人はそれぞれ違う場所を、聖域にしている
昨夜あまり眠れなかったという夫が、「そういえば凪は最近も、寝る時に本読んでる? 少し前に読んでた『時間は存在しない』はもう読み終わったの?」と尋ねてきた。
内容がとても難しくて、1日に3行くらいしか進まない。もはや睡眠導入剤だよ、と笑いながら答えると、「その作者の人が解説してる動画があるよ」と、ご機嫌に教えてくれた。
のだが。
その言葉が、イラッとセンサーの先端を一瞬かすめていった。
いや別に……動画は興味ないから……と会話を強制終了し、夫も「あ、そう?」と返しただけでその場は終わった。のに、何時間か経っても、センサーはまだゆらゆらし続けている。
……何でイラッとしたんだろう。
別に嫌な言い方ではなかったし、彼はあくまで善意だった。
*
寝る前に読書をする習慣は、この半年ほど続けている。歴史としてはごく浅い習慣で、そもそも私には読書習慣がほとんど無かった。気に入った本を延々と読み続け、どこに何が書いてあったかまで覚えてしまうタイプで、その本を覚えきってしまうと、なかなか次の本に行き着かない。
それでも少しは読書習慣を身につけたいな、と思い、本屋でジャケ買いのように手に取ったのが件の『時間は存在しない』だった。
ドキッとするタイトルと青い表紙に惹かれて読み始めたものの、途中から相対性理論が出てきてかなり難解で、それでも「そんな考え方があるのか」と、思考を往来しながら、読むこと自体を楽しんでいた。
分からなさと付き合いながら、自分だけの時間を味わう。そういう読書。
私は、「もはや睡眠薬」ということを、そういった時間を楽しんでいる、というつもりで夫に話したのだが、夫は「難しいことを理解したい」と捉えたのか、そんな一字一句眠気と戦わなくても、理解したいならもっと効率的な方法があるよ、と教えてくれた。
私としては早く理解したいわけではなく、むしろ分からないことを「分からないなぁ」と漂いながら楽しんでいたので、彼の提案は自分の味わい方を一足飛びに越えてしまう感覚だった。
私はゴールまでの景色を楽しんでいたのに、
彼はゴールまでの最短距離を提案してきた。
その違和感にセンサーが触れたのだ。
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先日、夫と愛犬と一緒に富士山までドライブした時のこと。私は、河口湖から西湖を通り本栖湖へ向かうルートを考えていた。帰りは街側を通って帰る予定。途中までは順調だったが、夫があるインターで道を間違え、帰りに通るつもりだったルートへ入ってしまった。
「あー、これだと街側を通っちゃう。そっちじゃない方に行きたかったのにな」と言うと「そっかごめんごめん、でもこっちの方が早く着くみたいだし、おんなじことだよ!」と、ご機嫌に返された。
この時も、またさざ波が立った。先の読書の話と同じ、結果最適化型の夫と、過程美学型の自分。
ところが。
仕事になると話が全く逆転する。
夫は写真関係の仕事をしているのだが、ある時知り合いの撮った逆光の朝靄が美しい写真を見て「こういう感じで撮りたいのが、どうしてもできない。もう1年くらい研究してるけど、なかなか良い方法に辿りつかないんだよね」と言うので、その知り合いの写真家が以前話していた方法ってこんなのだったよね、と話したら少し不機嫌になった。
仕事ならば、より効率的にゴールへ辿り着きたいのでは、と思って提案したことが、彼にとって、写真は仕事でありながら、評価や効率から自由でいられる場所なのかもしれない。
だから、上達法や最短ルートを提示されると、急に外部の尺度が入り込んでくる感じがして、無意識に避けたくなる。
一方私は、仕事に関しては効率一択だ。途中工程の楽しみなど殆どどうでもよく、外部の尺度を利用して効率が良くなるなら、一刻も早く取り入れたい。
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一人の人であっても、どんなことに対しても同じ尺度、同じ価値観で動く、ということは、実はそんなに無いのかもしれない。
物事によって、
これは効率重視、
これは体験重視、
これは結果より自由さを大切にしたい、
というふうに、領域ごとに別のモードがある。
その人が、そのものに対してどこに「自分の核」を置いているのか。
何に、自分の聖域を置いているのか。
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この数年で知り合った女性の友人がいる。彼女はとても親切な人で、何かと物を買ってきてくれるのだが、残念なことに、彼女とは食や物の好みが決定的に合わない。
彼女はナッツが好きだが、私はナッツが嫌い。
彼女はキャラクターグッズが好きだが、私はキャラクターものをひとつも持っていない。
さらには、何人かで食事に行くと、自分のところに運ばれてきた料理を、その場の人数で均等に分けようとする。
「いいから自分の頼んだものを好きなだけ食べなよ」と言っても、「おいしいから、みんなで食べよう」と言って聞かない。
彼女とは食の好みも違うので、取り分けられること自体が少し苦痛で、最近ではそのことに辟易してきて、さすがに今度何かもらったら、一度話してみようかなと思っていたくらいだ。
が、思うに彼女には、「何かしてあげたい」というところに聖域があるのかもしれない。
そして私は、もらったものであっても、「本当に自分の好きなものかどうか」というところに聖域がある。
彼女は「相手を思って選んだ自分」「何かしてあげられた体験」に聖域があり
私は「自分の空間を、本当に好きなもので満たすこと」に聖域がある。
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人はそれぞれ、色々なところに聖域を置いている。
その人が何を大切にしているのか、どこに聖域を置いているのかを思うことができたら、それぞれの境界線で優しく立てるのかもしれない。
そんなことを思いながら今日も窓の外を眺めている。雨が強くなってきたようだ。
