時代が変わっても“人間”は変わらない──映画『ロリータ』を観て
ロリコンという言葉の語源にもなった小説を映画化した『ロリータ』を観た。
中年男性が美少女に惹かれ、最終的に孤独へと転落していく過程がシニカルに描かれている。
キューブリック作品の中では比較的わかりやすく、ハンバート教授を求めるヘイズ夫人、ロリータを求めるハンバート、そしてクィルティに憧れるロリータ──という“追う者・追われる者”の三角関係が明確に描かれており、それぞれの理想と現実のギャップがそのまま物語の構造になっている。
公開から60年以上経っている作品だが、ヘイズ夫人に宿る中年女性の哀しみ、己の女々しさと劣等感ゆえに幸福をつかめない中年ハンバート、若さと魅力という交換可能な価値を武器にしながら、本質的な精神的成長を逃していくロリータ──これらの人物像は現代の恋愛市場にもそのまま通じていて、結局「時代は変わっても、人間の醜さと愛の残酷さは変わらない」と改めて感じた。
また、『シャイニング』同様に原作との違いも大きいという。
原作者ナボコフは映画を批判したというが、怒りも最もであろう。
検閲対応のためにロリータの年齢は引き上げられ、性的な露骨さは排除された。さらに原作が徹頭徹尾ハンバートの一人称独白であり、「言語による自己正当化の恐ろしさ」を描いた作品だったのに対し、映画ではその“言語の魔力”が薄れ、より外側から眺める形になった結果、倒錯の生々しさよりも皮肉・滑稽・人間喜劇としての普遍性が前面に出る。
ナボコフが怒った理由はよくわかるが、
一方で“検閲によって倒錯を削られたことで、逆に普遍化してしまった”という皮肉も感じた。言葉で世界を捉えようとする原作に対し、キューブリックは「言葉に酔うことすらできない凡人の哀れさ」をあぶり出しているようでもある。
原作は未読のままだが、
“文学の内面”を“映画の外側”へ翻訳し、投影対象を広げてしまったキューブリックの手腕を確かに感じる一本だった。
