🌈ハッピーアワー🔯003|予定のない午後が、いちばん贅沢だった
【予定がないのは、予定どおり】
日曜日の午後、オトキチは縁側の椅子に座り、お茶を飲みながら庭を眺めていました。
レイコ「じいさま、今日は何か予定があるの?」
オトキチ「ない」
レイコ「即答だね」
オトキチ「朝から予定どおり、予定がない」
レイコ「それは予定と呼ぶの?」
オトキチ「何もしないと決めて、それを立派に実行しておる」
レイコ「実行しているようには見えないけど」
オトキチ「何もしないことは、失敗しても誰にも気づかれん高度な仕事じゃ」
レイコがスマートフォンの予定表を開くと、今日の欄だけが真っ白でした。
レイコ「本当に何も入っていない」
オトキチ「空白ではない。余白じゃ」
レイコ「予定表まで芸術作品にするんだ」
オトキチ「予定を詰め込むだけなら誰でもできる。空けたまま我慢するのが難しい」
【休日まで忙しくしない】
レイコ「せっかくだから、買い物へ行く?」
オトキチ「行かん」
レイコ「映画は?」
オトキチ「二時間も画面を見続ける予定を、わざわざ入れたくない」
レイコ「カフェでお茶でも?」
オトキチ「今、飲んでおる」
レイコ「これは家のお茶でしょう」
オトキチ「店で飲めば八百円、ここなら数十円。庭の景色と静けさまで付いてくる」
レイコ「単なる節約では?」
オトキチ「違う。低価格で最高級の午後を手に入れる経営判断じゃ」
レイコ「急に税理士へ説明するような口調になったね」
レイコは、買い物、映画、カフェ、散歩を順番に提案しましたが、オトキチはすべて断りました。
オトキチ「予定のない午後に予定を入れたら、予定のない午後ではなくなる」
レイコ「それはそうだけど、少しくらい何かしたくならない?」
オトキチ「休みの日を充実させようとして、朝から晩まで予定を入れる人がおる」
レイコ「いるね。休日の予定表が仕事の日より忙しい人」
オトキチ「休むために疲れて、月曜日に休みたくなる」
レイコ「休日の運用に失敗しているね」
オトキチ「休日にまで成果を求めると、昼寝にも評価表が必要になるぞ」
【何もしないから見えるもの】
しばらく二人で黙っていると、風が庭の葉を揺らしました。遠くから鳥の声が聞こえ、雲の影がゆっくり地面を通り過ぎていきます。
レイコ「静かだね」
オトキチ「さっきから静かじゃった」
レイコ「気づかなかった」
オトキチ「予定で頭がいっぱいだと、静けさは入る場所がない」
レイコ「じいさまの頭には、ずいぶん広い空き部屋がありそう」
オトキチ「最近は入居者だった記憶まで、ときどき退去する」
レイコ「そこは笑っていいところ?」
オトキチ「家賃を払わず出ていった記憶じゃ。笑ってよい」
レイコはスマートフォンを伏せ、オトキチの隣へ座りました。
レイコ「何もしないと、時間がもったいなく感じることがある」
オトキチ「何もしない時間が無駄なのではない。何もしない時間にも、何かをしなければと焦るのがもったいない」
レイコ「珍しく、じいさまらしくない良いことを言った」
オトキチ「珍しくは余計じゃ」
【午後の最高級コース】
二人は、お茶を飲み、風の音を聞き、少しだけ居眠りをしました。買い物袋も映画の半券も残りませんでしたが、急かされない時間だけが、ゆっくり残りました。
レイコ「結局、本当に何もしなかったね」
オトキチ「見事な成果じゃ」
レイコ「成果物は?」
オトキチ「穏やかな気分」
レイコ「保存できる?」
オトキチ「心に保存した」
レイコ「じいさまの記憶装置、最近少し不安定だけど」
オトキチ「だから、お前にもバックアップを頼んでおる」
予定のない午後は、予定を入れ忘れた時間ではありません。誰にも急かされず、何者にもならず、ただ自分の時間を自分で使える――それは、意外に手に入りにくい日常の贅沢です。
レイコ「じいさま、夕方になったけど、夕食の予定は?」
オトキチ「もちろん入っておる」
レイコ「何もしない午後は終わり?」
オトキチ「食事は予定ではない。生命維持活動じゃ」
レイコ「急に働く理由が見つかったね」
オトキチ「ではレイコ、夕食を頼む」
レイコ「働くのは私なの?」
