日光道中・奥州道中 その17「新橋の 川のたもとに 眠る道(千住宿~草加宿)」
千住宿を過ぎ、次の宿場「草加」への道のりです。
この先、旧街道の一部は、明治44年から大正13年にかけて(西暦1911年から1924年)の工事で開削された「荒川放水路」の水の底となっているため、旧道に近いルートの「千住新橋」を渡ります。


足立区のサイトに掲載されている、荒川放水路の詳細。
荒川(今の隅田川)の増水、洪水が相次ぐ中、荒川の川幅を広げることは困難として、水を分流させる新たな放水路が計画されました。
(なお、荒川が都市部を流れる原因となった「江戸時代初期の荒川付け替え」よりも古い時代の荒川(元々の荒川)の流路は、今は「元荒川」として残り、日光街道ではこの先の越谷で渡ります)
放水路のルート案に対し、当時の千住の住民は、千住付近に水路が開削されて町や道が寸断されることに強く反対しましたが、結果的に千住の北側を流れる水路か、南側を流れる水路かの二つの案に絞られ、千住の北側を流れる水路がつくられることに。
なお、このルート案の一つ「上流の熊谷堤付近から分流して神田川に注ぐ」の文字を見たとき、「熊谷堤」を中山道の熊谷の桜堤と勘違いして、熊谷から分流して神田川へ繋げるとはなんと壮大な!と驚いてしまいましたが、この「熊谷堤」は、どうやら、中山道「戸田の渡し」の北西側、今の戸田市の荒川の北側に設けられていた堤のようです。
(明治期の地図「迅速図」を見ると、今の戸田・笹目あたりの堤防上の道に「至 熊谷道」と書かれており、熊谷へと続く堤ということで「熊谷堤」と呼ばれていたのかもしれません。
そうとしても、今の戸田市の対岸(板橋区)から神田川へと通じる水路、板橋から赤羽へ連なる高台や石神井川などをどのように乗り越えて開削するつもりだったのか、今度は神田川が増水しないのか、個人的に色々と気になります・・・)
https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000704042.pdf
(なお、荒川放水路の更に詳細な資料、この11ページに「熊谷堤~神田川」案の略図が記されています。
この資料は、全体的にとても詳しく記されています!)
そして、橋の高さまで登って「荒川放水路」の千住新橋を渡ります。



千住新橋は、荒川放水路の開削に合わせ、大正9年から13年にかけて、鋼板桁の近代的な橋としてつくられました。
その後、昭和30年代の交通量増加による拡幅を経て、現在の橋は、昭和50年代に架け替えられた橋です。
大正時代の「千住新橋」の標柱(親柱)は、架け替えの後、橋から西に100メートルほど離れた「千住大川町 氷川神社」境内に移されて保存されています。



のどかな雰囲気さえ感じる広々とした河川敷ですが、千住新橋から見て少し西側、おそらくはこの辺りから見える川底には、かつての街道が眠っているのかもしれません。

いつも風が強い印象です。

魚を剥製にして保存する技術があるのですね。
釣果自慢「魚拓」は目にしますが、魚の剥製も、もしかしたら、例えば釣り自慢の人の酒場とか旅館とか土産物店とか、気にしないままに、どこかで見ていたかもしれません。
そして、この看板が気になり、剥製にはしなくとも、とりあえず画像フォルダに撮り入れて捕獲する散歩人・・・(笑)
