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会社を離れ「ただの孫」に戻れたお盆休み。肩書を外して見つけたもの (▶️ 🎧 解説あり)

祖母の座敷と、小さな見栄の捨て方


第一章 午後2時17分、「Wi-Fiないの?」

「えっ、ここWi-Fiないの?」

8月13日、午後2時17分。
岐阜県の山あいにある古い一軒家に到着し、玄関で靴を脱いだ直後だった。中学2年生の息子・悠真(ゆうま)が、スマートフォンを片手に父親を振り返った。今回の帰省で妻(早苗:さなえ)は、産婦人科に入院している。
3人目の子ども(娘)が誕生する予定だ。予定日は、お盆明けになる。

「たぶん、ないんじゃないか」

そう答えながら、藤崎直哉(ふじさきなおや)(45)は
自分のスマートフォンにも目を落とした。
画面右上のアンテナ表示は、辛うじて2本。
社内チャットアプリを開くと、すでに未読通知が十数件たまっていた。


直哉は、中堅食品メーカー『東フーズ株式会社』の
営業企画部長を務めている。

直近で推進しているZ世代向け健康志向スナックの全国展開に向け、
製造ラインのコスト調整、営業部門との折衝、
そして役員会への報告資料作成に追われる日々を送っていた。


部署内では「若手の意見を尊重する柔軟でスマートな上司」を演じていたが、上からの数字の圧力と部下たちの離職リスクの板挟みになり、内心は強い焦燥感に苛まれていた。

「直哉、よう来たなあ」

奥から小柄な祖母・澄江(すみえ)(83)が出てきた。
最後に来たのは、確か六年前。直哉にとっては、
幼少期に毎夏を過ごした思い出の家だったが、
今の直哉には心から寛ぐ余裕などなかった。


玄関から上がった瞬間、独特の香りが胸の奥を突いた。
乾燥した畳、古い木材、そしてかすかな蚊取り線香の匂い。

そこには、都市のオフィスにはない濃密な「生活の痕跡」があった。


「ゲーム、オンラインじゃないとできないんだけど」と
悠真が不満を漏らし、高校1年の長女・紗季が「じゃあ本でも読めば?」と冷たく返す。


そんな孫たちの様子を見て、澄江は柔らかく笑った。


「暇なら、暇でええがね。何にもない時間なんて、今しかないでしょ」


直哉はその言葉を軽く受け流しながら、
ポケットの中で微かに震えるスマートフォンに意識を向け続けていた。


第二章 机に載らない晩餐と、透けて見える本音

午後4時半。

台所から醤油と砂糖の甘辛い香りが漂ってきた。

「もう晩ご飯? まだ4時半だよ」と紗季が驚いた声を上げる。
居間の大きな座卓には、煮物、焼き魚、唐揚げ、冷やしトマト、そうめん、大皿の巻き寿司が隙間なく並べられていった。

さらに近所に住む叔父夫婦や従兄弟たちが集まり、静かだった家は総勢15人ほどの賑やかな熱気に包まれた。


「直哉、部長になったんだってな。大企業で部下をまとめて、大したもんだ」


叔父に酒を注がれ、直哉は曖昧な笑みを浮かべた。

「いや、大変ですよ。今の若手は価値観も違いますし、自分のやり方を押し付けるわけにもいきませんから」。

スマートな上司を装う返答だったが、
叔父は「上がビシッと言わなきゃ動かんろ」と
昭和の価値観を笑い飛ばした。


その場をやり過ごしながら、直哉の頭を占めていたのは一通の社内メッセージだった。

若手社員の高橋から届いた〈藤崎部長、休暇中すみません。例の企画の件、僕の提案はやっぱり甘かったでしょうか〉という文面。


直哉は高橋の斬新なアイデアを「実現性が低い」「上が納得しない」と
穏やかに却下したばかりだった。

自分では丁寧に対話したつもりだったが、
高橋の文面からは
「藤崎さんはいつも僕らの意見を聞くフリをして、
結局は上の顔色ばかり気にしている」という冷めた不信感が
透けて見えていた。


画面を見つめる直哉に、紗季が冷ややかな視線を向ける。

「お父さん、休みになってもずっと仕事?」

「仕方ないだろ、仕事なんだから」

つい語気が強くなり、気まずい沈黙が流れた。


澄江がそっと直哉の皿に里芋の煮物を置いた。

「直哉、これ好きやったやろ」。

口に運ぶと、柔らかく甘い昔通りの味が広がる。
その瞬間、畳の匂いや扇風機の音とともに、
幼い頃に時計も気にせず日が暮れるまで遊んでいた記憶が蘇った。


食後には、見たこともない透明で硬い和菓子や、
巨大な鉢に盛られた大量のスイカとぶどうが出てくる。
合理的とは言えない過剰なおもてなし。

だがそこには、「孫たちを喜ばせたい」という純粋な好意だけが存在していた。


第三章 サワガニの川と、見たことのない菓子

翌朝、6時前に目が覚めた。
息子が充電器を忘れ、居間にスマートフォンを置きっぱなしにしていた。

直哉は手持ち無沙汰のまま縁側に出た。

朝の静けさの中、庭でセミが鳴き、冷ややかな風が肌を撫でる。


同じく暇を持て余して起きてきた悠真を誘い、
直哉は家の裏手の細い道を歩いた。
「虫多すぎ」と不満を言う悠真と歩くうち、小さな川に辿り着いた。


「ここで昔、カニ捕ったんだよ」


直哉が石をひっくり返してみせる。

「いた!」。小さなサワガニを見つけた悠真の顔に、
画面を眺めている時には見せない鮮やかな笑顔が浮かんだ。

直哉はハッとした。

息子が自分と遊んでくれなくなったのではなく、
自分が一緒に過ごす機会を放棄していただけだったのだと気付いた。


家に戻ると、澄江が孫たちに小さなお小遣いの袋を手渡していた。


「ばあちゃんの楽しみなんだから、もらっときなさい」


そう笑う澄江を見ながら、直哉は思い至った。
祖母が差し出す大量の料理も、果物も、お小遣いも、
効率や合理性とは真逆にある。

「喜ぶ顔が見たい」という一点のための行動だ。


ひるがえって、自分は会社で部下に何を渡していただろうか。
数字、目標、納期、そして失敗しないための保身の言葉。
部下の意見を聞く「優しい上司」を演じながら、本当は自分が役員から叩かれないこと、嫌われないことばかりを気にしていたのではないか。


第四章 墓前で気づいたこと

午前10時、家族で山の斜面にある墓地へ向かった。
数分もしないうちに、「蚊に刺された」と悠真と直哉が腕を払う。

墓石を洗い、花を供える。

澄江がゆっくり手を合わせ、直哉も隣で手を合わせた。
十年前に他界した祖父は仕事一筋の人だったが、
直哉が社会人になった頃、一度だけ言われた言葉がある。


『仕事は大事や。でも、仕事だけでできた人間になったらあかんぞ』


当時は意味が分からなかった。

昇進し、評価され、家族を養うことこそが責任だと思っていた。


だが墓前に立ちながら、直哉は思った。
この十年、自分は何を残してきただろう。
会社では役職を上げ、成果を出した。
けれど、子どもたちは父親と過ごした時間を覚えているだろうか。
部下たちに、働くことの本当の喜びを伝えられていただろうか。


「直哉」


墓参りの帰り道、澄江が静かに言った。


「お前、ずっと心ここにあらずだねぇ。
人はね、自分一人で格好つけようとすると壊れるんだよ。
自分が何を守りたいのか、一番大事なものは何なのか、
ちゃんと自分の言葉で話さなきゃ、誰にも届かないよ」


直哉は言葉を失った。

祖母の見抜く眼差しに、
胸の奥のちっぽけな見栄が崩れ落ちていくのを感じていた。


第五章 午後1時05分、通知を閉じる

家に戻ると、スマートフォンに高橋からメッセージが届いていた。


藤崎部長、取引先の件ですが、
こちらで対応できそうです。
休暇明けに報告します


いつもなら「念のため詳細を共有して」と細かく介入するところだった。
自分が握りつぶすことでリスクを回避するのが責任だと思っていたからだ。


しかし、直哉はしばらく画面を見つめた後、静かに打った。


了解。
迅速に対応してくれてありがとう。
休み明けに教えて。


送信し、画面を伏せる。
たったそれだけのことで、胸のつかえが降りた気がした。


「お父さん、また川行こうよ」と悠真が呼ぶ。
外は暑く蚊もいるが、「行くか」と直哉は笑顔で立ち上がった。


夕方、車に荷物を積み込む時間になると、
「もう一泊すればよかった」と悠真も紗季も
名残惜しそうに言った。


「また来なさい。その“また”が6年後じゃ困るでね」と笑う澄江に、
直哉は「正月になったら、また来るよ」と強く答えた。


車が走り出す。
バックミラーの中で小さくなっていく祖母の姿を見ながら、直哉は思った。


人間は、便利なものがある場所で休むのではない。

「自分が何かを証明しなくてもいい場所」で休むのだ。

会社では部長、家庭では父親。

だがここでは、ただの「直哉」でいられた。

45歳になっても、
成果を出せていなくても、
ありのままを受け入れてくれる場所がある。

その原点を確認できただけで、再び現実に向き合う勇気が湧いてきた。


第六章 不完全な素顔で泥をかぶる

休み明けの月曜日。


直哉は会議室に高橋を呼び出した。
以前のような「余裕ある上司」の表情を捨て、
まっすぐに高橋の目を見た。


「高橋、先週はありがとう」


直哉は静かに頭を下げる。
高橋が驚いて目を見開いた。


「俺は上からのプレッシャーと自分の保身から、
君の提案を逃げの理由で却下した。
『上が納得しない』というのは俺の言い訳だ。
君の案には、今の我が社にない尖った魅力がある。
予算とスケジュールの壁をどう越えるか、俺も一緒に泥をかぶる。
もう一度、企画を練り直させてくれないか」


高橋は絶句していたが、やがて表情を緩め、小さく息を吐いた。


「……藤崎部長、最初からそう言ってくれればよかったのに」


「そうだな。格好ばかりつけていたよ」


その日を境に、部署の課題がすべて解決したわけではない。
役員会での説明は難航し、予算の削り合いは続いた。

しかし、直哉の態度から「見栄」が消えたことで、
チームの風通しは劇的に変わった。
部下たちは失敗を恐れずに意見を出すようになり、
直哉もまた、不完全な一人の人間として彼らと向き合うようになった。


第七章 縁側の風

秋の気配が漂い始めた10月の週末、直哉は再び車を走らせていた。


祖母の家につき、引き戸を開けると、あの懐かしい畳と蚊取り線香の匂いが迎えてくれた。


「あら、直哉。今日はお仕事かい?」


「いや、ちょっと風を浴びにね。お客さんの営業の帰りだよ。」


縁側に腰を下ろし、冷えたお茶を飲む。
庭の木々が風に揺れ、心地よい葉擦れの音が響いていた。


「お仕事は、うまくいってるのかい?」


「相変わらず毎日怒られてばかりだし、失敗も多いよ」


直哉は笑って答えた。


「そうかい。でも、良い顔になったねぇ」


澄江は嬉しそうに目尻を下げ、
いつものように「どこで売っているのか分からない」ような、
不思議な食感の和菓子を皿に載せて出してきた。


直哉はその和菓子をつまみ、ゆっくりと口に運んだ。


洗練されていなくても、不器用でもいい。
自分の足で立ち、自分の言葉で人と向き合っていく。
その覚悟があれば、どんな泥臭い日々も、愛おしいものに変えていける。


庭から吹き抜ける秋風を感じながら、
直哉は静かに次の仕事への想いを巡らせていた。


■今日の学び

  1. 「証明しなくていい時間」を作り、心の余白を取り戻す        常に成果や立場を証明し続ける環境からは、本質的な気づきは生まれません。意識的にスマホや仕事から離れ、役割を脱ぎ捨てる時間を作ることで、自分自身や家族、仕事に対する本当の価値観を取り戻すことができます。

  2. 効率や合理性を超えた「相手を想う視点」を持つ           祖母の過剰な料理やお小遣いのように、人の心を動かすのは効率ではなく「相手を喜ばせたい」という純粋な意図です。職場においても、単なる数値や指示のやり取りだけでなく、相手の成長や気持ちに寄り添う姿勢が信頼を生みます。

  3. 完璧な仮面を捨て、不完全な素顔で部下と向き合う          優れたリーダーとは、隙のない完璧な人物ではありません。自身の弱さや保身を正直に認め、泥をかぶる覚悟を示すこと、そして部下を信じて任せることで、チームは初めて自走し始めます。


■まとめ


日々の多忙さに追われる中で、私たちは無意識のうちに「効率」や「成果」だけを正義とし、自分を証明するための仮面を固定化させてしまいます。
しかし、祖母の家で過ごした何もない時間や、泥臭い人間関係の中にこそ、人生と仕事の重要な原点が存在します。
完璧な上司・父親を演じるのをやめ、不完全な自分を受け入れて一歩を踏み出した時、周囲との関係性は確かな温もりを持って変わり始めます。
あなたが守るべきものは、ちっぽけな見栄ではなく、目の前の大切な人たちとの誠実な時間です。


■今日の格言

「何もない時間の中で、人は『自分を証明する仮面』を脱ぎ捨てる。」


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