検証者の敗北——真贋を外注しつづけた写真の、その先で
「目が見えなくなっていく感じがする(I feel like I'm going blind.)」——世界一のディープフェイク鑑定人、ハニー・ファリド(Hany Farid)はそう漏らした。
20年以上デジタル画像フォレンジックの第一人者だった彼が、この半年、自分自身の判定テストにも失敗しはじめた。米国製ミサイルがイランの小学校を撃つ動画を100回以上見返し、ピクセルを数え、影の幾何学を測ってなお、本物とも偽物とも言い切れない。
写真の真実性は、はじめから「外注」の歴史だった。
指示対象が確かにあったという痕跡——ロラン・バルト(Roland Barthes)の「それはかつてあった」——を写真自身が担保できなくなると、真贋の判定は専門家の目へ、その目が追いつかないと検証機械へ、機械が速度に負けると来歴の制度(C2PA・「真実印」)へと、外注先を移してきた。前回わたしが書いたのは、その最後の一手についてだった。
ファリドの敗北が示すのは、制度の手前に立っていた「最後の人間の目」の退場である。
彼の父はEastman Kodakで50年働いた化学者で、ファリドは暗室で像が「証拠へと硬化していく(harden into evidence)」のを見て育った。いま彼が見るのは、「嘘が事実へと硬化する(A fake had hardened into a fact.)」光景だ。硬化は止まらない。
ただ、硬化する先が現実から切り離されただけだ。彼はカリフォルニアを離れ、バーモントの農場で薪を積んでいる。
写真評論家のフレッド・リッチン(Fred Ritchin)は自身のSubstackでこの記事に応じ、「本質的なレベルで、民主主義そのものが危機に瀕している(democracy is at stake)」と書いた。
その危機感を引き受けたうえで、美学の側から一言だけ添えたい。前作でわたしは、「それはかつてあった」と「それはあったかもしれない」が混ざり合うほうが写真を通した世界は豊かだ、と書いた。撤回はしない。
ただ補うなら——同じ混濁が、写真を芸術として見るときには豊かさに、証拠として見るときには破局になる。指示対象から像が切れるという一つの崩壊が、その像に「作品であれ」と求めるか「証拠であれ」と求めるかによって、正反対の意味を帯びる。
検証者が去ったあと、わたしたちは像の前にひとり残される。問われているのは、真贋を誰かに委ねることではなく、真贋が決定不能なままの像と、どう共に生きるかだろう。
