もし、明日が人生最後の日だとしたら(耳ビジnote部)
もし明日が人生最後の日だとしたら、何をするか。この問いには、旅に出る、家族と過ごす、といった答えが用意されている。だが私の答えは味気ない。いつもと同じ1日を過ごす。朝起きてコーヒーを淹れ、原稿を書き、夕方に少し歩き、夜は本を読んで眠る。特別なことは、何もしない。
達観ではない。悟りとも違う。覚悟でもない。ただ、いまに不満がないというだけのことだ。不満がなければ取り返すものがない。取り返すものがなければ、急ぐ理由もない。最後の日に人が慌てるのは、帳尻が合わないからである。
会っておけばよかった人。言っておけばよかった言葉。始めておけばよかった仕事。これらは、明日が最後だと知った瞬間に価値を持つのではない。ずっと前から価値があった。ただ後回しにしてきただけだ。最後の日とは、価値が生まれる日ではなく、後回しの請求書が一度に届く日である。届いてから払える請求書は、そう多くない。
だから私は、後回しをしない。会いたい人には会う。書きたいものは書く。礼を言うべき相手には、その場で言う。派手なことは何もない。むしろ地味な習慣である。だが、その日に届く請求書を減らせるのは、この地味さだけだ。最後の日の顔つきは、その日に作るものではない。それまでに支払ってきた分だけ、穏やかになる。
人生の大半は、何も起きない日でできている。良いことも悪いことも、そこにときどき混じる程度である。だから私は一喜一憂しない。振れ幅の大きい人は、何も起きない日を退屈だと感じる。しかし、その大半を穏やかに過ごせない人が、最後の1日だけ穏やかでいられるはずがない。退屈な日を退屈なまま大切にできるかどうかが、最後の1日の質を決める。
平常心とは、特別な精神状態ではない。日々の積み重ねが、そのままの形で表に出るだけのことだ。最後の日に何をするかは、その日に決めるものではない。それまでの日々が、すでに決めている。慌てないための準備をしていたわけではない。慌てる理由を、日々のうちに片づけてきただけである。
明日が最後だとしても、私は原稿を書いているだろう。書き終わらないかもしれない。それでも構わない。途中で終わることは失敗ではない。書き続けてきた時間は、書き終えたかどうかより、はるかに長いからである。完成した本より、書いていた朝のほうが、ずっと多く私の人生を占めている。
そう思えるようになったのは、たぶん、いまが悪くないからだ。
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