【定年ドラマショートショート】「引き継ぎ専用アンドロイド」
エヌ氏は六十歳になり、長年務めた部長の座を退くことになった。翌日からは契約社員として、オフィスの隅にある小さなデスクへと移った。
そんな彼に与えられた最後の重要な任務は、後任への「業務引き継ぎ」だった。
しかし、その相手は人間ではなかった。人事部が連れてきたのは、最新の生成AIを搭載したマネジメント専用アンドロイドだった。金属とシリコンでできたその機械は、無機質な声で言った。
「エヌ前部長。これより、あなたの三十年分の業務経験、判断基準、および思考プロセスのすべてをディープラーニングいたします」
エヌ氏は激しい虚しさに襲われた。会社に捧げてきた人生のすべてが、ただのデータとして機械に吸い取られ、上書きされていく。自分の居場所はもうここにはないのだと、どこか絶望的な気分で引き継ぎを始めた。
「まず、主要な取引先との交渉術だが——」
アンドロイドは目を青く光らせた。
「その項目のデータは不要です。過去の契約書と財務諸表のログから、最も利益率の高い交渉ルートを0.03秒で算出しました」
「そうか……。では、毎月の予算管理のやり方は——」
「それも不要です。経理システムと直結し、一秒ごとに自動最適化されるプログラムを構築済みです」
効率に関わるデータは、すべてAIが自力で解決してしまっていた。エヌ氏は肩を落とした。
「これでは、私から教えることなど何もないじゃないか」
するとアンドロイドは首を傾げ、人工皮膚の眉をひそめて言った。
「いいえ。既存のデータログでは解析不可能な『エラー領域』が存在します。エヌ氏、以下の状況におけるあなたの行動データを要求します」
画面に提示された「最重要学習項目」を見て、エヌ氏は目を丸くした。そこには、経営や効率とはおよそ無縁な言葉が並んでいた。
『項目一:金曜日の午後三時に、部下のモチベーションを向上させるための「無駄な雑談」のプロンプト(指示文)』
『項目二:プロジェクトが炎上した際、取引先の怒りを六割減衰させる「お辞儀の絶妙な角度と、間の持たせ方」』
『項目三:失恋した部下の愚痴を居酒屋で聞く際、何杯目のビールで最も効果的なアドバイスを発揮するか』
「……これをお前が学ぶのか?」
エヌ氏が尋ねると、アンドロイドは大真面目に答えた。
「はい。当機がどれほど完璧な数値を提示しても、人間の部下たちのパフォーマンスは向上しませんでした。解析の結果、あなたの持つ『非効率で泥臭い人間味』こそが、この部署を円滑に機能させていた最大の隠しパラメータであると判明したのです」
エヌ氏は呆気にとられたが、やがておかしそうに吹き出した。
「なるほど。機械が完璧すぎて、人間がついていけないわけか。よし、それなら徹底的に教えてやろう」
それからの引き継ぎは、奇妙なものになった。
エヌ氏はアンドロイドを前に、「ため息をついている部下を見つけたときは、仕事の話より先に、最近観た映画の話から入れ」と教え、実際にやってみせた。アンドロイドはそれを真剣な目で観察し、内部のAIで懸命にシミュレーションを繰り返した。
「エヌ氏、これで合っていますか?」
少し猫背になりながら、なんとも言えない「すまなさそうな顔」でお辞儀をしてみせる。
「いや、まだまだだ。頭を下げるのが早すぎる。相手の目を見て、ひと呼吸おいてからだ。そのほうが誠意が伝わる」
夜遅くまで、オフィスの片隅で人間と機械の泥臭い特訓が続いた。機械に居場所を奪われたと思っていたエヌ氏の心は、いつしか奇妙な充実感で満たされていた。
数週間後、引き継ぎの最終日を迎えた。
新しい部長としてデスクに着いたアンドロイドは、完璧な数値管理を行うだけでなく、折に触れて部下たちに「最近、よく眠れているかね?」と、エヌ氏そっくりの絶妙なタイミングで声をかけるようになっていた。部署の空気は劇的に和らぎ、生産性も跳ね上がった。
荷物をまとめたエヌ氏がオフィスを去ろうとしたとき、アンドロイド部長が立ち上がり、歩み寄ってきた。
そして、教わった通りの、完璧な角度と「間」でお辞儀をした。
「エヌ前部長。あなたから学んだデータは、我が社のAIの歴史において最高の資産となりました。心より感謝いたします」
それを見た部下たちからも、温かい拍手がわき起こった。
エヌ氏は晴れやかな顔でそれに応え、オフィスを後にした。
肩書は消えた。しかし、彼がサラリーマンとして生きてきた証は、最先端のAIの中に、最も人間らしい温かさとして、確かに受け継がれていた。
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