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日光道中・奥州道中 その16「次の地へ   道を接ぎ接ぎ 宿場町 (千住宿)」

 千住の宿場町も、そろそろ北の果てに近づきます。
 千住宿の特徴の一つとして、千住大橋を渡った橋戸町あたりから、元々は宿場町の外側だった「掃部宿」を経て、南北に延びる宿場町が、途中で曲がることなく、ほぼ一直線に延びる街道に沿っています。
 各地の宿場町では、途中に直角的な曲がり角「枡形」を設けて、わざと見通しなどを悪くして防衛の設備としたり、あるいは、川や高台などの地形に沿って道が曲がっていることもありますが、千住宿は一本道のような直線の宿場で、その名残りは、今の商店街にも残されているように見えます。

場所は少し遡りますが、かつての千住宿の南側(江戸に近い側)の入口付近。
今は商店街となった宿場町が、遠くまで一本道のような街道に沿って続く様子が見えます。

 そんな一本道のような千住宿も、北端のあたりの分かれ道で左へと曲がります。

(古地図を眺めつつ、なぜここで曲がる?と妄想しつつ(奥州から大名が江戸に攻め込もうとすると、千住に入る手前でカクカクと二度曲がるのか?などと)、さらに、初期の街道は千住の北で左折せず、むしろ、少し先で右折気味に(東側に回り込んで)川など地形に沿って進んでいた?という話を見聞きすると、諸々妄想は膨らみますが、私には妄想以上の知識は出てこないので、深入りせずにおきます)

ブロック塀の模様に法則性を見出したくなります・・・(?)

 日光街道が左へと曲がる交差点のあたりに、長屋門のような由緒ありそうな建物が見えてきました。

 江戸時代から、この地で、接骨「骨接ぎ」の技術を用いて怪我人の治療にあたり、現在も「整形外科」の医院として続いているそうです。

由緒ありそうな蔵も残されています
右読み「府京東」の時代のものや、「鐡道嘱託醫」といった表札も残されています

 案内板があり、明和七年(1770年)に開業し、幕末期の母屋や長屋門が残されていることなどが記されています。
 そして、この案内板で気になった「秩父の畠山氏の末裔」という一文。
 秩父の畠山氏というと、源平合戦などで活躍し、御家人として鎌倉幕府を支えるも、讒言に遭い、追討軍との戦いの末に命を落とした武将、人情に篤い美丈夫としても名を残した「畠山重忠」を連想しました。
 検索すると、「名倉」の流れをくむという医院(この千住の医院とは別物)のサイトで、畠山重忠の末裔という話を見つけました。
http://www.sengendai-nagura.com/edonagura.html

 参考までに引用します。
 さらに読んでいくと、西暦1570年に名倉氏が武田信玄の攻撃を受けて落城して岩槻に逃れたという話があり、また別のサイトを探すと、秩父地方の奈倉館の話が出てきます。
 西暦1570年は、武田信玄と小田原北条氏の盟約が破れ、武田信玄が北条の支配下であった秩父に侵攻したという年代ですが、戦国時代の話が千住宿の旧家の由来に繋がるという話には驚きました。

 
 このあたりで千住宿も途切れますので、道を左に曲がって進みます。

くるくるした歩道橋へ。

 かつての日光街道は、千住宿の北側で、まずは一度カクッと左折して、しばし進んだところで今度はカクッと右折する道ですが、今は、その途中で「荒川放水路」が開削されて川がつくられたため、古地図どおりに歩くことはできず、このような歩道橋を越えたり、川を渡ったりします。