この堺川の片隅に|3つのお題に空想のひらめきを│第65回昭和ノスタルジー
こちらに参加させていただきました! ただの純愛ものだけでは物足りず、自分の育った街並みをそっと忍ばせてみましたので、少しばかり自己満足の色が濃くなってしまいました。──とはいえ、三つのお題は無事コンプリートできました! 素敵な企画にお付き合いさせて頂き、ありがとうございました!
とりあえず・・・・・寝よう!
序章 堺川に夕焼けが落ちるころ

昭和五十二年の秋、呉の夕暮れは、少しだけ錆びた色をしていた。
れんがどおりのアーケードを抜けると、潮の気配の混じった風がふっと頬をなでた。西へ出れば、蔵本通りの向こうに堺川が流れている。柳が揺れ、川面には屋台の灯りがちらちら映る。春なら桜がきれいだと大人たちは言うけれど、九月の終わりのその夜は、まだ夏を引きずるぬるい風のなかに、ほんの少しだけ秋の匂いが混じっていた。
高校三年の良介は、学校鞄を肩にかけたまま、川沿いをゆっくり歩いていた。
これから会うのは、同じクラスの真帆だった。
真帆は来月、父親の転勤で呉を離れる。
そのことを知ったのは、一週間前。
好きだと気づいたのは、もっとずっと前だった。
けれど良介は、何ひとつ言わないまま今日まできた。
れんがどおりの本屋の前でも。
帰り道に堺川の橋を並んで渡るときも。
蔵本通りの屋台から漂うラーメンの匂いに二人で笑った夜も。
ただ隣にいられるだけで、まだ間に合うような気がしていた。
だが、間に合う時間には、たいてい終わりがある。
待ち合わせは、堺川から一本入った、古い純喫茶だった。
窓辺に色ガラスの灯りがともる、小さな店。
レコードの流れる、少しだけ時代から置いていかれたような場所だった。
その夜のことを、良介はのちのち何度も思い出すことになる。
最終バスの赤い尾灯よりも、
言えなかった言葉よりも、
たったひとつ、溶けかけたクリームソーダの緑色を。
第一章 クリームソーダとさようなら

真帆はもう来ていた。
窓際の席。
セーラー服の襟をきちんと整えて、両手を膝に置いて座っていた。
その向かいのテーブルには、緑色のクリームソーダがふたつ。上に丸いバニラアイスがのって、そのてっぺんに赤いさくらんぼがひとつずつ、ちょこんと沈まずに耐えている。
「遅い」
真帆は笑った。
責める口調ではなく、いつもどおりの言い方だった。
「ごめん。れんがどおりの時計、少し遅れとった」
「言い訳が呉っぽいね」
「呉じゃけえ」
そう言うと、真帆は小さく吹き出した。
店のスピーカーからは、知らない歌手のフォークソングが流れていた。
壁にはギターのポスター。
ステンドグラス風のランプが、木目のテーブルにやわらかな影を落としている。
窓の外では、堺川の向こうの灯りが、少しずつ夜へ近づいていた。
二人はどうでもいい話ばかりした。
先生の癖とか。
文化祭で失敗した出し物のこととか。
れんがどおりの文房具屋がまた休みだったとか。
蔵本通りの屋台、今日は何軒出るんじゃろうね、とか。
本当に言いたいことだけを、きれいに避けながら。
「東京、すごいんじゃろうね」
良介がそう言うと、真帆はストローでソーダをひと混ぜしてから、 「知らん。まだ行ってないし」と言った。
「でも、すぐ慣れるよ、お前なら」
「そうかな」
「そうよ」
真帆はしばらく黙って、それから窓の外を見た。
「慣れたくないものも、あるけどね」
その言葉に、良介はうまく返せなかった。
アイスが少しずつ溶けて、緑のソーダに白い筋をひいていく。
時間というものは、案外こういうふうに見えるのかもしれないと、そのとき良介は思った。
止まっているようで、ちゃんと形を変えていく。
「良介」
「ん?」
「もしさ」
真帆はそこで言葉を切った。
視線だけが、一瞬、良介の顔に触れて、すぐグラスのほうへ落ちた。
「……ううん。なんでもない」
良介は「そっか」とだけ答えた。
ほんとうは、その先を待つべきだったのだろう。
なんでもなくないことくらい、わかっていた。
けれど、待てば何かが変わってしまいそうで、怖かった。
帰るころには、クリームソーダの氷は小さくなっていた。
テーブルの上には、水滴の輪がふたつ残っている。
店を出ると、夜風が少しだけ冷たくなっていく。
真帆は鞄を抱えなおして、 「じゃあ、バス停まで歩こうか」 と言った。
良介はうなずく。
二人は、並んで歩いた。
その短い道のりが、あの頃の二人に残された、最後の時間だった。
第二章 最終バスと君の背中

堺川にかかる橋のたもとに、呉市営バスの停留所があった。
小さな屋根。
古びたベンチ。
吊り下げランプの黄色い光。
貼り替えられた時刻表の端が、夜風にかすかに鳴っている。
橋の向こうには川。
柳の影。
蔵本通りの屋台の灯り。
もう少し先へ行けば市役所のほうで、さらに上流には古い橋がいくつもかかっている。
だが、その夜の良介には、目の前の停留所と、停まっている一本の最終バスだけが、この町のすべてのように見えた。
バスのエンジンが低く唸っていた。
雨上がりの舗道に、車内の灯りと赤い尾灯が、長くにじんでいた。
「ここでええよ」
真帆が立ち止まった。
「送っていかんでええん?」
「最終じゃもん。これ乗り遅れたら大変」
そう言って笑う顔が、少しだけ無理をしているように見えた。
良介は何か言わなければと思った。
今しかない、とも思った。
好きだ。
行かんでほしい。
手紙を書いてもええか。
また会えるよな。
待っとる。
なんでもいいから、胸の中にあるものをひとつだけ、声にすればよかった。
だが喉の奥で、言葉はどれも形にならなかった。
「じゃあ」
真帆はそう言って、一歩、バスへ向かった。
その背中を見た瞬間、良介は、自分がもう間に合わない場所に立っていることを知った。
「真帆」
やっと呼べたのは、名前だけだった。
真帆は振り返る。
けれど近づいてはこなかった。
「なに?」
その一言のやさしさが、余計につらかった。
良介は、結局、笑ってしまった。
情けないくらい、いつもの顔で。
「……元気で」
真帆は少しだけ目を細めた。
怒っているようにも、泣きそうにも見えた。
「良介も」
それだけ言って、彼女はバスに乗った。
窓際の席に座るかと思ったが、真帆は最後まで立ったままだった。
ドアが閉まる直前、ほんの少しだけ、こちらを見ていた気がした。
けれど、それも夜の光のせいだったのかもしれない。
バスはゆっくり動き出した。
濡れた道に赤い光を引きながら、堺川沿いを遠ざかっていく。
良介は、見えなくなるまで立っていた。
その夜、川風は少し冷たかった。
屋台の湯気が、どこか遠い季節のもののように漂っていた。
橋の名も、時間も、町のざわめきも、そのときの良介にはもうどうでもよかった。
ただ、最終バスの赤い灯りの向こうに、自分の言えなかった全部が乗って行ってしまった、と思った。
第三章 レコードのB面に君がいる

真帆がいなくなってから、呉の町は変わらないようでいて、少しずつ色を変えていった。
れんがどおりはいつもどおり賑やかな時間と静かな時間をくり返し、堺川は柳を映し、蔵本通りには夜になると屋台の灯りが並んだ。
変わったのは、良介の帰り道だった。
以前は、どこを歩いても「次に会う日」へ向かっていた。
今は、どこを歩いても「もう会えない日々」の中を歩いている気がしている。
十月のある日、真帆の友だちから紙袋を渡された。
「これ、真帆から。渡しといてって」
中には、一枚のレコードが入っていた。
夕焼け色のジャケット。
裏には、小さな丸文字で曲名が並んでいる。
あの日、喫茶店で流れていた歌手のレコードだった。
部屋に戻ると、良介は机の上のプレーヤーにそっと載せた。
針を落とす。
ざ、と小さなノイズ。
A面は、明るい歌だった。
海沿いの町で恋をして、いつかまた会えるよと笑う、そんな歌。
良介は最後まで聴かずに針を上げた。
レコードを裏返す。
B面は、静かな曲だった。
夕暮れの橋。
言えないまま終わった言葉。
遠ざかる乗り物の灯り。
置いていかれたほうの胸の音だけが、やけに丁寧に歌われていた。
良介は、その曲を何度も聴いた。
最初は、真帆を思い出すために。
次は、忘れないために。
そのうち、思い出さなくても胸が勝手に痛むようになってからも、なお。
B面が鳴ると、純喫茶の水滴の輪が見えた。
溶けかけのアイスが見えた。
「もしさ」と言って言葉を飲み込んだ、真帆の横顔が見えた。
最終バスの窓ガラス越しの、確かだったのか曖昧だったのかさえわからない視線が、また目の前に戻ってきた。
それから何年もたって、良介は呉を離れる。
就職して、別の町で暮らした。
恋をして、失って、働いて、歳をとった。
それでもレコードだけは捨てられなかった。
A面はほとんど傷がない。
B面だけが、少し白っぽくくたびれている。
まるで、人生というものが、表より裏でできているみたいだった。
第四章 伝票の裏に残ったもの

昭和が遠くなってから、良介は何十年ぶりかで呉に戻った。
駅前はずいぶん整っていた。
バスの色も、町の看板も、若いころとは変わっていた。
けれど堺川の水の流れ方だけは、昔のままだった。
れんがどおりを歩き、蔵本通りへ出る。
川沿いには相変わらず風が通り、柳が揺れ、夕方になると人の気配が少しずつ夜の匂いに変わっていく。
良介は知らず知らずのうちに、あの純喫茶の角へ向かっていた。
店は、まだあった。
看板の色は褪せていたが、窓辺の光は変わらない。
扉を開けると、年をとった店主が良介の顔を見て、少し考え、それから「ああ」と言った。
「昔、よう来とったね」
良介は照れくさく笑った。
窓際の席に座る。
あの日と、同じ席だった。
「クリームソーダ、まだありますか」
「ありますよ。若いころに飲んだもんは、年とってからも注文するんじゃね」
ほどなくして運ばれてきたグラスは、昔より少し小さく見えた。
たぶん、グラスが変わったのではなく、自分の時間だけが大きくなったのだろう。
良介は、持ってきていたレコードのジャケットを鞄から取り出した。
もう何度も触った紙の角は丸くなっている。
何気なく内袋を抜くと、その奥に、ぴたりと貼りつくように折りたたまれた紙切れが一枚、残っているのに気づいた。
こんなものが入っていた記憶はなかった。
慎重に開く。
それは、この店の古い伝票裏だった。
青いボールペンで、短く、たった一行だけ書いてある。
あの時、先に言ってくれたら、行かなくてすんだのに。
良介は、しばらく息ができなかった。
窓の外では、夜の堺川が静かに光っている。
橋を渡る車の音。
川沿いの灯り。
柳の影。
真帆も、言えなかったのだ。
自分だけが臆病だったのではない。
自分だけが取り残されたのでもない。
あの夜、テーブルを挟んで向かい合っていた二人は、同じだけ若く、同じだけ下手で、同じだけ本気だったのだ。
良介は伝票を持つ手を、そっとテーブルに置いた。
目の前のクリームソーダでは、白いアイスが静かに緑へ溶けていく。
何十年も遅れて届いたその一行は、レコードのB面よりも深く、静かに胸へ沈んでいった。
第五章 五月橋まで歩く

店を出たあと、良介は堺川沿いを上流へ歩いた。
蔵本通りの夜は、昔と同じようにどこか人恋しかった。
屋台の赤ちょうちんが等間隔に並び、湯気の向こうで誰かが笑っている。
若いころは、その笑いの輪の中へ簡単に入れる気がしていた。
いまはただ、外から眺めるだけで十分だった。
川にかかる橋をひとつ渡り、また戻り、さらに歩く。
花の名前を持つ橋も、季節の名を持つ橋も、この町にはよく似合う。
良介は最後に、少し大きな橋の真ん中で足を止めた。
たぶんこのあたりからも、昔、最終バスの灯りが見えたのだろう。
あるいは、見えていたと思い込んでいただけかもしれない。
記憶というものは、場所に似ている。
まっすぐ伸びているようで、途中で何本も分かれ、あとからどれが本当の道だったのかわからなくなる。
ポケットの中には、さっき見つけた伝票。
鞄の中には、B面ばかり擦り切れたレコード。
良介は橋の欄干に手を置いて、川面を見た。
夜の水は何も言わない。
言わないまま、古いことも新しいことも、同じ顔で流していく。
ふいに、向こう側の歩道に、セーラー服の背中が見えた気がした。
白い襟。
細い肩。
こちらを振り向かずに歩いていく、ひとつの気配。
もちろん、真帆なはずはない。
そんなことはわかっている。
それでも良介は、その姿が角を曲がって消えるまで、若かったころと同じように見つめていた。
そして、不思議ともう、追いかけたいとは思わなかった。
追いかけなかったことを、ずっと悔いてきた。
言えなかったことを、ずっと抱えてきた。
だが、今夜わかった。
自分たちは、失敗したのではない。
ただ、あまりにも若くて、ちゃんと好きだっただけなのだ。
風が吹いて、レコードジャケットの間から伝票が少し浮いた。
良介はそれを押さえ、胸のところへ抱え込む。
「遅いよな」
口に出してみると、声は意外なくらい穏やかだった。
堺川の水面に、橋の灯りが揺れていた。
遠くでバスの走る音がした。
それはもう呉市営バスの音ではない。
時代はとうに過ぎている。
それでも、あの最終バスの夜が消えたわけではなかった。
消えないまま、良介の中で、ようやく終わろうとしていた。
終章 B面の朝

翌朝、良介はもう一度、純喫茶へ寄った。
開店したばかりの店内には、まだ朝の光のほうが強くて、ランプの色は夜よりも控えめだった。
窓の外では、堺川の流れがうすい金色をまとい、柳の葉先が朝風に揺れている。
夜の屋台は姿を消し、道ばたには静けさだけが残っていた。
良介は、またクリームソーダを頼んだ。
朝に飲むには少し場違いな気もしたが、店主は何も言わなかった。
しばらくして運ばれてきたグラスは、昨日よりも澄んで見えた。
良介はレコードジャケットをテーブルに置き、伝票の裏の一行をもう一度だけ読んだ。
それから、そっと折りたたんで、元の場所へ戻した。
これから先、また何年も、この言葉を何度も思い出すだろう。
あの夜のことも、真帆の背中も、堺川の灯りも、きっと完全には消えない。
けれどそれでいい、と良介は思った。
人は忘れるためだけに年をとるんじゃない。
忘れられなかったことに、やっと置き場所を与えるために、時間が流れるのだ。
店の奥で、静かにレコードが回り始めた。
針が落ちる、かすかな音。
流れてきたのは、あの曲だった。
B面。
良介は目を閉じた。
もう胸は痛まなかった。
少しだけ、あたたかかった。
窓の外を、一台のバスが通っていく。
昔とは違う色の、今の町のバスだ。
その後ろを、自転車の高校生が追い越していく。
新しい朝。
新しい季節。
けれど、どこかで確かにつながっている、古い夕暮れ。
グラスの中で、アイスが少しだけ溶けた。
良介は、誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやいた。
「じゃあな、真帆」
それは、若い日の自分へ向けた別れでもあった。
堺川は今日も変わらず流れている。
れんがどおりには昼の人波が戻り、蔵本通りにはまた夜がくれば灯りがともるだろう。
そしてどこかの店で、誰かがレコードのB面をひっくり返し、
クリームソーダの泡の向こうに、言えなかった言葉をひとつ、見つけるのかもしれない。
――おしまい。
