり
このときは郷里へと引き返しました。
そして、街道歩きの目線では、この案内板が一番気になりました!

西新井大師から花畑、六木を経て流山へと通じる、東西に延びる古道と説明される「流山道」。
この道はまだ詳しく道筋を確認していませんが、さらに東へ進むと成田山にも通じるともいわれる、戦国時代以前の千葉氏の時代からの道ともいわれる古道、気になる道です。
日光街道に戻り、さらに北上します。



荒川を越え、梅島のあたりからは、ほぼ真北へと一直線の道筋を長々とたどってきた日光街道ですが、直線の終わりを予告するような名前のバス停「大曲」に差し掛かります。
ここから、バス道路はさらに直進してから右へ「大曲り」しますが、街道は、画像のコンビニの先でバス道路と分かれて右の旧道に入り、右に膨らむような曲線を描く道を進みます。
古地図を見ると、この先の、右に膨らむように曲線を描く街道に沿って水路が流れているようにも見えますので、街道が先か水路が先か、いずれにしても水路などの地形に沿う形の街道が設けられていたようです。

右へと膨らんだ道筋の旧道区間。
かつての水路を思わせるように、歩道の下には広い暗渠がひそんでいるようにも見えます。

昔のテレビの枠などを思わせる、
角が曲線の四角形(数学的には矛盾?)
の窓が、昭和の雰囲気を感じさせます。


タクシー事務所や医療福祉施設
などの看板も目にしました。



この旧道区間を通り抜けると、埼玉県への都県境が近づいてきます。
長く続いた東京都・足立区の区間の名残りを惜しむかのように、椿に見送られて歩きました。
