気持ちを証明する方法 ――『夏の終わりに君が死ねば完璧だったから』斜線堂有紀
人の身体が金に変わってしまう病気を患った女子大生・都村弥子と、彼女にひょんなことから出会った中学生・江都日向との交流を見ながら、最愛の人の死につけられた価値と向き合っていく物語。弥子は死ぬとだいたい3億円分の金に変わるとされており、治療と研究のためサナトリウムで隔離されている。そのサナトリウム建設に反対している母を持つエト(と弥子は呼ぶ)は、弥子とチェッカーを通じて交流するうち、彼女に惹かれていくが、弥子が残るお金を彼に残すと宣言したことで迷い始める。エトにとって、彼女に惹かれているのは素直な事実であり、そこにお金に対する下心はない。けれど周りの大人たちから見れば、可哀想な女の子に付き合っている優しい少年のようで、大金を手にする予定の付け入りやすい存在である。妙に擦り寄ってくる大人たちの描写も、生々しくて嫌悪感を覚えた。
お金による愛の証明、つまり本作の逆は、この世にたくさん溢れているように思う。アイドルを応援するために、CDをたくさん買う。愛情を伝えるために、高価なプレゼントを渡す。より良い進路を歩ませるために、学費や習い事で投資をする。これについては、よく考える。自分の周りにいる、「推し」がいる人たちのことだ。自分の推しの缶バッチを集め、大きな鞄の一面を染め上げるように並べて武装した鞄や、祭壇と呼ばれる装飾された部屋を見ると、それは愛情の表現だと思うし、お金だけで達成できることでもないけれど、お金がなくてはできないことではある。お金と時間をかけて、愛情という気持ちを証明するような行為だ。私がかけられるお金には限界があって、好きな人が一人ではないから、誰か一人にだけ時間をかけることができない。自分には真似できない。私の愛の証明は、ちょっと弱いとすら感じてしまう。だからと言って、1食食べるのを我慢して、その分グッズやボイスを買えばいいのだろうか?それは果たして、正しい愛の証明になるだろうか。痛バッグや祭壇を作っている人たちに引け目を感じながらでしか、応援することができないのだろうか。最近の私は、そうじゃないと言い切れる。たった一人の頭数が増えるというだけでも、意味があることを知っているからだ。この1が積み重なって100にならなくては、実現しないことがたくさんある。だから、ただそこに「好きだ」という気持ちを持って居るだけでも、十二分に意味はあると思っている。
では、逆ならどうなのだろう。例えば、莫大な資産を持つ人物と結婚する時に、私の目当てはお金でなく純粋な愛ですという時、どうやってそれを証明すればいいんだろうか。質素な生活を送って、高価な買い物を一切しなければいいんだろうか。お金を自分の為に使わず、人の為に寄付をすればいいのだろうか。エトの場合だったら、お金を受け取らない選択を意地でも取れば良かったのだろうか。
自分が求めているのは、お金じゃなくて愛なんだという、気持ちだけで愛を証明するには、どうしたら良いんだろうか。気持ちの証明ってなんだろうか。手作りのお菓子を作ればいい?自分でダイヤの原石を掘りにいけばいい?お金を使わなくても、相手の喜ばせる術をたくさん持っていればいいのだろうか?
エトの証明は成功したとは言えなかったと思うし、大人たちにとってそれは気持ちの証明には見えなかったかもしれないけれど、弥子にとっては十分な証明だったと思う。弥子は最初から、エトがお金を目的に近づいてきたのではないことなど、分かっていたと思う。それでも、二人で海に行ったあの証明の瞬間から、二人の関係性がひとつ明確に変わったように見えた。それはつまり、エトの証明が然るべき人に、きちんと伝わったということではないだろうか。
