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隣人|拝啓文芸部|壁の向こうの隣人

 二十六歳

ある朝、目が覚めると、部屋の真ん中に壁が生えていた。

昨日まで確かに一部屋だった俺の1Kが、朝には壁で仕切られていた。
俺は狭い方の側に閉じ込められている。
反対側には、キッチンも、玄関も、窓もある。
俺の側には、ベッドと、なぜか俺だけがいた。

壁を叩いた。
コン、と向こうから同じ音が返ってきた。

「誰だ」
「隣人です」と、俺の声が返ってきた。

俺はしばらく黙って、壁を見つめた。
もう一度、殴った。
向こうからも、同じ強さで、同じ場所を叩く音がした。
壁は、一ミリも動かなかった。

三日目になると、俺はベッドに寝転び、何もない天井を見上げていた。

コン、と壁が鳴った。

「まだいる?」と、向こうの俺が言った。
「いるよ」
「じゃあ、しりとりでもする?」

俺は思わず、少しだけ笑った。
それから七日間、俺たちはしりとりを続けた。

りんご。
ごりら。
らっぱ。
ぱんだ。

くだらない言葉を、壁越しに投げ合った。

八日目の朝。
目を覚ますと、壁は消えていた。
部屋は元通りの1Kに戻り、俺は一人だった。
ただ、壁のあった場所の床に、小さな染みが残っていた。

それは、「ありがとう」の形をしていた。

俺は、その日、初めて自分を「隣人」だと思った。
自分と一緒に暮らしていくことを、覚え始めた朝だった。

 五十四歳

あれから二十八年。
俺は結婚し、子どもが生まれ、その子はもう独立して家を出ていった。
妻は、俺の仕事の都合で、この春から半年間、実家の母親の介護のため関西に戻っている。

久しぶりの一人暮らしは、思ったより静かだった。

今住んでいるのは、築三十年の古いマンションの角部屋だ。
妙な間取りで、俺の寝室と隣の寝室は、壁を挟んで対称に配置されている。
夜、俺が電気を消すと、向こうも同じくらいの時間に消える。
俺が咳をすると、向こうも咳をする。

ある夜、俺は壁に向かって、手を三回叩いた。

パン、パン、パン。

しばらくして、パン、パン、パン、と向こうから返ってきた。

次の日、リズムを変えてみた。
パパン、パン。
同じ音が返ってきた。

俺は思わず笑った。顔も知らない相手なのに、この人といつか会ってみたいと思った。

管理人に、それとなく隣人のことを訊いた。

「あちらは、独身の男性ですよ。あなたと同じくらいの年齢の。ずっと一人で、静かに暮らしていらっしゃいます」
「趣味とかは?」
「さあ。ただね、あちらの方も最近、『隣人が真似してくる』って、私に訊きにいらしたんですよ」

俺は、その夜、壁の前に立った。
向こうも、同じ時刻に、壁の前に立った気配がした。

どちらが本物で、どちらが鏡なのか。

俺は、壁に手を当てた。冷たい掌の感触が、向こう側からも返ってきた気がした。

二十八年前、狭い部屋の壁の向こうにいた「俺」を、俺はまだ覚えている。
あの時のしりとりのおかげで、俺はここまで歩いてこられた。
妻がいないこの半年の静けさの中で、俺はもう一度、あの頃の孤独の匂いを、この壁越しに嗅いでいる。
人はいつだって、隣に、誰かの気配を必要としている。

 七十二歳

妻を亡くして三年、俺は言葉を失くしていた。

娘は心配して電話をくれるが、俺の返事は「ああ」か「うん」か「大丈夫だ」の三択に絞られていた。
喋る相手が家にいないと、人は喋り方そのものを忘れていく。
妻がいた頃、俺があんなに寡黙だったのは、彼女がよく喋る人だったからだ。今になって気づいた。

五十四歳のとき、あの拍手の壁のマンションに妻が戻ってきた。
そこで俺たちは十五年、また二人で暮らした。子どもや孫が遊びに来て、妻が病気になってからは、俺が毎日病院へ通った。
妻を看取ってから、俺はその部屋を出て、この静かな古いアパートに越してきた。

ある夜だった。
壁の向こうから、コン、と音がした。

最初は空耳かと思った。だが、コン、コン・コン、と、明らかにリズムを持って続く。
試しに、俺もコンと返してみた。

沈黙のあと、コン・コン、と返ってきた。

それから、俺と隣人の「会話」が始まった。
名前も顔も知らない。ただ、夜十時になると、俺たちはノックし合った。
おはよう、おやすみ、今日は雨、コーヒーが切れた。

半年ほど経ったある日、俺は管理人に尋ねた。

「隣、どんな人が住んでるんだね」
「あちらの部屋は、一昨年から空室ですよ」

俺は、その夜、壁の前に座り込んだ。

コン、と、いつも通り向こうから音がした。
空室のはずの、その壁の向こうから。

俺は震える手で、コン、と返した。
コン・コン、と返事があった。

妻は生前、俺が帰ると必ず「おかえり」と壁越しに声をかけた。
台所にいても、風呂場にいても。

俺は壁に頬をつけて、ゆっくり、一つだけ、叩いた。

コン、と返ってきた。

「おかえり」の音だった。

俺は、その音を聞きながら、二十六歳のあの朝の、床の染みを思い出していた。
あの「ありがとう」の形をした染みを。

あの朝、俺は壁の向こうの俺と、七日間、しりとりをした。
五十四歳のあの半年、俺は壁の向こうの誰かと、拍手のリズムを交わした。
七十二歳の今夜、俺は壁の向こうの妻と、モールスで話している。

人は生涯に、幾度も壁の前に立たされる。
そのたびに、壁の向こうから、誰かがそっと叩き返してくれた。

自分だったこともある。他人だったこともある。もう会えない人だったこともある。
どれも、皆、俺の隣人だった。

俺は、もう一度、壁を、そっと叩いた。

コン、と、返ってきた。

俺は、少し笑った。
言葉は、少しずつ、戻ってきていた。

隣人|拝啓文芸部|壁の向こうの隣人___了

#拝啓文芸部 #壁の向こうの隣人

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