やさしくいたくて、言えないことが増えていった
「大丈夫です」と答えたあとで、大丈夫ではなかったことに気づくことがある。
頼まれた仕事を引き受ける。
予定を変更する。
相手の希望を優先する。
その場では、断るほどのことではないと思う。困っているなら力になりたいし、わざわざ空気を悪くしたくもない。
けれど、同じことが重なると、心の奥に小さな不満がたまっていく。
どうして、こちらの都合は気にしてくれないのだろう。
なぜ、いつも自分ばかりが譲っているのだろう。
そう思いながらも、次に頼まれると、また笑って「大丈夫です」と答える。
相手にやさしくしているつもりで、自分の中には、その人を責める言葉が増えていた。
今回の言葉に触れて引っかかったのは、やさしさと厳しさを反対側に置かなくてもいい、という感覚だった。
私は長いあいだ、はっきり言う人は冷たいのだと思っていた。
相手の事情を思うなら、少しくらい我慢できる。
関係を壊したくないなら、言わなくてもよいこともある。
不満を表に出さず、穏やかに受け入れることを、思いやりだと考えていた。
けれど、言わないことで守られていたのは、相手の気持ちだけではなかった。
嫌われたくない自分。
面倒な人だと思われたくない自分。
関係が揺れる瞬間を見たくない自分。
沈黙の中には、やさしさと一緒に、私自身の怖さも隠れていた。
以前、一緒に働いていた人に、誰からの頼みも断らない人がいた。
彼女は相手の変化によく気づいた。困っている人がいれば声をかけ、忙しい人の仕事を自然に引き取った。
周囲は彼女を、気配りのできる人だと話していた。
私もそう思っていた。
ただ、彼女はときどき、誰もいないところで深いため息をついた。
自分の仕事が終わらず、遅くまで残る日が増えた。それでも翌日には、いつものように笑っていた。
あるとき、引き受けていた仕事のひとつで、小さなミスが起きた。
頼んだ側は、「無理なら言ってくれればよかったのに」と言った。
その言葉を聞いた彼女は、急に黙った。
無理だと言えない空気をつくったのは、そちらではないか。
いつも頼んでくるのに、今になって自分の責任にするのか。
そんな思いがあったのだと思う。
けれど彼女は、それも口にしなかった。
「すみません。次から気をつけます」
そう答え、また仕事へ戻った。
しばらくして、彼女は会社を休むようになった。
誰かと大きく争ったわけではない。ひどい言葉を向けられたわけでもない。
ただ、言わなかったことが積もり、自分が本当はどう感じているのか、本人にもわからなくなっていた。
復帰したあと、彼女は以前より頼みごとを断るようになった。
といっても、迷いなく断れたわけではない。
「今日は難しいです」と伝えたあとで、相手の表情を何度も思い返した。嫌な感じに聞こえなかったか。もっと別の言い方があったのではないか。
断った仕事を、結局あとから手伝ったこともあった。
それでも少しずつ、自分の都合を話すようになった。
今は何を抱えているのか。
どこまでならできるのか。
引き受けるなら、何を後ろへ動かすことになるのか。
彼女の言葉が増えると、関係がぎくしゃくする場面もあった。
以前のようにすぐ応じない彼女を、不満そうに見る人もいた。やさしくなくなった、と感じた人もいたかもしれない。
だから、はっきり伝えることが、すぐに心地よい関係をつくるとは限らない。
言葉にすれば、違いが見える。
相手の希望と、自分の希望が重ならないこともある。どちらも譲れず、話が止まることもある。
けれど、何も言わずに応じ続ければ、その違いは消えるのではなく、見えない場所に残っていく。
そしてある日、相手が知らないまま、関係の重さになって現れる。
やさしさとは、相手を不快にさせないことだと思っていた。
今は、それだけではないように感じている。
相手の気持ちを想像しながら、自分の気持ちも、同じ場所から追い出さないこと。
相手の事情を聞きながら、自分の事情にも声を与えること。
その二つが並ぶと、会話は少し難しくなる。
どちらか一方だけを優先したほうが、結論は早い。
相手に合わせれば、その場は穏やかに終わる。自分の考えを押し通せば、望んだ結果を手にしやすい。
両方を残そうとすると、簡単な答えがなくなる。
わかってあげたい。
でも、引き受けられない。
関係を続けたい。
でも、同意はできない。
その間に立つことは、どちらかを選ぶより、不安定なのかもしれない。
世界は変わっていない。
断れば残念そうな顔をされることがある。率直に話せば、空気が硬くなることもある。
それでも最近は、その硬さをすべて関係の失敗とは思わなくなった。
何も言わずに笑っている時間より、少し気まずくても、二人がそこにいる時間に感じられることがある。
あのころの「大丈夫です」は、本当に相手を思っていたのだろうか。
それとも、自分の声を聞かずに済む、いちばんやさしそうな隠れ場所だったのだろうか。
