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ノンキとタオと、うつになったカズオ――猫と老荘の午後


はじめに:

 「役に立つこと」だけが人生の価値ではない。  けれど、いつからだろう。人は「役に立つこと」や「効率」を求められ、それをこなす者だけが「まとも」とされるようになった。役に立たない人間は、社会の迷惑者と見なされ、時に無言の排除の対象となる。頑張れないことは「甘え」として片付けられ、心を病んだ人は、なおさら「頑張り」が足りなかったのだと自己責任を強いられる。

 この本は、そんな時代の流れの中で、心をすり減らし、生きる気力を失ったひとりの男と、彼のもとに現れた二匹の猫との対話を通して、「休むこと」や「何もしないこと」に価値を見出すための物語である。

 猫たちは、老荘思想を体現する存在だ。キジトラのノンキは老子のように穏やかで達観し、茶白のタオは荘子のように自由で軽やかだ。彼らは言う、「頑張らなくてもいい」「使えなくても、そこにいていい」と。

 これは、現代の寓話であり、同時にあなたのための休息の本である。読むことで、誰かの肩の力が、ふっと抜けたなら、それだけでこの本はその役目を果たすだろう。

第一章 ねじと溶接と、静かな絶望

 カズオは今、無職である。五十三歳。貯金は底をつきかけていた。ハローワークから届いた封筒には、失業給付の終了を知らせる通知が入っていた。白い紙には機械的な言葉が並んでいるが、それが告げているのは、「あなたには、もう何の支援もない」という事実だった。

 カズオはかつて、中小企業の工場で働いていた。機械に部品をセットし、溶接を施し、完成した製品を確認する。単純だが、気の抜けない作業だった。間違えば事故になり、大手企業からのクレームにつながる。だから毎日、時間に追われ、数に追われ、人に追われていた。

 合理化、効率化。トヨタ式生産方式。無駄を排し、手間を省き、時間単位で生産量を最大化する。その流れに、カズオの職場も巻き込まれていた。若い派遣社員が間に合わなければ、ベテランのカズオが残業し、休日も働く。時には、契約終了を伝える役回りにもなった。心が痛んだ。だが、他に選択肢はなかった。生きるためだった。

 そんな生活を支える力となっていたのが、母の存在だった。父はカズオが二歳の時に自死した。理由は誰も語らなかった。ただ、母はいつも静かに働き、カズオに手をかけ、目をかけ、笑っていた。あの笑顔を守るためなら、いくらでも働けた。休む理由も、逃げる場所もなかった。

 だが、数年前。母が病気で亡くなったとき、カズオのなかで何かが途切れた。糸が切れたように、日常が崩れた。職場の音が耳に刺さるようになった。人の視線が、皮膚を焼くようになった。動悸が止まらず、胃がきりきりと痛んだ。気がつけば、朝、布団から起きられなくなっていた。

 病院では「うつ病」と診断された。

 それが、カズオの終わりのはじまりだった。  いや、もしかしたら、ほんとうの意味でのはじまりだったのかもしれない。

 頑張りつづけた結果、壊れた。  誰かの期待に応えるために、自分の声を聞かずに生きた。その果てに、自分自身がどこかへ消えてしまった。

第二章 二匹の猫がやってきた

 「おや、随分と肩がこっておるのう」

 聞き慣れない、けれど不思議と心地よい声だった。  カズオがぼんやりとベランダで煙草をくゆらせていた午後、声の主は姿を現した。キジトラ模様の猫。まるで長老のような落ち着きをまとった猫だった。

「誰だ……?」

「ノンキと申す。ただの猫じゃよ」

 翌日になると、もう一匹が現れた。茶白の、毛並みがふわりとやわらかそうな猫。こちらは目を細め、まるで笑っているような表情だった。

「おれはタオ。まあ、気にせんで。適当にやっとるだけじゃ」

 それからというもの、二匹はカズオの家に自然と居ついた。ときにベランダで昼寝をし、ときに押し入れに潜り込み、気がつけばそばにいる。

 ただの猫のようでいて、二匹の語る内容は、どこか哲学的だった。

「がんばらんでも、生きてはいけるもんじゃ」 「おまえさん、ようがんばったのう。がんばりすぎて、自分を見失っただけじゃ」

 ノンキの声は低く、ゆるやかで、時に諭すようだった。タオは軽口まじりに、時に夢の中のようなことを言った。

「この世はな、だいたい夢とおなじじゃ。いつの間にか始まり、ふっと終わる。だから深く考えすぎんでもええのよ」

 カズオは最初、戸惑った。だが、彼らの言葉は不思議と心に染み入った。

 「がんばらないこと」への、はじめての肯定。  それは、これまでの人生で出会ったどんな言葉よりも、あたたかかった。

第三章 役に立たないことの価値

 「無用の用、という言葉があるんじゃよ」  ノンキがぽつりとつぶやいた。

「むようの……?」

「用に立たんようでいて、実はそこに大きな価値があるということじゃ」

 ある日の午後、三人――いや、一人と二匹は縁側で日向ぼっこをしていた。タオは寝そべったまま、器用に毛づくろいをしている。ノンキは空を見上げ、何かを思い出すように語りはじめた。

「たとえば、大木があるじゃろ。真っ直ぐで枝打ちのしやすい木は早々に切られて、柱にされたり、舟にされたりする。じゃが、枝が曲がりくねって使い道がない木は、そのまま野に残る。誰にも刈られず、何百年も生き続ける」

「それが……無用の用、か」

「そうじゃ。役に立たんということで、かえって命が長らえる。なにも使われるばかりが幸せではないのう」

 カズオはその言葉に、胸のどこかがざわりと揺れた。

 工場で働いていたとき、彼は何度も「使える人間」と「使えない人間」の線引きを迫られた。納期に遅れる若手や、要領の悪い派遣社員には、厳しい言葉を投げたこともある。自分がその立場になるのを恐れたからだった。

 だが、その結果、何が残ったのだろう。  誰かを切り捨て、自分を守ったつもりで、心をどこかに置き去りにしてしまった。

「人はな、つい自分を“使われる存在”としてしか見られなくなる。けど、生きものは本来、“存在する”だけで充分なんじゃよ」

 ノンキの声は風に溶けるようだった。

「使えないことを、恥じなくていいんですか」

 思わず漏れた問いに、タオがくすっと笑った。

「猫を見てみい。誰の役に立っとる? 寝て、食って、歩いとるだけじゃ。でも、おまえさん、わしら見てるとちょっと安心するじゃろ」

 たしかにそうだった。  何の役にも立っていないはずの猫たちが、いるだけで不思議と心が安らぐ。それが、無用の用。

 カズオは少しだけ、深く息を吸い込んだ。

 自分もまた、「何者かにならなければ」と焦るばかりに、大事なことを見失っていたのかもしれない。  使われることから自由になること。それは、かつての自分にはなかった発想だった。

第四章 休むことは、怠けることじゃない

 午後の日差しが、畳の上に長く伸びている。  ノンキは丸くなって眠っていた。タオはあくびをしながら、カズオの隣に座った。

「なあ、カズオ。おまえさん、“何もしない”って、最後にいつした?」

「……何もしない?」

「そう。頑張るでも、考えるでも、意味を探すでもなく。ただ、ぼーっとしてるだけ。猫みたいに」

 カズオは答えに詰まった。記憶をたどっても、何もしないことに価値を見いだした経験はなかった。

 常に効率を考え、成果を求められ、休む時間でさえ「次に備える準備期間」とされてきた。

 そんな彼に、ノンキが寝返りをうちながら呟いた。

「休むことは、怠けることではないんじゃ。老子はな、無為自然と言った。“しないこと”が、いちばん自然で、強いんじゃよ」

 カズオはしばらく沈黙した。  なにかをしていないと、取り残されるような不安。  けれど、その不安の正体は、誰かに植え付けられた「恐怖」だったのかもしれない。

「わしら猫はな、何もしてないようで、ちゃんと“ある”んじゃ。寝てるときこそ、いちばん深く世界とつながっておる」

 タオが丸まりながら、目だけで笑った。

「“昼寝する勇気”って、ある意味では“生きる勇気”でもある。がんばらんで、ここにいる。それでええやん」

 窓の外では、風が枝を揺らしていた。  音もなく、ただ、揺れていた。

 カズオはふと目を閉じた。  時間に縛られない感覚。  世界が、自分を急かしていないという感覚。

 その午後、カズオは生まれて初めて、罪悪感のない昼寝をした。

第五章 自然と共に、生き直す

 カズオは最近、よく散歩をするようになった。  目的地はない。歩く速さも、その日の気分次第だった。

 ある日、小さな川のほとりに出た。  流れは緩やかで、魚の影がちらちらと見える。  その川をじっと眺めていたとき、タオがいつの間にか隣にいた。

「川って、いいよな」

 タオがぽつりと言う。

「流れてるけど、急がん。曲がりくねってるけど、ちゃんと進んでる」

 カズオは黙って頷いた。

「魚もええぞ。流れに逆らうときもあるけど、たいていは漂っとる。無理せんのや。流されるのも、泳ぐうちの一つや」

 ノンキが背後から現れて、続けた。

「風に揺れる草も、そうじゃな。逆らわず、委ねてるだけ。でも、しなやかで折れんのじゃ」

 自然のものは、どれも急がない。  それなのに、ちゃんと在るべきところに辿り着く。

 カズオは、胸の奥に風が通るような感覚を覚えた。

 歩くこと。  立ち止まること。  ただ景色を見ること。

 それらすべてが、生きるということの一部なのだと、少しずつ実感しはじめていた。

「おまえさんな、自然に還ってええんやで。無理して“人間らしく”おらんでも」

 ノンキの言葉に、カズオは思わず笑った。

「猫らしい猫に言われるとはな」

 風が頬をなでた。  その風もまた、どこかへ急ぐことなく、ただそこにあった。

 カズオのなかで、何かが音もなく、整いはじめていた。

第六章 母を思い出す午後

 陽の光が弱まりかけた午後、カズオは押し入れの奥から古いアルバムを取り出した。  埃を払うと、母の姿が写った写真が現れた。どれも、笑っていた。洗濯物を干す姿。こたつに入ってみかんをむく手。遠足のお弁当に入っていた、卵焼きの味まで思い出す。

 胸がきゅっと締めつけられる。  けれど、それは苦しさだけではなかった。

 ノンキがそっと、傍らに座った。

「ええ顔しとるのう、おまえさんのかあさん」

「……頑張って生きてた人だった」

「うむ。それで、いま、おまえさんは、頑張るのがつらくなった」

 カズオは黙った。

「思い出はな、持っとってもええ。でもな、抱え続けんでもええんじゃ。風に乗せて、流してもええ」

「忘れても、いいのか」

「ええんじゃ。忘れることは、裏切りじゃない。老子もな、“忘れる”ことを恐れなんだ。“無”のなかに、やすらぎがあると言った」

 タオが障子の影から現れて、にゃあと鳴いた。

「わしら猫はな、昨日のことなんぞ、もう忘れとる。大事なのは、“今”が気持ちええかどうかだけや」

 カズオは、ふっと笑った。

 母を想う気持ちは、確かにここにある。  けれど、それは、心の中に大事に置いておけばいいものだった。  握りしめて、苦しくなるまで忘れないようにする必要は、ないのかもしれない。

 アルバムを閉じると、窓からやわらかな風が吹き込んだ。  その風のなかに、母の笑い声が混ざっていたような気がした。

第七章 父の死に、手を伸ばす

 ある晩、カズオは珍しく夢を見た。  どこか知らない町の風景。小さな路地。古びた商店の軒下に、男が立っている。  その顔は、写真で見た若き日の父に似ていた。

 夢のなかで、父は何も言わなかった。ただ、こちらを見て、微笑んでいた。

 目が覚めると、胸が少しだけ痛んだ。記憶のなかの父は、ほとんど輪郭がない。二歳で亡くなったから、当然のことだった。

 台所で湯を沸かしていると、タオがやってきて、カウンターに飛び乗った。

「人ってやつは、思い出のないものほど、心に深く食い込んだりするんやな」

「……父のこと、たぶん、ちゃんと悲しんだこともないんだと思う」

「そやろな。悲しむにも、“その人”が要る。けど、おまえさんには“感覚”しか残ってへん」

 ノンキがストーブの前で伸びをしながら、話に加わった。

「荘子にな、“夢の中で蝶になった”という話があるじゃろ。彼は、夢の中で蝶になってひらひら舞い、そのあと目が覚めたときに、自分が荘子なのか、蝶だったのか分からなくなったと言った」

「……夢が現で、現が夢?」

「そう。生きているということと、死んでいるということ。どちらか一方ではなく、どちらもまた夢かもしれんということじゃ」

 タオがごろりと転がって言った。

「死んだ人もな、どこかでまた別の夢を見とるかもしれん。おまえさんの親父さんも、あの町の路地で、今でものんびり煙草でもふかしとるかもな」

 カズオは思った。  死は、終わりじゃないかもしれない。  思い出せなくても、語れなくても、そこに「あった」ということが、じゅうぶんなのかもしれない。

 そして、悲しめなかった自分を、もう責めなくてもいいのだと。

 風が通り、何かがほどけるように、胸がやわらかくなった。

第八章 音のない会話

 言葉がなかった日。ノンキもタオも、一言も発さなかった。  けれど、不思議とカズオの心は落ち着いていた。  静けさが、耳に染み込んできた。時計の針の音、風の揺らぐ葉の音、遠くの鳥の声。

 「聴く」という行為には、沈黙が必要なのかもしれない。  カズオは縁側で膝を抱えながら、そっと目を閉じた。

 何も語らない空間には、逆に多くのことが満ちていた。  自分の呼吸。胸の奥の小さなざわめき。押し込めていた感情の残響。

 老荘思想では、言葉よりも「無言の徳」が重んじられる。  語らずして伝わるもの、行わずして成されるもの。  カズオはそれを、猫たちの沈黙の中に感じていた。

 「聞こえるかの?」と、ようやくノンキが口を開いた。

 カズオは頷いた。

 「なんとなく……自分の中の声が」

 タオが小さく笑いながら言った。

 「それでええんや。外の声ばっか聞いてたら、自分の声、どっか行ってまう」

 その日、カズオは一言も話さずに一日を終えた。  けれど、胸の奥では、静かな対話が続いていた。

 「聴く」という行為には、沈黙が必要なのかもしれない。

 カズオは気づいた。自分の心の声を、ようやく聞けるようになっていた。

第九章 肩の力が抜けた朝

 朝、目が覚めたとき、なぜか身体が軽かった。  肩が、背中が、いつもより柔らかく感じた。  特別なことをしたわけではない。  ただ、ぐっすりと眠れただけだった。

 「ようやく、呼吸が自然に戻ってきたんやな」  ノンキが窓辺で陽に当たりながら言った。

 カズオは、いつものように顔を洗い、コーヒーを淹れた。  それが何だかとても丁寧な行為に感じられた。

 「頑張らないで、ただ起きて、ただ朝を迎える。それだけで十分や」  タオがあくび混じりに呟いた。

 カズオは、窓を開けた。風が、そっと部屋に入り込んできた。  外では鳥の声がして、木の葉が揺れていた。

 評価もない、成果もない、ただの朝。  それが、何よりもしみじみと、尊く思えた。

 「こういう朝が、人生を支えてくれるのかもしれないな」

 そう言って、カズオはノンキたちの横に腰を下ろした。  猫たちは、何も言わなかった。  ただ、それぞれのリズムで、静かな朝を生きていた。

第十章 風呂と湯気と、ほどける時間

 カズオは久しぶりに銭湯へ行った。  風呂桶の音、湯の注がれる音、人々の話し声。そのすべてが、懐かしく、やわらかく響いた。

 湯気が立ちこめる浴場で、カズオは湯に浸かった。  熱すぎない湯が、肩を、背を、足の裏まで、じわじわと包みこんでいく。

 ノンキの声が思い出された。  「湯気はな、かたちがないけど、いちばん芯まで沁みるんや」

 湯気のなかに、思考がとけていく。  心の緊張が、湯とともに流れていく。

 タオの声も浮かぶ。  「おまえさん、ようやく身体が自分のもんになったな。心ばっか先走ってたからな」

 そうだ。これまで、心ばかりが苦しんで、身体が置いてきぼりになっていた。

 湯からあがると、肌がゆるみ、視界が明るくなった気がした。  ロビーのベンチで牛乳を飲みながら、カズオはゆっくりと息を吐いた。

 「かたちがなくても、満ちているもの」  そういうものが、この世には確かにあるのだと、カズオは思った。

 それは、湯気のような思想。触れられないけれど、確かに沁みてくる何か。  カズオの芯の奥に、それはじんわりと届いていた。

第十一章 言葉にならない日々

 何も書けない。何も話せない。そんな日が、ぽっかり数日続いた。  朝起きて、ぼんやりと天井を見つめる。食べるものはあるし、眠れる。  でも、何かを言おうとすると、喉の奥が詰まったようになった。

 ノンキとタオは、何も言わなかった。  タオは縁側に丸くなり、ノンキはただ傍らに座っていた。

 「言葉にできん感情もある。それでも、ちゃんと感じてるんや」  ノンキの声は、まるで湯気のように静かに漂った。

 「無理に言わんでええ。感じてることは、ちゃんと伝わっとる」  タオはそう言って、にゃあと一声だけ鳴いた。

 カズオはそのとき、涙が出そうになった。  感情というものは、言葉にならなくても、たしかにそこにある。  老荘思想には、「名づけられぬ道(タオ)」という考え方がある。  言葉を超えて、ただ在ることを受け容れるという視点だ。

 数日後、ふとした拍子にカズオは一言だけつぶやいた。  「……生きてるな」

 誰に向けたでもない、かすれたその言葉が、静かな部屋に浮かんで、溶けていった。

 言葉にならない日々も、たしかに何かを育てていた。

 ノンキとタオは、何も言わなかった。  タオは縁側に丸くなり、ノンキはただ傍らに座っていた。

 「言葉にできん感情もある。それでも、ちゃんと感じてるんや」  ノンキの声は、まるで湯気のように静かに漂った。

 「無理に言わんでええ。感じてることは、ちゃんと伝わっとる」  タオはそう言って、にゃあと一声だけ鳴いた。

 カズオはそのとき、涙が出そうになった。  感情というものは、言葉にならなくても、たしかにそこにある。  老荘思想には、「名づけられぬ道(タオ)」という考え方がある。  言葉を超えて、ただ在ることを受け容れるという視点だ。

 数日後、ふとした拍子にカズオは一言だけつぶやいた。  「……生きてるな」

 誰に向けたでもない、かすれたその言葉が、静かな部屋に浮かんで、溶けていった。

 言葉にならない日々も、たしかに何かを育てていた。

 ノンキは、何も言わず、隣の縁側に座った。  「言葉にできん感情もある。それでも、ちゃんと感じてるんや」

 言葉にならない時間は、確かに何かを育てていた。

第十二章 仕事じゃない生き方を探して

 縁側に腰を下ろしたカズオの隣で、ノンキがしっぽを揺らしていた。

「おまえさん、これから何をしたいんじゃ?」

 その問いに、カズオは少し黙ってから首を振った。

「正直、もう“したいこと”が分からない。何をしても、また壊れる気がして」

 タオが、ごろんと寝返りを打ちながら言った。

「ほな逆に、“したくないこと”は?」

「……人を切り捨てる仕事。無理に笑うこと。数字に追われる毎日」

「ええ答えや。したくないことが分かれば、それを避けるだけでも生き方になる」

 ノンキが頷いた。

「世の中な、“働かんと生きていけない”って思い込まされとる。でも実際は、“少しだけ稼いで、あとは小さく暮らす”で充分じゃ」

「小さく……暮らす」

 カズオは、その言葉を口の中で転がした。

 無理に人と競わなくてもいい。  贅沢を手放しても、日々が穏やかであればそれでいい。

 毎朝起きて、味噌汁をつくって、風に揺れるカーテンを見る。  そんな暮らしに、価値はあるのか?  あるのだと、今のカズオなら思える。

「猫を見てみぃ。なんもせんのに、なんとなく満たされとる」

 タオの言葉に、カズオは笑った。

 社会が求める“働く人間像”に、自分を押し込めなくてもいい。  生き方は、もっと曖昧で、柔らかくていいのだ。

 小さくても、自分で選んだ暮らし。  それをひとつずつ、組み立てていこうと、カズオは思った。

第十三章 ノンキの昔話

 午後の陽が傾きはじめた頃、ノンキはぽつりと語り始めた。

 「昔な、山の奥に老猫がおってな。名前もなく、家もなく、ただ風の通る岩陰に暮らしてた」

 カズオはそのとき、縁側で湯呑を手に、ぼんやりと空を眺めていた。

 「その猫はな、何もせえへん猫やった。昼寝して、風の音を聞いて、たまに雨をなめる。食べるものは落ちてる木の実や、たまに通りがかる小動物が分けてくれる」

 「でもな、不思議なことに、誰もその猫を追い払おうとはせんかった。獣も人間も。あの猫は、そこに居るだけで、なんか調和しとったんや」

 タオが横から口をはさんだ。  「その老猫は、“しないこと”の名人やったんやろな。何もしないで、世界とずっと一緒におれた」

 「老子が言うてるやろ。『無為にして無不為』。何もせずとも、すべてがなされている。あの猫は、それを地で生きとった」

 カズオはしばらく沈黙し、目を閉じた。

 自分は、何かを成し遂げないと意味がないと思っていた。  誰かに認められないと、生きている価値がないと。

 けれど――

 ただそこにいるだけで、意味があるという生き方も、あるのかもしれない。

 ノンキは続けた。  「その猫がいちばん幸せそうやったのはな、雨の音を聞きながら、目を細めて寝とったときやった」

 雨の音。  それは、どこにも属さず、誰の命令も受けず、ただそこに流れている音。

 カズオは頬に感じた湿気に、静かな微笑をこぼした。  「……何もしてないけど、ちゃんと生きてるな」

 その言葉は、まるで遠くの風に乗って、老猫の耳元まで届いたような気がした。

第十四章 風を食べて生きる

 その日はなんとなく食欲が湧かず、カズオは縁側でただ風に吹かれていた。  空は澄み、風は静かだった。

 ノンキがぽつりと言った。  「昔な、風を食うて生きてた猫がいたんや」

 「風を……?」  カズオは聞き返した。

 「そうや。そいつはな、何も持たんかった。食い物も寝床も。ある日は木の陰、ある日は畑のあぜ道。食うもんがなければ、風を吸うて、生きとった」

 タオが目を細めて続けた。  「でもな、そいつは満ちてた。誰よりも、よう笑う猫やった」

 風を食べて生きる。そんなことができるのか、とカズオは思った。  でも、自分の胸に入ってくる風が、ふと温かく、どこか甘く感じられた。

 老子の言葉が浮かぶ。  「足るを知る者は富む」  満たされるのは、満ち足りようとしない者。

 風の中にあったのは、奪わない、求めない、ただ在るだけの豊かさだった。

 カズオは深く息を吸った。  何もしていないのに、なぜか心が充たされていく。

 風を食べて生きる——その境地に、ほんの少し触れた気がした。

第十五章 猫たちは風になる

 その朝、カズオが縁側に出ると、ノンキとタオの姿がなかった。  餌の皿はきれいに空で、庭のどこを探しても気配がなかった。

 あの二匹が突然現れた日のことを、ふと思い出す。  そして今、いなくなったことを、カズオは不思議と自然に受け入れていた。

「風になったんやな」

 自分でも、なぜそう言ったのか分からなかったが、その言葉がすっと胸に落ちた。

 ノンキとタオは、たしかにいた。  でも今は、風の中に、光の粒に、静かな余白の中に溶け込んでいる。  見えなくなっても、その存在は、カズオの中に残っていた。

 その日も、カズオはいつも通り起きて、味噌汁をつくった。  洗濯物を干し、窓から風を眺めた。  特別なことは、なにも起きない。  けれど、なにも起きないその日々こそが、カズオにとっては宝物だった。

 変わったのは、たぶん世界ではなく、自分のほうだ。  なにもしなくても、なにも証明しなくても、ここにいていい。

 「あなたのままで、いいんだよ」

 そう語る声が、風にまぎれて聞こえたような気がした。

 カズオはその声に、そっと微笑んだ。


第十六章 月のない夜

 眠れない夜、カズオは外に出た。  月がなかった。星もない夜。  「見えんもんは、怖い。でもな、それだけが夜やない」  タオの声がした。

 「光がないときこそ、耳がよくなる。心の目も、な」

 暗闇の中で、カズオは自分の鼓動を聞いていた。

おわりに

 この本は、「頑張れない」と感じているあなたに届けたくて書いた。  それは甘えではないし、逃げでもない。  むしろ、世界の重さに真正面からぶつかって、壊れてしまうほど真面目だった証なのだと思う。

 ノンキとタオは、老荘思想という、東洋の深い知恵から生まれた猫たちだ。  老子は「無為自然」を説き、荘子は「夢の中の蝶」として境界のない世界を描いた。  その思想には、いかに「しないで在るか」「意味づけを超えて生きるか」という、静かで力強い哲学がある。

 「頑張らないこと」は、怠惰ではなく、選択である。  「役に立たないこと」は、余白であり、豊かさの証だ。

 どうかこの本を読んで、少しでも心のどこかに風が通ったなら、それがノンキとタオの仕事だったのだと思ってほしい。

 そして、最後に問いかけたい。  いま、あなたのそばに、どこかに、猫はいませんか?

 もし見つけたら、その猫のしっぽの先に、きっと風が揺れているはずです。  その風に、そっと耳を澄ませてください。

 「あなたのままで、いいんだよ」

 そう囁いているかもしれません。


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