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山手線にゃんぽ会 西日暮里~日暮里 その11

 

 晩秋の日差しを浴びる谷中の木々を眺めつつ、散策の続きです。

 天王寺沿いの祠にまつられている、お地蔵様と庚申塔。
 お地蔵様は「わらじ」が添えられていますが、これは何かの由来や御利益があるのでしょうか?
(検索してみましたが、よく分かりませんでした)
 

庚申塔の拡大
よく見ると、なぜかウルトラさんもいます(笑)

 

 晩秋の澄んだ青空と木々を見上げつつ、天王寺の境内に立ち寄ります。

天王寺の風景

 天王寺の案内板。
 案内板の最初の方に登場する「関 長燿(ながてる)」は、出家して「道閑(どうかん)」と名乗ったといわれ、日暮里から西日暮里にかけての高台「道灌山」の名前の由来にまつわる説の一つ(道閑の屋敷のあった山)とされています。
(そのほかには、日暮里駅前に騎馬像のあった室町時代の武将「太田道灌」に由来するという説があります)

 かつては「長燿山感応寺」という名称の日蓮宗の寺院でしたが、江戸幕府の意向を経て天台宗に改宗(かつて属していた日蓮宗の中の宗派が幕府から警戒・弾圧され、寺も廃絶の危機に瀕したが、隣接する東叡山(寛永寺)の住職「輪王寺宮」が寺の廃絶を惜しみ、寛永寺と同じ天台宗の寺院として存続するよう尽力)し、その後、現在の名称「天王寺」に改められたという由来があるそうです。

天王寺の手水鉢

 鳥を回すと水が出ます!
 (鳥が蛇口のハンドルなのです)
 よく、水を飲む鳥の置物は目にすることがありますが、水を出す鳥とは斬新な感じがしました。

天王寺の大仏
大仏 後ろから
大仏 斜め後ろから

 天王寺の大仏「釈迦如来坐像」の案内板。
 天台宗に改宗される前の元禄三年(西暦1690年頃)につくられたもので、明治時代に現在地に移された(江戸時代は、この近隣の谷中墓地の敷地も天王寺の敷地で、かつての大仏は今は谷中墓地となった地に鎮座していた)ものの、幕末の戦火や明治時代の廃仏毀釈、関東大震災や昭和の戦災を経ても失われることなく今に至るものです。

 

天王寺境内の「さるさる塔」ならぬ庚申塔
個性的な「三猿」や、太陽と月などのバリエーションのある庚申塔
庚申塔の案内板

 六十日に一度、干支の一つとして回ってくる「庚申」の日には、その日の夜の日没から翌朝の日の出まで眠ってはならず、もし眠ってしまうと寿命が縮んでしまうという言い伝え(寝ている間に、体内の「虫」が身体から抜け出して、その人の悪事を天に伝えて寿命を縮ませてしまい・・・という話)から、その日は眠らずに集まって「講」をひらいて一夜を明かし、その「講」を三年間続けると、達成記念のような意味合いも込めて「庚申塔」がつくられたという由来です。

 「庚申塔」には、体内の「虫」を抑え、邪鬼を踏みつけ病魔などを退散させるという信仰の対象「青面金剛(しょうめんこんごう)」や、干支の「申」にちなんだお猿さん(見ざる聞かざる言わざるの「三猿」形式のものが多い。猿は青面金剛の従者と扱われることもある。そのほか、猿を「山王・日枝」信仰や「猿田彦」に繋げる説など、いろいろある。)や、申の次の干支「酉」にちなんだニワトリ(ニワトリは、庚申の夜が明けて翌朝の日の出を告げるという意味合いも)などの「キャラクター」が、ときには精巧に、ときにはユーモラスに彫られているものがあり、散歩中に意外なところで出てきたりします。

(以上、かなり「はしょった」庚申塔の話でした。
 庚申塔を見ると「さるさる塔」と呼びたくなってしまいます 笑)

 貞享や元禄の時代から三百数十年の時を経た庚申塔の前に、今年の秋が色づきました。