応援は、数年後に届く(耳ビジnote部)
「頑張ってください」と言われて、力が湧いたことがあるだろうか。
私はない。言った側に悪意がないことはわかっている。ただ、その言葉を受け取った瞬間、相手が自分の立っている場所から一歩も動いていないことも、同時にわかってしまう。励ましの言葉は、たいてい安全圏から発射される。応援とは本来、そういうものではないはずだ。
書評を書いている関係で、著者と話す機会が多い。彼らが本当に嬉しそうな顔をするのは、「面白かったです」と言われたときではない。「3章のあの一行が忘れられない」と言われたときだ。
評価されたから嬉しいのではない。読まれていたことがわかるから嬉しいのだ。前者は相手を採点している。後者は相手と同じ時間を通過している。立っている座標がまるで違う。
つまり応援の正体は、励ましの言葉ではない。継続的な観測である。
障害者支援の現場に40年関わってきた。ここで「頑張れ」は、ほとんど機能しない。頑張っている最中の人に頑張れと言うのは、走っている人に走れと言うのと同じだからだ。
では何が機能するか。去年と今年で何が変わったかを、本人より正確に覚えている人間がそばにいることだ。本人は自分の変化に気づけない。毎日を連続で生きている人間に、自分の変化は見えない。外から見ていた人間だけが、それを差分として持っている。
応援とは、その差分を保管しておく仕事である。
だから応援は、言った側が思うタイミングでは届かない。届くのは、たいてい数年後だ。本人が行き詰まったとき、誰かが言う。
「あのときのあれ、まだ覚えている」
その瞬間、過去の自分が証人つきで存在していたことになる。ひとりで積み上げたと思っていた時間に、目撃者がいた。
これは慰めではない。事実の追加である。慰めは時間とともに目減りするが、事実は減らない。
この仕事に資格はいらない。特別な言葉も、金も、立場もいらない。必要なのは、見続けることだけだ。ただし、これが最も難しい。励ますのは3秒でできるが、見続けるには年単位の時間がかかる。応援が安く見えるのは、多くの人が前者だけを応援と呼んでいるからだろう。
誰かを応援したいと思ったとき、私は言葉を探すのをやめることにした。代わりに、覚えておく。相手が忘れる前提で、こちらが覚えておく。
応援は、届けるものではない。預かっておくものだ。
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