哲学と宗教はどう違うのか その2

先週末、仕事中の隙間時間を縫って『世界哲学史5』(ちくま新書)を読んでいたら、こんな記述に出くわした。

「最も広い意味で捉えれば、「神学(テオロギア)」とは「神について考え、語る学問」である。「それ自体で最善にして永遠の生命」である「神」を掲げるアリストテレスの神学は、「形而上学」すなわち「第一哲学」の別称であり、「神(々)」に関するストア派の理説は、彼らの哲学的コスモロジーの一部分をなしていた。いずれにしても、古代ギリシアにおいて、神学と哲学のあいだに強い緊張が走ることはない。両者の関係が問題と化すのは、つまり神学と哲学の隔たりが強く意識されるようになるのは、二つの学を、キリスト教文化圏に属する人々が担うようになって以降のことである。
 キリスト教信仰の屋台骨は、神の受肉や、キリストの復活と人類の救済など、人知の及ばない一連の教義によって形成されている。しかるに、「こういった超自然的な玄義に触れうるのは神学であって、哲学ではない。哲学の任務は、人間の自然本性に基づく理性が届く範囲に限られるのだから」。古代末期の教父であれ、中世以降の神学者であれ、このように考えない者は、たとえいたとしても、きわめて稀だろう。おのずと、彼らが神学と哲学の関係を問う場合、たとえば、神の啓示にかかる神学上の真理と、哲学的理性が見出す真理の関係を問う場合、区別を前提とした関係が問われることになる。
 本章では、しかし、この前提を自明なものとしすぎないように気をつけよう。神学もまた当然のことながら人がなす営みであり、哲学には、その生誕時から、人間の存在を超える何かへの志向が埋め込まれている。その何かを名指す言葉が西洋においては「神」であり、「神について考え、語る学問」という神学の字義は、哲学にもまたあてはまる。(後略)」(強調引用者、P.152-153)

前回の記事で哲学と宗教はどう違うのか、ということをどう説明したらいいのか考えあぐねてしまった訳だが、古代哲学に親しんでいる人であれば、引用した記述にあるようにアリストテレスやストア派の哲学観をすぐに思い起こすのだろう。彼らはキリスト教誕生以前の世界で、超越的な存在についても思索を深めたわけであって、その哲学の中で神について考えることはごく自然なことだったわけだ。

このくだりを読んで、ぼくは自分の哲学観が確かに(通俗的な)近代哲学にもとづくものだとあらためて気づかされた。"超自然的な玄義に触れうるのは神学であって、哲学ではない。哲学の任務は、人間の自然本性に基づく理性が届く範囲に限られるのだから"とごくふつうに思っていたからである。だが、少し考えてみると、デカルト(1596-1650)の哲学にはまだキリスト教の残滓があるが、カント(1724-1804)のあたりで…いや、カントは神の存在証明を試みているではないか...。スピノザ、ライプニッツ、カント、フィヒテ、ヘーゲル…誰もみな神について―超越的な存在について―考えをめぐらせている。うーむ、ライプニッツを除いて彼らについてはささやかではあるけれど、触れてきたつもりだったが...。ああ、(〃ノωノ)。穴があったら入りたい思いでいま胸がいっぱいである。

よくよく考えてみると、近代の西洋哲学にとって神の問題はけっして無縁ではない。そもそも自分を哲学という野道に引き入れたハイデガー自身、キリスト教の教義学に触れたうえで、哲学に転向したわけで、彼自身1936年から38年について執筆され死後公開された『哲学への寄与』で独自の神概念について、"存在"への思索と結びつくかたちで論じているではないか。。。10年ちょっと自分なりにいろいろと入門書や哲学書や論文を読み漁ってきたわけだが、おのれの哲学観の浅はかさに赤面の思いがする。仕方ない。ぼくはけっして知性鋭敏ではなく記憶力もすこぶる悪いので、おのれの至らなさにつねにつねに恥じ入りつつも、毎朝新しく生まれたような気持ちでこつこつとまた読書を重ね、自分なりの考えを推し進めていくしかないのである。

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