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日光道中・奥州道中 その41「渇き野に 大川いでて 清水わく(草加宿)」

 草加宿の日光街道沿い、前回は、今はひっそりと道端にたたずんでいるような風情の「里程元標」が気になり足を止めました。
 
 さて、里程元標から街道へと視線を戻すと、里程元標のすぐ近く、しかも街道の両側に向かい合うように気になる石碑が見えてきます。

  

 街道の西側(里程元標から見ると左側)には「草加宿 大川本陣跡 ~宝暦年間」と記された石碑。
 

 街道の東側(里程元標から見て右側)には「草加宿 清水本陣跡 宝暦年間~明治初期」と記された石碑。

 いずれも、江戸時代の宿場に設けられた本陣(参勤交代の大名や、公的任務のため旅をする幕府の役人、公家など、限られた地位の人々だけが泊まることのできた、格式の高い宿泊施設)の跡地を示す石碑です。

「清水本陣」碑の隣には、案内板があります。

 「宝暦年間」は、西暦1751~1764年にかけての年号ですので、江戸時代の初期に草加宿がつくられてから宝暦年間までは大川家が、宝暦年間から明治時代に至るまでは清水家が、それぞれ本陣を営んでいたという説明です。
 なお、草加宿に設置された本陣は一箇所でしたので、二つの石碑が道の両側で向かい合っているからといって、二つの本陣がライバル旅館のように向かい合って営業していたというわけではありません。

 
 引用:この「本陣跡」石碑の除幕式(平成24年)の様子。
 引用先の文章には、現在の「大川本陣跡」に建てられたマンションや、現在の「清水本陣跡」に社屋を構えるガス会社、そして、「大川本陣」を営んでいた人物「大川図書」の流れを継ぐ家「打出大川家」の関係者が列席したことが記されています。

 https://imayo-sokasyuku.com/kaihou_pdf/news10.pdf


 検索ついでに、案内板に登場する四人の大名(いずれも、東北地方の有力な藩)が、名前を見てピンとくる人物から、その藩の名前は分かるけど、この人は誰?という人物もあり、この人たちはどんな人?と気になったので軽く検索。

 会津藩松平家・五代藩主「松平容頌(かたのぶ)」は、歴代の会津藩主の中でも最長の56年間にわたり藩主を務め、農村復興や殖産興業などの藩政に取り組んだ人物で、生没年は西暦1744年~1805年なので、草加では清水本陣に宿泊。

 仙台藩伊達家・四代藩主「伊達綱村」は、父・綱宗の隠居により2歳で仙台藩の藩主となり(「伊達騒動」を描いた芝居や読み物では、綱宗は乱行のため隠居させられ、幼年ながら藩主となった亀千代(綱村)は「毒饅頭」による暗殺未遂などの陰謀に狙われる)、伊達騒動を経て成人した後は、藩内の開発や寺社造営などに名を残した人物で、生没年は西暦1659年~1719年なので、草加では大川本陣に宿泊。

 盛岡藩南部家・八代藩主「南部利視(としみ)」は、放漫財政による藩の借財が増加する中、自ら藩政改革を行い倹約などを進め、盛岡城下での「目安箱」の設置や、「下風呂温泉への御忍びでの湯治」として藩内北端(本州最北端)の大間まで藩内を巡視した記録が残る人物で、生没年は西暦1708年~1752年なので、草加では大川本陣に宿泊。
 引用:盛岡の歴史館のサイトから、南部利視の紹介文

 米沢藩上杉家・九代藩主「上杉治憲(はるのり)」は、九州の大名・秋月家から上杉家に婿養子として入り、多額の借財や出費による財政難に悩まされていた米沢藩を継ぎ、自ら質素な暮らしを実践するなどの倹約を率先し、農地の開墾や「米沢織」など特産品の開発を進める一方、藩政改革に反対する重臣への断罪や罷免も実行。
 また、飢饉対策として、八十二種類の食用となる植物(山野草、果実など)の食べ方や、干物の保存法、魚や鳥獣肉の活用などをまとめた書物「かてもの」をつくり、木版印刷により1575部をつくり領内に配布した人物、生没年は西暦1750年~1822年なので、草加では清水本陣に宿泊。
 引用:上杉治憲「かてもの」について、米沢の上杉家ゆかりの施設のサイトから。
 なお、「かてもの」とは、主食に「混ぜて」炊いて食べることができる、「糧(かて)となる物」の意味。


 

今の「大川本陣跡」の近くにはコンビニ店があります


そして、今の「清水本陣跡」の並びには
「コンビニエンスショップ」があるのです!