予定を見直すたび、戻っていく場所がある
予定表を開くことが、少し怖い時期があった。
そこには、まだ終わっていない仕事が並んでいる。先送りにした用事も、返せていない連絡もある。昨日の自分が残したものを、今日の自分が引き受けるような気がして、開く前から肩に力が入った。
予定を確認するというより、自分の遅れを確認していたのだと思う。
空いている場所を探して、終わらなかった予定を移す。入りきらなければ、休むつもりだった時間を小さくする。そうやって整え直した予定表は、見た目だけはきれいになった。
けれど、不思議と安心はしなかった。
予定が多いから苦しいのだと思っていた。けれど、いくつか減らしても、同じような息苦しさが残った。
今回の言葉を読んでいて引っかかったのは、予定表を見直すという、ありふれた行為だった。
そこに書かれているのは、これから何をするかだけではない。
なぜ、それをしようと思ったのか。
誰との時間を残したかったのか。
どんな自分で、その一週間を過ごしたかったのか。
予定を立てたときには確かにあったはずの気持ちが、日々の出来事に押されて、少しずつ見えなくなっていく。
だから見直すことは、遅れを取り戻すためではなく、予定の奥にいた自分へ戻ることなのかもしれない。
以前、一緒に仕事をしていた人が、頼まれたことを断れずに困っていた。
彼女は周囲をよく見ていた。誰かが忙しそうにしていれば、声をかけられる前に手伝った。急な依頼にも、できる限り応えた。
その姿は頼もしく見えたし、実際、多くの人が彼女を頼りにしていた。
ただ、本人の予定はいつも後ろへずれていた。
考える時間を取ろうとしても、誰かの相談が入る。早めに帰ろうとしても、残っている人を見ると席を立てない。家に帰ってから自分の仕事を進め、疲れたまま次の日を迎えていた。
あるとき彼女は、ずっと準備していた企画を見送ることになった。
能力が足りなかったわけではない。時間がまったくなかったわけでもない。
時間はあった。ただ、その時間を、目の前で困っている誰かに少しずつ渡し続けていた。
企画を見送ると決めたあと、彼女は「私が選んだはずなのに、選んだ感じがしない」と言った。
その言葉が、長く残った。
私たちは一日の中で、いくつものことを選んでいるように見える。
頼まれた仕事を引き受ける。連絡に返事をする。誰かの都合に合わせて予定を動かす。
けれど、その場に応じることだけが続くと、自分が選んでいるのか、出来事に選ばされているのか、境目がわからなくなる。
彼女はその後、頼みごとをすべて断るようになったわけではない。予定を厳格に守る人になったわけでもない。
ただ、予定表を見るときに、その日の都合だけではなく、一週間を決めたときの自分を思い出すようになった。
なぜ、この企画に時間を使いたかったのか。
なぜ、この人と話したいと思ったのか。
なぜ、ここには何も入れずにおこうとしたのか。
理由を思い出しても、予定を変更する日はある。
急な依頼を引き受けることもあるし、自分のために残した時間を誰かに渡すこともある。
以前と違うのは、変更する前に、ほんの少しだけ間が生まれたことだった。
その間に、仕事をする自分だけでなく、学びたい自分や、家族と過ごしたい自分や、何もせずに休みたい自分も姿を現す。
誰かひとりの声だけで一日が決まらなくなる。
頭の中で細かく損得を計算したわけではない。それでも、自分の中にいるそれぞれの声が聞こえてくると、不思議と順番は見えやすくなったという。
何を優先するかは、いつも同じではない。
ある日は仕事が前に出る。別の日には、一通の返事を書くことが、ほかの予定より重く感じられる。疲れた身体を横にすることしか選べない日もある。
その揺れをなくすことが、整うということではないのだろう。
むしろ揺れながら、その都度、自分の中心がどこにあるのかを感じ直す。
予定表は、そのための静かな窓のようにも思える。
外の出来事は、こちらの計画を知らずにやってくる。
予定外の連絡も、気持ちの変化も、突然の疲れもなくならない。一週間は、最初に描いた線のとおりには進んでくれない。
それでも、予定を見直すたびに、自分が何を願ってこの時間を組み立てたのかへ戻ることはできる。
何かを削る日もある。順番を変える日もある。あえて残した空白が、そのまま消えてしまう日もある。
それは計画から外れた時間ではなく、そのときの自分が、もう一度選び直した時間なのかもしれない。
今日の予定を眺めているその人は、予定を立てたときの自分と、どんな話をしているのだろう。
