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日光道中・奥州道中 その32「町はずれ 足跡集い 地蔵盆(草加宿)」

 江戸時代の書物には二里八丁(約8.7km)と記録され、今の実測距離ではそれよりも1kmほど長いと記載された街道本もある、日光街道「千住宿~草加宿」も大詰め、草加宿の入口へと向かいます。


宿場町への入口、
県道と旧街道の分かれ道。
右の道が車線の広い県道で
左の道が宿場へと続く旧街道です。


 旧道との分かれ道に設けられている「今様草加宿」の標柱。
 
 この標柱は、草加の地に日光街道の道筋がつくられて(江戸時代初期までは、草加付近は低湿地のため街道の道筋からは外れ、日光街道は、千住から北東側を迂回するように越谷へ向かっていた)から400年を経た西暦2000年代に、街道沿いの賑わいや雰囲気を取り戻そうとする「今様・草加宿」の活動によりつくられたようです。

https://imayo-sokasyuku.com/html/history.html

 この標柱から、旧街道に入ります。

 この旧道の風景、2014年に歩いたときの画像を見返すと、「埼玉屋旅館」という旅館の建物が写っていました。

 検索してみると、大正十五年(昭和元年、西暦1926年)に飲食店として創業し、昭和五年(西暦1930年)に「旅人宿」の営業を許可されて旅館業の営みを始めた旅館でしたが、老朽化や地震の影響などにより2022年から休業し、建替工事が行われているそうです。
 (3年程度の工期という話もあるようですが、現時点では再開予定時期などはまだ出ていないようです。)

 参照:大正十五年の飲食店営業許可、昭和五年の旅人宿営業許可に関する書面などが掲載された、埼玉屋旅館さんのツイッターから。
 

 埼玉屋旅館さんの敷地から少し進むと、市役所の建物と、その手前の祠が見えてきました。

 「浅古家の地蔵堂」として今に伝わる地蔵堂。
 江戸時代の半ば頃に、この地に「大和屋」の屋号で商家を構えていた「浅古半兵衛」が、道沿いの水路を流れてきた地蔵を祀ったという由来が伝えられています。
 
 そして、昭和初め頃までは、旧暦の「地蔵盆」にあたる8月24日には、子供が集う「地蔵盆」が行われていたそうです。
 「地蔵盆」については、主に関西地方に伝わる風習で、関東ではあまり馴染みがないとも言われますが、草加宿の浅古地蔵堂では行われていたようです(草加の地で行われた理由、いきさつは判明せず)。

 引用:草加市のサイトから、浅古家の地蔵堂や地蔵盆にまつわる話。

 このサイトにもあるとおり、現在の草加市役所が、かつての浅古家(大和屋)の土地を買い取ってつくられた際も、地蔵堂はこの地に残されました。

 引用:草加市のサイトから、草加宿の案内図

https://www.city.soka.saitama.jp/cont/s2105/030/010/010/map04.pdf

 こちらのサイトの「浅古家の地蔵堂」に関する説明文を見ると、「草加宿の南の境界で、邪神を防ぐ境神であった」と記されています。
 明治期の古地図「迅速図」を確認すると、今の市役所のあたりから草加宿の家並みが始まり(それより南側は家並みが途切れている)、いわば「町はずれ」であった地に境神が祀られていたというのも納得です。

 市役所の前から北へと伸びる街道沿いには、前述の案内図サイトで「蔵造りの家」と記される家屋や塀が見えます。


詳細は不明ですが、
「浅古家」の敷地を汲むと思われる
重厚感のある商家のような家屋です。
街道沿いの間口から
奥(裏手)へと細長く伸びる間取り。
「ウナギの寝床」的な
宿場町の街道沿いで多く見られる
つくりの家屋です。
前述の家屋の横など
街道沿いに並ぶ街灯。
街灯の上に鳥(オブジェ)が見えます。


 前述の案内図サイトに「1丁目石碑」と記されているものは、この「壹町目」「大正四年十一月十日」「草加神社」と記された石柱のことかも。

 
 こちらは、2014年に歩いたときに、「浅古家の地蔵堂」の近くで撮っていた画像から。

それぞれ味わいありそうな
喫茶店・居酒屋・中華料理のお店が
三軒そろって並んでいましたが
今は、この建物は姿を消したようです。
それぞれのお店、今はどこかに
移転されたのでしょうか?

 
 かつての宿場町を進み、今の草加駅近くの交差点へと向かいます。

看板建築の趣の家屋も見える街並みです。