確率論的自我(私が「私」である確率と、「私」が「あなた」と再会する可能性)
量子力学の「関係し合う前の素粒子の存在は定まっておらず、確率としてしか表すことが出来ない」という説を聞いて、「意識していないときの自我(魂)も、どの時点の、どの身体に位置するか定まっておらず、意識するという関係性があるときのみ、ある時点の、ある身体に位置が定まるのかもしれない」という妄想が湧いてきました。
この妄想を使って、永井均の「何故、この「私」は、別の時代の他の人ではなく、この時代の、この私として存在しているのか?」という問題について考えてみると、「今、この私として、この世界や、自分自身を意識したから」ということになります。
つまり、「私(魂)」は、意識する・される前は、全ての時点の、全ての身体に位置し得る確率論的な存在の仕方をしており、ある時点の、ある身体において「意識する」という働きがなされたとき、その時点の、その身体に位置が定まると考えることができます。
自我(魂)以外の記憶等は、自我(魂)と一緒に移動できませんので、ある自我(魂)が、ある身体から別の身体に移動しても、その自我(魂)が参照し得る過去の記憶は、その身体が経験して来たことを材料に作られた記憶です。よって、その自我(魂)は、どの身体に定まった場合も「私は以前から、この身体に宿っている」と感じます。
つまり、私は、「あなた」だったかもしれません。
そして、きっと「あなた」は過去、現在、未来の全ての時点に存在する全ての命あるものです。
(ひょっとしたら生物・無生物の区別も、人間が勝手に決めた主観的なものかもしれません…。その場合は「全ての命あるもの」ではなく、「全て」ですね。)
また、量子力学では「量子のもつれ」といって『もつれあい、状態がリンクした素粒子同士は、どれだけ距離が離れても、状態がリンクし続ける。片方の状態が確定したら、何万光年離れていても、もう片方も、その瞬間に、状態が確定する。つまり、光より早く「情報」を伝えあっている。』という現象が観察されるそうです。
これをヒントに、更に妄想すると、一度でも誰かと、お互いを、かけがえのない存在として愛しあったならば、いいかえると、マルティン・ブーバーの「汝と我」のように、お互いを、かけがえのない存在として認めることで、魂がふれあい、「もつれ」あった者同士は、どれだけ離れていても、光より早く、「再会」できるのかもしれません。
つまり、遥か昔に、この世を去った恋人達の魂も、本当にお互いをかけがえのない存在として愛しあっていたならば、玄宗皇帝と楊貴妃のように、比翼の鳥、連理の枝となって、再会できるのかも…と妄想してます。
追記:一度、量子のもつれを起こした素粒子同士は、ずっと状態がリンクし続けると思ってたのですが、さっき人口知能に訊いたら、実際の宇宙では、量子もつれを起こした後、離れ離れになった素粒子は、他の素粒子との相互作用の影響により、その量子もつれによるリンクを、すぐにかき消されてしまうそうです。
別れた恋人達が、他の人達と交流しているうちに、相手のことを思い出さなくなるようなものですかね?
合唱で歌った「あの素晴らしい愛をもう一度」のようなことが素粒子の世界でも起こっていたとは…。か、かなしい…。
(てか、「あの素晴らしい愛をもう一度」って、幸せそうな恋人達を、やっかんでた周りの人達が「別れやがった。ざまぁみろ。」って気持ちで歌ってる曲のような気がするんですよね…。歌詞の「二人の心は、今はもう通わない」のところとか、すごい嬉しそうじゃないですか?)
