「なんで漫画描いてるの?」――実写映画『ルックバック』を観て、人間が担うものを考えた
映画『ルックバック』を観た。
原作の漫画も、2024年に公開されたアニメ映画も観ていない。
だから自分にとっては、今回の是枝裕和監督による実写映画が、『ルックバック』との最初の出会いだった。
前半、ずっと泣いていた。
何にそんなに心を動かされたのか、自分でもすぐには言葉にできなかった。
秋田の空気なのか。
人と人との交わりなのか。
誰かの心が、誰かとの出会いによって動き出していくことなのか。
観終わってからもずっと気になっていて、いろいろ考えているうちに、自分がこの映画から受け取ったものが少しずつ見えてきた。
忘れないうちに残しておきたいと思う。
※ここから先はネタバレを含みます。
『ルックバック』とは
『ルックバック』は、『チェンソーマン』『ファイアパンチ』などで知られる漫画家・藤本タツキさんによる読み切り漫画。
2021年に「少年ジャンプ+」で発表され、2024年には押山清高監督によって劇場アニメ化。そして2026年9月11日、是枝裕和監督・脚本・編集による実写映画版が公開された。(にかほ市観光協会)
物語の中心にいるのは、漫画を描く二人の少女、藤野と京本。
漫画が得意で、自信家でもある藤野。
そして、人と関わることが怖く、学校にも行かず家に引きこもっている京本。
まったく違う二人を、漫画がつないでいく。
この作品は、どうして生まれたのか
あとから調べて知ったのだけれど、原作者の藤本タツキさんは、『ルックバック』を構想する中で、偶然読んだ本にあった、
「死と和解できるのは創造の中だけだ」
という趣旨の言葉が強く印象に残り、それを作品の軸にしようと思ったと語っている。(シネマトゥデイ)
最初、この言葉を読んでも自分にはいまひとつ意味が分からなかった。
でも映画を思い返していくと、少し分かるような気がしてきた。
この物語では、取り返すことのできない出来事が起きる。
どれだけ願っても、過去そのものを変えることはできない。
「もしあの時、違う選択をしていたら」
「もし出会っていなかったら」
「もし別の未来があったら」
人はそう考えてしまう。
映画の中でも、現実とは違う「もしもの世界」のようなものが描かれる。
そこでは、現実ではもう変えることのできない出来事が、別の形をとる。
もちろん、創作によって現実の死を消すことはできない。
悲しみがなくなるわけでもない。
でも創造の中では、もう一度その人と出会ったり、違う可能性を描いたり、起きてしまったことを別の角度から見つめ直したりすることができる。
もしかしたら、
死と和解するというのは、死を納得することでも、忘れることでもなく、取り返せないものを抱えたまま、それでもその出来事と共に生きていける形をつくっていくことなのかもしれない。
そう考えると、この言葉が『ルックバック』全体を貫いているように感じた。
なぜ是枝裕和監督は、この作品を実写化したのか
是枝裕和監督が『ルックバック』に出会ったのは、コロナ禍だった。
映画制作が止まり、自分がやってきた映画という仕事さえ「不要不急」とされる状況の中で、
自分に何ができるのか。
これまでやってきたことは何だったのか。
そんなところまで立ち止まって考えざるを得なかったという。
その時に『ルックバック』を読み、
同じように立ちすくみながら、それでもまた描き始める人がいる。
その姿に励まされると同時に、叱咤されたような感覚を持ったと是枝監督は話している。(映画.com)
これを知って、すごく納得した。
藤野も、創作そのものを否定したくなるようなところまで追い込まれる。
「描かなければよかった」と思ってしまってもおかしくない。
それでも、また描く。
その姿を、
「映画をつくることに何の意味があるんだろう」
と立ち止まっていた映画監督が見た。
だから『ルックバック』は是枝監督にとって、単に感動した漫画ではなく、
「それでも、お前はつくるのか?」
と、自分自身に問い返してくる作品だったのかもしれない。
是枝監督自身も、この作品との出会いによって「もう一度映画を作ってみよう」という気持ちが蘇ったと語っている。そして藤本タツキさんへの感謝を、自分ができる「映画」という創造の形で返そうとした。(映画.com)
考えてみると面白い。
京本が藤野によって動き、
藤野が京本によって動き、
是枝監督が『ルックバック』によって動き、
そして、その映画を観た自分も動かされている。
誰かが表現したものが別の誰かに届き、その人の行動や新しい創造を生んでいく。
『ルックバック』という作品そのものが、作品の中で描いていることを現実世界でも起こしているように思えた。
秋田県にかほ市で撮られた映画
今回の実写版は、原作者・藤本タツキさんのふるさとでもある秋田県にかほ市で、四季を通して撮影された。(にかほ市観光協会)
これは秋田出身の自分には大きかった。
秋田訛り。
雪。
家の中の空気。
人との距離感。
どんぶくを羽織り、髪をボサボサにした京本。
自分が育った場所とまったく同じというわけではない。
でも、スクリーンの中に流れているものに、
「知っている」
という感覚があった。
前半ずっと泣いていた理由の一つには、自分の身体の中に残っている秋田の記憶も関係していたのかもしれない。
物語について
主人公の藤野は、小学生の頃、学級新聞に四コマ漫画を描いている。
周囲から絵の上手さを褒められ、自分でも自信を持っていた。
そんな藤野の前に現れるのが、学校には来ない同級生・京本。
京本も四コマ漫画を描いていた。
しかも、圧倒的に絵が上手い。
藤野は大きなショックを受ける。
そこから必死に絵を練習する。
もっと上手くなりたい。
追いつきたい。
でも、なかなか追いつけない。
そして一度、漫画を描くことをやめてしまう。
そんな二人が初めて直接出会うのが、小学校の卒業の日だった。
先生に頼まれた藤野が、京本の家に卒業証書を届けに行く。
そこで藤野が描いた四コマ漫画が、風に揺られて京本の部屋に入っていく。
それを見た京本が、部屋から飛び出してくる。
ここが、自分にとって一番大きく心を動かされた場面だった。
部屋から、そして自分の内側から飛び出した京本
京本はずっと、人が怖くて家から出られなかった。
学校にも行けない。
人と会うことも怖い。
ずっと自分の部屋に閉じこもって、絵を描いていた。
そんな京本が、藤野が来たと知った瞬間、外へ飛び出す。
藤野を追いかける。
そして、
ずっと漫画を読んでいたこと。
どれほど楽しみにしていたのか。
どれほどすごいと思っていたのか。
どれほど尊敬していたのか。
もう伝えずにはいられないような勢いで話す。
どんぶくを羽織って、
髪はボサボサで、
秋田訛りのまま。
あの場面を見て、自分は号泣した。
なぜそんなに泣いたのか。
少しずつ分かってきた。
京本は、
「外に出なきゃ」
「勇気を出さなきゃ」
と、自分を無理やり奮い立たせて出てきたようには見えなかった。
それ以上に、
伝えたいものが溢れてしまった。
ずっと内側にあったものが、
藤野本人が目の前に現れた瞬間、
もう抑えられなくなった。
人が怖いとか。
外に出られないとか。
そんな壁さえ突き破って、
伝えずにはいられなくなった。
だから飛び出した。
自分にはあの姿が、
単に「引きこもっていた女の子が外に出た」ということではなく、
自分の内側から飛び出した瞬間
に見えた。
そして、なぜかそこに、自分が感じてきた秋田の心が重なった。
もちろん、
「秋田の人はみんなこうだ」
という話ではない。
あくまで、自分の中にある秋田のイメージ。
人前に出るのが得意ではない。
感情を簡単には表に出さない。
何かあっても耐える。
耐えて、
耐えて、
耐えて。
じっと内側に抱えている。
だけど、
ここぞという時には、
それまで溜め込んでいたものが一気に爆発する。
喜びも。
悔しさも。
誰かを大切に思う気持ちも。
「これだけは伝えたい」というものが生まれた時には、もう止められない。
不器用でもいい。
格好が整っていなくてもいい。
言葉が上手じゃなくてもいい。
人が怖くてもいい。
それでも、
本当に伝えたいものが生まれた時、人は自分を閉じ込めていた壁を突き破って外へ出ることができる。
その姿が、たまらなく切なくて、美しかった。
そしてもしかすると自分はそこに、
閉じているように見える秋田の中にも、本当は爆発するほどの想いやエネルギーがあるんじゃないか
という、自分自身の願いまで重ねていたのかもしれない。
だから、あんなに泣いたんだと思う。
一本の線を引くことは、決断すること

もう一つ強く残っているのが、小さい二人が漫画を描く姿だった。
鉛筆で下書きをして、
その上からペンで一本一本、線を入れていく。
鉛筆なら消すことができる。
でも本番のペンを入れたら、簡単には戻れない。
それを見ながら、
一本一本が、決断と覚悟の連続なんだ
と思った。
何時間もかけて描いてきたものが、一本の線を間違えただけで台無しになるかもしれない。
実際に、失敗して描いた紙を捨てる場面もある。
思うように描けない。
嫌になる。
やめたくなる。
それでもまた描く。
描いて。
失敗して。
捨てて。
また描く。
また。
また。
また描く。
その姿を見ているうちに、
「絵が上手いな」
ということ以上に、別のことが気になってきた。
なんで、そこまでして漫画を描くんだろう。
誰かに強制されているわけではない。
楽なわけでもない。
失敗すれば、それまでの時間が全部無駄になったように感じることもある。
それでも、なぜまたペンを取るんだろう。
なぜ漫画を描きたいと思うんだろう。
人に認められることは、そんなに格好悪いことなのか
映画の中で、担任の先生が、
「人は誰かに褒められるのが一番嬉しい」
というような趣旨のことを話す場面があった。
正確な言い回しは覚えていない。
でも、その言葉も残った。
自分はこれまで、
「人から認められるからやる」
「褒められるからやる」
ということに、あまりいいイメージを持っていなかった。
承認欲求で動いているように見えたり、
他人に依存しているように感じたり、
少し格好悪いもののように思っていたところがある。
でも、この映画ではそう見えなかった。
京本は、藤野の漫画をずっと見ていた。
楽しみにしていた。
尊敬していた。
それを直接伝える。
藤野は、それによってまた漫画を描き始める。
それは単純に、
「褒めてもらったから気分がよくなった」
ということではないように感じた。
自分が一生懸命つくってきたものを、誰かが本当に受け取ってくれていた。
自分の表現が、
誰かの中に届いていた。
誰かの人生を動かしていた。
それを知ることによって、
藤野自身も、自分の中にあったものにもう一度気づく。
人間は、一人だけで完結して存在しているわけではないんだと思った。
人は未熟な状態で生まれる。
誰かに育てられ、
人と関係を結び、
助けられ、
助け、
影響を受けながら生きていく。
誰かとの関係の中で初めて見える自分もある。
誰かが自分を見てくれることで、自分自身に気づくこともある。
それは全部が依存というわけではなく、
人間が人間として存在することの一つの姿なんじゃないか。
そんなふうに感じた。
少し切なくて、
でもすごく美しかった。
言葉ではなく、心が伝わってくる
映画の表現そのものも、とても好きだった。
登場人物たちは、自分の心を全部言葉で説明するわけではない。
視線。
表情。
身体の動き。
沈黙。
間合い。
カメラのフォーカス。
音。
音楽。
そういうものによって、
「あ、今この人の心が動いた」
と感じ取れる。
京本に褒められた藤野も、
「嬉しい」
「また漫画を描きたい」
と全部言葉にするわけではない。
でも、表情や動きや音楽によって伝わってくる。
そこがすごく美しかった。
言葉で説明すると、意味はある程度限定される。
でも非言語の表現には余白がある。
その余白に、観ている自分自身の記憶や感情が入ってくる。
だからこそ、
説明される以上に深く入ってくることがある。
人間の心は、全部言葉で説明できるものではない。
言葉になる前の動き。
視線。
間。
音。
身体。
一本の線。
そういうものに、人の心や意志が現れる。
『ルックバック』を観ながら、
そんな表現の美しさも強く感じた。
「どう描くか」は、これからどんどん変わっていく
そして映画を観ながら、今のAIの時代のことも考えた。
小さい頃の藤野と京本は、紙と鉛筆とペンで漫画を描く。
一本間違えたら、やり直しになる。
もっと上手く描きたい。
もっと速く描けるようになりたい。
そう言いながら、技術を磨いていく。
やがて連載が決まる頃には、デジタルデバイスを使って漫画を仕上げていくようになる。
映画の中で描かれている技術の変化はそこまでだった。
でも、その先にある2026年の今、
AIは急速に進化している。
描く。
直す。
色をつける。
構図を考える。
画像を生成する。
これまで何時間も、何日もかかっていた行為が、さらに効率化され、自動化されていく。
NVIDIAのCEO、ジェンスン・フアンは2026年、AIによる変化を、仕事がtaskからpurposeへ移っていくものとして語っている。AIが個々のタスクを担うようになればなるほど、「その仕事は何のためにあるのか」が重要になる、という考え方だ。(NVIDIA Blog)
これが、『ルックバック』と重なった。
「なんで漫画描いてるの?」
物語の終盤、京本が藤野に尋ねる。
「なんで漫画描いてるの?」
その言葉を聞いて、
自分もずっとそれが気になっていたことに気づいた。
どうやったら上手く描けるのか。
どうやったら速く描けるのか。
どうやったら効率的につくれるのか。
そういう「どうやって」は、技術によってどんどん変わっていく。
AIによって、これから大きく変わるものもある。
でも、その手前にある。
なぜ描くのか。
何のために漫画をつくるのか。
何のためにAIを使うのか。
何のために仕事をするのか。
何のために、この現実をつくりたいのか。
自分は何のために存在して、何をしようとするのか。
手段がどこまでも便利になっていくからこそ、
むしろこの問いが、人間に返ってくるように感じた。
AIにも絵は描ける。
文章も書ける。
音楽もつくれる。
これから「人間にしかできない作業」を探し続けることは、どんどん難しくなっていくのかもしれない。
だからこそ、
何を目的として、その力を使うのか。
そこがますます重要になるのではないかと思う。
藤野は、言葉では答えなかった
印象的だったのは、
「なんで漫画描いてるの?」
と聞かれても、藤野はきれいな答えを言葉にしなかったことだった。
いろんなものを失う。
後悔する。
もし漫画を描かなかったら。
もし京本と出会っていなかったら。
そんな別の可能性まで考える。
それでも最後、
藤野はまた机に向かう。
泣きながら、
もう一度ペンを取る。
自分にはあの姿が、
「なぜ描くのか」という問いに、言葉ではなく存在で答えている
ように見えた。
全部理解したからでもない。
悲しみがなくなったからでもない。
正解を見つけたからでもない。
それでも、
また描く。
理由を完全に説明できなくても、
気づけばそこへ向かっている。
描かずにはいられない。
伝えずにはいられない。
そういうものが、人の中にはあるのかもしれない。
人間は、何のためにこの力を使うのか
AIがこれからどこまで進化するのか、自分には分からない。
今まで人間だけができると思っていたことを、AIが次々とできるようになるかもしれない。
だから、
「これは人間にしかできない」
という境界線を、能力や作業だけに置くことは難しくなっていくと思う。
その時、人間に問われるものは何なのか。
今の自分には、
存在理由を決めること。
行動の理由を決めること。
何のために、その力を使うのかを決めること。
そこがとても重要に感じる。
ただ、その「自分」も一人で完成しているわけではない。
京本が藤野を動かしたように。
藤野が京本を部屋の外へ連れ出したように。
是枝監督が『ルックバック』によってもう一度映画をつくろうと思ったように。
人と出会い、
受け取り、
返し合う中で、
自分は何をしたいのか。
何のために生きたいのか。
それに気づいていくこともある。
AI時代になればなるほど、
「何ができるのか」以上に、
「私は何のために、それをするのか」
という問いが大きくなるのかもしれない。
そして、その問いへの答えは、
必ずしも最初から言葉になっているわけではない。
京本が部屋から飛び出したように。
藤野がまたペンを取ったように。
内側に溜まったものが、
ある時、
もう抑えられなくなって、
行動になることもある。
『ルックバック』を観て、
自分はそんなことを考えた。
まだ全部を言葉にできた感じはしない。
なぜ前半、あんなに泣いたのかも、
きっとまだ他にも理由がある。
それでも今は、
人の内側には、外へ出ずにはいられなくなるほどの想いがある。
そのことを、この映画から受け取った気がしている。
そしてそれは、
自分が秋田に対して感じていることとも、
どこかでつながっている。
閉じているように見えても、
その内側には、
まだ外に出ていないだけの、
大きな想いやエネルギーがあるのかもしれない。
その心が何かと出会い、
「もう伝えずにはいられない」
となった時、
人は動く。
その瞬間を、
自分はもっと見たいと思った。
