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一記事書きたかっただけなのに

あらすじ

元テレビADの黒木真琴は、明るさだけで現場に放り込まれ、空回りし、はしごを外され、東京を離れて福岡へ帰ってきた。三十歳が見えるいまも、バイトを転々とする日々。
そんな真琴に、大学の先輩・早見薫が声をかける。看護師の転職を支援するWebの仕事だった。やがて真琴は「記事を書く」ことに出会い、ある検索キーワードの前で立ち止まる。
「看護師 やめたい」。
検索すると、なぜか「やめたい理由」を並べた記事ばかりが並んでいる。やめたい本人が一番わかっているはずの理由を、なぜ人はわざわざ検索するのか。検索の向こうにいる、たった一人に届けたい。誰かの「やめたい」に寄り添う物語。


2018年4月

自分の呼吸の音が、やけに大きい。

百人くらいだろうか。パイプ椅子に座ったスーツの群れが、静かにこっちを見ている。壇上はやけに明るくて、足元のリノリウムが光を弾く。手元の原稿に、白すぎる蛍光灯が照り返す。

「新入社員を代表いたしまして、ご挨拶申し上げます。」

声が、思っていたよりもまっすぐ出た。語尾を上げない。早口にならない。ゆっくり、まっすぐ。棒読みにならないよう、やわらかく。

「新緑のまぶしいこの季節に、伝統あるこの会社の一員として迎えていただけることを、心より光栄に思っております。」

直前までは緊張で頭の中が騒がしかったが、今は水を打ったように静かだ。こういうときは、うまくいく。

「私たちがこれまで、テレビというものに、どれほど励まされ、笑わせてもらい、勇気づけられてきたか。数えきれません。」

どうして、わたしなんだろう。

同期には、もっとすごい人がたくさんいた。学生時代に自主制作の映画を撮って賞を獲った人。地方局でアルバイトをして、現場をもう知っている人。有名な脚本家の名前を、家族の話みたいに口にする人。それに比べたら、わたしが大学でやっていたことなんて、学園祭でちょっとした映像を流したくらいのものだ。あんなに一生懸命だったのに、終わってみると、ちっぽけに思える。「放送研究部」って、何だったんだろう。

「テレビは、人の人生に寄り添うメディアだと、わたしは信じています」

自分で書いた一文なのに、読み上げると、どこか知らない人の言葉みたい。

面接のとき、役員の人が言ってくれたことが、妙に印象に残っている。

「きみは明るいね。明るいのは良いよ。その素質は、この仕事で、いちばん大事なものかもしれないね」

これは、わたしの明るさへの期待なんだろうか。才能とか、知識とか、そういうものじゃなくて。わたしが持っている、たぶん唯一のもの。物心ついたころから、まわりの大人に「明るい子だね」と言われ続けてきた、それだけ。

「新入社員代表、黒木真琴。」


読み終わる、ちょうどそのタイミングで拍手が起きた。壇上から見下ろすと、最前列の役員たちがうなずいている。その中の一人と、目が合った。面接で「明るいね」と言ってくれた、役員の人だ。実はまだ名前を覚えていないのは内緒だが。彼は小さく笑って、もう一度うなずいた。

きっとここでやっていける。明るさだけで、ここまで来られたし、何よりもそんなわたしを認めてくれたのはこの会社だ。これからも、明るさを失わずに、がんばっていこう。

わたしが入ったのは、ディ・ギルド・プロダクションという制作会社だった。業界の人は、ただ「ギルド」と呼ぶ。キー局の看板番組をいくつも抱えていて、視聴率がどうとか、あの演出はギルドだとか、テレビ業界の話で、当然のように名前が出る。テレビをつくる会社はたくさんあれど、その中でも、名前を言えば通じる。そういう会社だ。

だから、内定が出たとき、お母さんは電話の向こうで二回聞き返した。

「ほんとに? まこが? ギルドに? 芸能人と結婚できるんやないん?」

「ばか、そんなことあるわけなかろうが」

あ、お父さんもいるんだ。やっぱり初任給は何かプレゼント買ってあげないとだなぁ。

ディレクター・樫山剛

研修は、思っていたより長かった。

最初の何日かは、外部の業者によるマナー研修。名刺の渡し方、お辞儀の角度、電話の取り方。スーツを着た講師が、どこの会社でもやっているような話を、よどみなくしていく。同期たちと一緒に名刺交換の練習をしながら、わたしは、早く現場に出たいな、とぼんやり思っていた。

そのあとが、本番だった。

各局で活躍するプロデューサーや、現役のディレクターが、毎日入れかわり立ちかわり、わたしたちの前に立って、いろんな話をしてくれる。

「さすが」と思った。みんな、話がとにかく面白い。今まで聞いてきた「面白い話」とは、格が違う。あの番組の裏でこんなことがあった、あのタレントは実はこうだ、この演出はこういう意図だった。教室みたいな会議室が、毎回、笑いに包まれた。わたし自身も「面白い人」に近づけたような、そんな錯覚もあった。

わたしは、自分がその世界の入り口に立っていることが、誇らしかった。テレビをつくる人たちが、きらきらした話を、たまにぎらっとさせながら話す迫力に、心をときめかせていた。

「今日は私たち、ギルドで活躍するディレクターのお話を聞きます。樫山剛さんです。樫山さん、新入社員に一言、よろしくお願いします!」

「一言って何? ……あ、樫山です。よろしく。」

空気が、少し変わった。それまでの講師たちと、なにか違う。

話が面白くない。正確に言うと、面白くしようとしていない。撮影が押したときにどういう気持ちで段取りを組み直すか。予算が足りないときに、ディレクターがどんなことを考えるか。そういう、地味で、現実的な話を、淡々と続けた。笑いの一つも起きなかった。きらきらも、ぎらぎらもしていなかった。少し怖い人だな、と思った。

質疑応答の時間になった。

司会の人が「質問のある方は?」と言っても、誰も手を挙げない。そりゃそうだ。みんな、樫山さんの空気に圧倒されている。質問した途端に、火傷しそうだ。

わたしは、手を挙げた。

沈黙が気まずかったのもある。でも、それ以上に、わたしは現場のことを、もっと知りたかった。司会を務めていた人事部の社員さんが、ホッとしたような表情であててくれた。

「はい!黒木さん」

「あの」わたしは立ち上がった。

「樫山さんが、これまで一緒にやってきた中で、仕事ぶりが印象に残っているADさんって、いますか」

樫山さんは、少しのあいだ、わたしを見た。

「ごめん」

「質問の意味が、わからないんだけど」

え、と思った。何が、わからないんだろう。わたしは、自分の質問のどこがおかしいのか、わからなかった。

沈黙が続く。わたしは、どうすればいいかわからない。

「ADに、印象に残るとか、ないんだよね」

樫山さんは、言葉を探すというより、当たり前のことを説明するみたいに続けた。

「ADは、ディレクターの邪魔をしないでくれるのが、いちばんいい。目立たないで、決められたことを、ちゃんとやってくれる。それが、いいADだから」

会議室の空気が、ほんの少しだけ、動いた気がした。誰も、何も言わない。隣の同期は「ですよね」とでも言いたげな表情で、頷いている。わたしは変なことを聞いたのか。みんなが思っていることを、わたしだけが、わかっていなかった。顔が、みるみる熱くなってくる。

「すみません」

わたしは、そう言って座ろうとした。

「逆に、俺から聞いていい?」

座りかけたわたしは、中途半端な姿勢で止まった。

「みんなの、好きな番組を教えてよ。なんでもいい」

場の空気が、ゆるんだ。さっきまで圧倒されていた同期たちが、ホッとした様子で口を開きはじめる。

前のほうに座っていた男の子が、深夜のドキュメンタリー番組の名前を挙げた。樫山さんの顔が、ふっと崩れた。「あれな! いいよな、あれ! 気がついたらエンドロール流れてくるんだよな」さっきまでの怖さが嘘みたいに、くしゃっとした笑い方だった。

別の子が、もう何年も続いているバラエティを挙げる。「わかる。あれ、構成が上手いんだよね〜。」次の子は、朝の情報番組。「渋いとこ突くな〜!」

「なんだ、この人は、優しい人なんだ。テレビが、本当に好きな人なんだ。」

さっきの怖さは、好きだからこその厳しさだったのかもしれない。わたしは、少しほっとして、樫山さんが次々にうなずくのを、笑って見ていた。

「で。」

樫山さんが、笑顔でこっちを向いた。

「きみは?」

わたしは、口を開いた。

開いて、何も出てこないことに、自分で驚いた。

好きな番組。わたしの、好きな番組。あれ。何だろう。子どものころに見ていたもの。家族で見ていたもの。記憶をたどっても、出てくるのは、誰もが知っているような番組のタイトルばかりで、それを「好き」と呼んでいいのか、わからなかった。そういえば、わたし、最近、テレビをつけていただろうか。一人暮らしの部屋に、テレビはなかった。

沈黙が、長くなる。みんなが、待っている。

早く、何か言わなきゃ。焦りが、口を動かした。

「……普段は、YouTubeをよく見ていて。実はテレビは、あんまり見てないんです。」

言ってしまってから、「あ、これ笑ってもらえる」と思った。「正直でしょう」「いまどきでしょう」と。

「そうなんだ」

樫山さんは、最初の笑顔のまま、そう言った。そして、静かに続ける。

「それは、どうなんだろうね」

さっきまで、同期たちの番組に、くしゃくしゃに崩れていた顔から、笑いが引いている。怒っているわけじゃない。呆れているわけでも、たぶん、ない。ただ、わたしという人間を、もう一度、見直すような目だった。さっき「ADに印象は残らない」と言ったときと、同じ目だ。

司会の人が「はい、ありがとうございました」と、明るい声で間に入った。質疑応答は、そこで終わった。

わたしは、座った。

何が起きたのか、よくわからなかった。叱られたわけじゃない。何も、まずいことは言っていない、はずだ。なのに、心臓の音だけが、やけに大きかった。


先輩AD・川上千佳

配属されたのは、お台場にあるテレビ局。アイドルが司会をつとめる、ゲストを招いての30分のトークバラエティだった。

毎週、いろんなゲストが来る。俳優、芸人、アスリート、文化人。わたしの最初の仕事は、そのゲストのリサーチだった。過去のインタビュー記事を漁って、出演した番組を確認して、SNSをさかのぼって、台本をつくる作家さんやディレクターに、資料としてまとめて渡す。

わたしは、この仕事が、嫌いじゃなかった。

むしろ、向いていると思った。一人の人間について調べはじめると、止まらなくなる。十年前のインタビューで、この人はこんな夢を語っていた。それが、最近の発言と、こう変わっている。デビュー作のころの言葉と、今の言葉を並べると、その人の人生の輪郭みたいなものが、ぼんやり見えてくる。それを見つけた瞬間が、たまらなく好きだった。

だから、最初のうちは、調べた。たくさん、調べた。

ある週のゲストは、ベテランの女優さんだった。 わたしは、その人の名前を、大宅文庫の索引で引いた。

大宅壮一文庫。昭和の婦人誌から、最近の週刊誌まで、その人について書かれた記事が、ずらりとヒットした。めぼしいものに、片っ端から印をつけて、コピーを依頼する。しばらくすると、FAXが鳴りはじめる。二十年前の記事。十五年前の対談。デビュー当時のグラビアのインタビュー。送られてくるそばから、わたしはそれを拾い上げて読んだ。一人の人間が二十年かけて何を語り、どう変わってきたか。それが、紙の束の中から立ちあがってくる。

気づいたら、わたしは、床に座り込んで、その山に埋もれていた。 そのいちばん下のほうの一枚に、それはあった。 もう配信もされていない、二十年以上前の単発ドラマ。当時の雑誌のインタビューで、その人は、はっきりと言っていた。

「これは自分の原点です。」

これは誰も拾っていない。これを司会のアイドルが触れたら、ゲストはきっと心を開く。すごいものを見つけた。

わたしはその記事のコピーに付箋をつけて、川上さんのところへ持っていった。

川上さんは、わたしの三つ上の先輩ADだ。

とにかく、速い人だった。同時に五つも六つもの段取りを、頭の中で組み替えながら、現場を回している。スタッフの誰もが、細かいことは全部、川上さんに確認を取りにくる。川上さん、これどうしてるんですか。川上さん、これ間に合いますか。そのたびに川上さんは、振り向きもせず、一秒で答えを返す。現場が、川上さんを中心に回っていた。

わたしは、その背中に、声をかけた。

「川上さん、すみません。今週のゲストの方なんですけど、これ、原点って言ってる作品があって。司会のところで触れたら、いいんじゃないかと──」

振り向かなかった。手元のスケジュール表に、何かを書き込んでいる。

「これ、けっこう貴重で。たぶん他のどの番組も取り上げていないんですよ!」

「黒木さ」

川上さんが、ようやく振り向いた。わたしを見た。たぶん、その日はじめて、ちゃんと見られた気がした。

「今日は別企画あるから、スタッフの人数多いよ。台本、何部いるか確認した?」

「……えっ」

「あと香盤、変わったの知ってる? Bゲスト、押してるから、巻きになってるんだけどさ、あんた、それ聞いてた?」

聞いて、いなかった。わたしは、その記事を見つけることに夢中で。

「すみません、すぐ確認します」

「うん。そういうのが、先。」

川上さんは、わたしの手の中の、付箋だらけのコピーを、見もしなかった。

「その紙、何? 誰に頼まれた?」

「いえ、これは、わたしがいいと思って」

「あんたの勝手でこんな付箋貼ったら邪魔でしょ! すぐ外しといて」

川上さんは、もう、わたしの方を見ていなかった。次に確認を取りにきたスタッフの方を向いて、一秒で、何かを答えていた。

わたしは、付箋だらけのコピーを持ったまま、立っていた。

手の中の紙が、急に、ばかみたいに見えた。二十年前のドラマ。原点。誰も拾っていない発見。そんなものより、台本の数と、香盤の確認。そっちが、先。それは、正しかった。正しいから、何も言い返せなかった。

その日の収録は、滞りなく進んだ。

わたしが見つけた「原点」の話は、もちろん使われなかった。誰にも渡していないんだから、当たり前だ。司会のアイドルが、台本どおりの質問をして、女優さんが台本どおりに笑う。つつがなく、番組はできあがっていく。

本番中、わたしはスタジオの隅で、収録を見ていた。ふと、横を見ると、川上さんがいた。

あれだけ殺気立って現場を回していた人が、本番だけは、笑顔で収録を見つめている。画面の中では、女優さんが、昔の恋の話をして、スタジオが笑いに包まれている。

「あーはっはっは!あはは!!」

さっき、わたしを虫けらみたいにあしらったときの顔とは違う。拍手しながら大笑い。すると、川上さんは、わたしがボーッと見つめているのに気づいた。やばい、怒られる。でも、川上さんは笑顔のまま。わたしに近づいてきた川上さんに、背中を痛いくらいにバシッ!と叩かれた。

「黒木、笑え! 本番中は笑うのが仕事や!」

わたしはあまりの川上さんのいつもと違う明るさに大笑いした。でも、収録が終わると、またいつもの川上さんに戻っている。そんな日々を繰り返していた。

わたしは本番中の川上さんが、好きだった。収録前の川上さんは、ただ怖くて、冷たくて、わたしを人とも思っていない、嫌な先輩でしかなかったから。それは、どうしてなんだろう。

そんなこと、考える余裕も、興味もなかった。


2018年7月

わたしの"付箋癖"は、治らなかった。

リサーチをしていて、いいものを見つけると、つい、付箋を貼る。ここが大事、ここがゲストの本音、ここを司会が拾えば伸びる。色を分けて、言葉を書き込んで。頼まれてもいないのに。

ある日、わたしが資料に付箋を貼っている途中だった。

「それ、貸して」

川上さんが、わたしの手から、その資料を奪い取った。台本の直しが入って、ディレクターに渡す資料が、巻きで必要になったらしい。わたしが貼りかけの付箋なんて、川上さんには、ただの邪魔でしかない。

川上さんは、それを持って、ディレクターのところへ走った。

ディレクターは、樫山さんだった。そう、研修で、わたしを「どうなんだろうね」と切り捨てた、あの樫山さんが、この番組のディレクターだった。現場で再会したとき、樫山さんは、わたしのことなんて、まるで覚えていなかった。当然だ。あんなに大勢いた新入社員の、一人なんだから。

「遅れてすみません」

川上さんが、資料を渡す。樫山さんは、受け取って、すぐにぱらぱらとめくりはじめた。そのとき、川上さんが気づいた。資料に、わたしの付箋がつきっぱなしだったことに。

「あ、すみません」川上さんが、慌てて言った。

「付箋、ついたままでした。特に意味はないので、気にしないでください」

樫山さんは、答えなかった。

めくる手を、止めていた。付箋の一枚を、じっと見ている。

「……これ」

樫山さんが言った。

「この付箋、誰がつけたの」

川上さんの背中が、こわばるのが、見えた。

「いえ、ほんとに、気にしないでください。申し訳ありません」

「いや、そうじゃなくて」

樫山さんは、顔を上げた。

「これ。誰がつけたのって、聞いてる」

川上さんが、ちらりと、わたしを見た。それから、観念したように言った。

「……すみません。ADの黒木です」

樫山さんの目が、わたしを捉えた。研修のとき、わたしを見直した、あの目。心臓が、ぎゅっとなる。付箋なんて、勝手なことをしてごめんなさい。怒られる。

樫山さんは、わたしの貼った付箋を、もう一度じっと見た。

「これ。最高じゃん」

え?

「ここ、拾えってことでしょ? このゲストの、ここ。よくわかってんじゃん! 助かる。ありがとな」

樫山さんは、ほんとうに、嬉しそうだった。研修のときの、同期たちの「好きな番組」に崩れた、あの顔。あの、くしゃっとした笑い方で、わたしの付箋を見ていた。

わたしは、何も言えなかった。ただ、顔が熱くなった。さっき、川上さんに叱られたときの熱とは、まるで逆の熱だった。

……認められた。

生まれてはじめて、この現場で。わたしのやったことが、認められた。川上さんは、ほっと胸を撫で下ろしたようだった。

その後、わたしは付箋をやめなかった。やめるどころか、もっと貼った。樫山さんが拾ってくれるかもしれない。そう思うと、止まらなかった。リサーチに、のめり込んだ。誰に頼まれなくても、深く、もっと深く。だって、これが、わたしの取り柄なんだから。わたしにしか、できないことなんだから。


2018年12月

ロケがあった。郊外まで、ゲストと一緒に出かけて、撮る企画。わたしは、その前日まで、ゲストのリサーチに、夢中になっていた。付箋を貼って、資料をつくって、これを樫山さんが見たら、と。

当日、現場で、川上さんの声が飛んだ。

「黒木! フリップは?」

フリップ。番組のロゴが入った、特注の、クイズ用フリップ。この日の企画は、ゲストにクイズを出して、答えをそこに書いてもらう趣向だった。あの、ロゴの入ったフリップに書くからこそ、画になる。市販のスケッチブックじゃ、だめなのだ。番組ロゴ入りの特注品は、前日までに業者へ発注しておかなければ、刷り上がらない。わたしが、手配しておくはずの。

頭が、真っ白になった。

忘れていた。完全に。リサーチに、のめり込んでいて。発注のことが、頭から、すっぽり抜けていた。

「……すみません、わたし……。」

声が震えた。

ロケが、止まった。ゲストもスタッフも、全員待っている。何十人もの時間が、わたし一人のせいで止まっている。最悪の場合、この日の撮影が、まるごと飛ぶ。タレントのスケジュールをもう一度押さえるのが、どれだけ大変か。それが、できなければ、企画ごとなくなる。

「てめえ、ふざけんな。……もういい」
川上さんが、吐き捨てるように言って、ロケバスへ走っていった。

川上さんは、これまでの収録で余ったフリップを溜め込んで、予備としてこっそりロケバスに残していた。ドライバーの人も「こんなものが置かれてたとは」と驚いていた。枚数は、ぎりぎりだった。それでも、撮影は、なんとか飛ばずにすんだのだった。

ところが、フリップの枚数が少ないことを樫山さんが気づく。そして、事情を知った樫山さんが烈火のごとく怒った。怒鳴り声がロケ場所に響く。ただ、樫山さんが怒鳴った相手は、わたしじゃなかった。川上さんだった。

「お前、あれフリップがどうにもならなかったら、どうするつもりだったんだよ!言ってみろよ!何人の大人が、今日のための準備を死ぬ気でやってきてると思ってんだよ」

川上さんは、何も言い返さなかった。ただ、頭を下げていた。すみません、すみません、と。わたしのミスなのに。わたしのせいなのに。川上さんが、頭を下げていた。その日の帰り、ロケバスを降りたところで、川上さんが、わたしを呼び止めた。

「黒木」

声が、低かった。

「お前。もう。絶対に。その付箋つけるなよ」

わたしは、うつむいていた。

ごめんなさい、と言うべきだった。はい、と言うべきだった。わかっていた。わかっていたのに。わたしの口から、出たのは、別の言葉だった。

「……いや……です」

言ってから、自分でも、驚いた。

「……なんだと?」

「付箋を、やめろっていうのは、嫌です。あれは、樫山さんも認めて……」

「貴様」

川上さんの手が、伸びてきた。わたしの胸ぐらを、つかんだ。

「お前、何を勘違いしてるんだよ」

川上さんの顔が、すぐ近くにあった。怒りで、というより、何か、もっと別のもので、その顔は、歪んでいた。

「周囲に、迷惑をかけてんだよ。お前が。今日だって、何十人待たせたと思ってんだ?なんで決められたことをちゃんとできないんだよ。なんで、それだけに集中しないんだよ。言ってみろコラ」

川上さんは、わたしのバッグをつかんだ。中から付箋の束を、引っぱり出した。色とりどりの、わたしの付箋。

それを、近くのゴミ箱に、投げ捨てた。

ぽとん、と、軽い音がした。わたしは、それを見ていた。ゴミ箱の中の付箋を。

涙が出た。

叱られたからじゃない。胸ぐらをつかまれたからでもない。ただ、わたしの。たった一つの。これだけは。と思っていたものが。こんなにも軽い音で、捨てられたことが辛かった。

それから、わたしはおかしくなった。

付箋をやめた。やめたら、リサーチもできなくなった。リサーチができないと、ほかの仕事も手につかなくなった。何をやっても、また迷惑をかけるんじゃないか。そう思うと、手が動かない。

川上さんは、毎日わたしを叱った。あれをやれ、これを忘れてる、なんでできない。わたしは、ただ「すみません」と言うだけの機械になった。二人の間の空気は、日に日に悪くなっていった。

そして、ある日。わたしは、ほんとうに、何もできなくなった。

やらなきゃいけないことが、目の前に山積みになっているのに、体が動かない。ただ椅子に座って、その山を見ていた。

川上さんが、わたしの席に来た。机の上を見た。何も進んでいない。当たり前だ。何もしていないんだから。

「黒木?」

川上さんが言った。

「お前、やる気がないなら、もう辞めてくれよ。頼むから」

川上さんの手が、またわたしの胸ぐらに伸びた。でも、その手はさっきのロケのときほど、強くなかった。「頼むから」というところだけ、少し声がかすれていた。

わたしは、その手をぼんやりと感じていた。そして、力なく、言った。

「……わたし、辞めたいです。」

言ってしまった。

「……お前、それ本気?」

「…はい、最近ずっとそう、考えていました」

「……もう決めたの?」

「はい。福岡に帰ろうと思っていました」

「……そう」

川上さんの手が、わたしの胸ぐらを、つかんだままだった。

オフィスには、もう誰もいなかった。深夜だった。蛍光灯が半分だけ落とされて、フロアは薄暗い。広いオフィスに、わたしと川上さんだけが残っていた。

川上さんは、じっとわたしを見ている。確かめるように、ただ、じっと。やがて川上さんは、わたしの胸ぐらから手を離した。

「はあああああああああああ…………。」

大きなため息。深いところから出てくる、疲れた息。川上さんは、くるりと背を向け、そのまま立ち去った。

ああ、行ってしまう。最後まで、怒らせて、呆れさせたままだった。こんな使えない後輩。誰だって、もう関わりたくない。わたしは、薄暗いオフィスに、一人取り残された。涙も、もう出なかった。そのまま、一人でリノリウムに反射する、蛍光灯の鈍い光を見つめていた。

「ほら」

立ち去ったはずの川上さんだった。投げたものを受け取ると、手のひらにじんわりと熱が伝わった。缶のミルクティーだった。

「疲れたね。お互い」

川上さんは、わたしの隣の椅子を引いて座った。自分のボトル缶を、ぷしゅと開けて、一口飲む。

「あ……ありがとうございます」

お互い。その言葉が、不思議だった。ずっと、「お前」と「わたし」だった。叱る人と、叱られる人だった。それが、急に、「お互い」になった。

わたしも缶を開けて、一口飲んだ。甘さが喉の奥に染みた。川上さんはしばらく何も言わずに、缶を両手で包んでいた。それから、薄暗い天井を見上げて、ぽつりと言った。

「……わたしもさ、何度も思ったことあるよ」

「え?」

「辞めたいって」

わたしは、川上さんの横顔を見た。

信じられなかった。この人が。いつも完璧に現場を回して、誰よりも速くて、誰にも頼られている、この人が。

「ADなんて、きつい仕事、なんでやってるんだろうって。毎日思う。ほんとに。寝てないし、怒鳴られるし、給料安いし。パワハラ、モラハラどころじゃないよ、こんな職場。なんで、こんなことやってんだろうって」

川上さんのこんな表情、見たことない。

「しかもさ、Dになったら、もっと辛いんだよ。責任、全部かぶるんだから。AD のほうが、まだ楽だったなって、絶対思うの。わかってんの、それは。」

今なら、川上さんに素直に聞ける気がする。

「川上さんは、どうして、この仕事を辞めないんですか?」

川上さんは、黙ったまま、缶を一口。沈黙が続く。そして、ゆっくり口を開く。

「……わたしは、テレビが、好きなんだよね。だから、辞めないだけ。それだけなんだよ。立派な理由なんてない」

好き。

研修で答えられなかった、あの問い。わたしにはない。川上さんにはある。それが、川上さんをここにつなぎとめている。

わたしにはない。わたしにはない。わたしにはない。

川上さんは、缶の残りを、ぐいと飲み干して、立ち上がった。そして、わたしを見下ろして、言った。

「黒木さ」

「……はい」

「この仕事だけが、あんたの人生じゃないよ」

これまで聞いた、どの川上さんの声よりも、やさしかった。

「本社の人事には、わたしから伝えとくわ」

それだけ言って、川上さんは空き缶をゴミ箱に捨てた。からん、と、軽い音がした。

川上さんは、もう振り返らなかった。帰り支度をして、フロアを出ていく。その背中が、自動ドアの向こうに消えた。

福博青和印刷〜2025年9月

ディ・ギルドを辞めたわたしは、東京を離れ、逃げるように福岡へ帰ってきた。出ていくときは、新入社員代表で挨拶をして、両親を喜ばせた期待の星だったのに。帰ってきたときには、もう、何者でもない。

わたしはしばらく、福博青和印刷という、老舗の印刷会社に勤めていた。

テレビの仕事で、わたしはすっかり懲りていた。きらきらした世界とか、クリエイティブとか、もうこりごりだった。だから、その真逆に行きたかった。地味で堅実で、毎日が同じように回っていく、そういう場所。創業六十年の家族経営の印刷会社は、まさにそれだった。

社長は七十を過ぎたおばあちゃんだった。先代から会社を継いだ、小柄で、背筋のぴんと伸びた人で、みんなから「社長」と呼ばれて、現場ににらみを利かせていた。

その社長がなぜか、わたしを気に入った。

きっかけは、多分わたしの悪い癖だ。入って間もないころ、わたしは会社の倉庫の掃除中、埃をかぶった古い資料の山を見つけた。創業当時からの、納品台帳や、古い印刷物の控え。気づいたら、わたしはそれを、片っ端から調べはじめていた。仕事そっちのけで。いつものあれだ。

そうしたら、出てきたのだ。社長がまだ若いころに手がけた、地元の小学校の創立記念誌が。

「あんたこげなもん、どこで見つけたとね」

社長はその古い冊子を手に取って、しばらく黙っていた。それから、ぽつぽつと語りはじめた。先代と二人で、徹夜で刷ったこと。紙が足りなくなって、走り回ったこと。それから社長は、わたしをえらく可愛がるようになった。

「まことは、印刷機なんて覚えんでよか」

そう言って、お茶に誘っては、昔の話を聞かせてくれた。わたしはそれをただただ、興味深く聞いた。社長の話は、面白かった。一人の人間が六十年、紙とインクと生きてきた、その人生の輪郭が見えてくるのが。

そうしていくうちに、わたしは本気でこの会社の売上をもっと上げたいと思うようになった。温故知新のマインドで、古い記録を掘り起こして、会社のアイデンティティを見つめ直したうえで、地域に未来を提示する。そういう企画を、社長にいくつも持っていった。社長は「うんうん」と聞いてくれた。

でも、現場で汗を流す、社員さんたちは違った。

「地方の印刷会社に、マーケティングやらいらん」

「そんな暇あったら、はよ印刷機覚えんね」

当然だった。みんな、毎日、機械を回して、紙を刷って、納期に追われている。その横で、新入りの女が社長にくっついて、お茶を飲みながら、昔話を掘り起こしている。そりゃ面白くない。

わたしは、また、浮いていた。そして、いつのまにか、潮目が変わっていた。

ある日、社長が別の社員にこう言っているのを、聞いてしまった。

「あの子は、ほんっと印刷機に興味を持たんとよね」

嘆くような、声だった。あれは、ショックだった。

だって、「印刷機なんて覚えんでよか」と言ったのは、社長のほうだったのに。気づいたら、それが「あの子は印刷機に興味を持たない」になっていた。わたしは、何も変わっていない。社長に言われたとおり、社長の話を一生懸命聞いていただけなのに。

いつも、これだ。

最初は、特別扱いで持ち上げられる。でも気づいたら、その持ち上げられた理由ごと、はしごを外されている。テレビのときも、そうだった。「最高じゃん」と言われた、あの付箋が。わたしを、いちばん高いところから突き落とした。

わたしは、福博青和印刷も辞めた。

それからは、ずっと宙ぶらりんだ。短期のバイトを転々としている。コールセンター、倉庫の仕分け、スーパーのレジ。どれも、可もなく、不可もなく。誰にも特別扱いされない代わりに、誰にもはしごを外されない。それは、思っていたより、ずっと楽だった。

三十歳が、見えてきていた。

Webマーケター・早見薫

「──で。まことは今、何しようと?」

早見さんがアイスコーヒーのストローを、くわえたまま言った。

早見さんは大学の放送研究部の、二つ上の先輩だ。あのころから、さばさばして、面倒見がよくて、後輩みんなの姉貴分みたいな人だった。卒業して、東京に出たわたしと違って、早見さんはずっと福岡で今はWebマーケティングの会社にいる。

半年ぶりくらいに連絡したら、「会おう」と、すぐに、呼び出された。

「何って……まあ、バイト、ですけど」

「バイトって、まこともう三十やろ?」

「……まだ、二十九です」

「変わらんやろ!」

早見さんは、けらけら笑って、アイスコーヒーを、ずずっと、すすった。

わたしは、少し嫌な予感がしていた。早見さんが、こうやってわざわざ呼び出すときは、たいてい何か面倒なことを持ちかけてくるときだ。学生時代からそうだった。

「まこと」

早見さんがストローを置いて、わたしをまっすぐ見た。

「あんたテレビの仕事、しよったよね」

「してました。まあ、ADですけど」

「ADって、あの、カンペ持って走り回る?」

「カンペはADのイメージあるんですけど、あれはDなんですよ。フロアD。まあ、走り回ってたのは、走り回ってましたよ。」

「映像、撮れる?」

早見さんの目が、すっと真剣になった。さっきまでの、けらけら笑っていた顔と違う。仕事の顔だ。ちょっとたじろいだ。

「撮れる、というか……編集もまあひととおりは。素材の編集とかはしてたんで。部活でもやってましたし」

「よかった」

早見さんは、テーブルに、身を乗り出した。

「まこと。あんたに、頼みたい仕事があるんよ」

早見さんが、今担当しているクライアントの話をはじめた。「ハローナース」という看護師専門の転職サービスだという。看護師に専門の転職サービスがあることを初めて知った。早見さんの会社は、その「ハローナース」の、Webマーケティングを、請け負っている。

「看護師の転職って、知っとう? あれ、すごい世界よ」

早見さんは、アイスコーヒーの氷を、からから鳴らしながら、話す。

「看護師って、ずーっと人手不足なんよ、そもそも。どこの病院も、喉から手が出るほど看護師がほしい。やけん、転職サービスは看護師を一人、病院に紹介して、その人が入職したら、病院から紹介料がもらえるんよ。いくらやと思う?」

「いえ……」

「その看護師さんの、年収の、二割か、三割」

「……え?」

「年収四百万の人が一人転職したら、八十万から百二十万。会社に入ってくるとよ」

思わず声が出た。一人でそれだけ。わたしが印刷会社で、半年くらいかけてもらっていた給料に近い。

「やけん、もう奪い合いよ。看護師の奪い合い。転職サービスなんて、星の数ほどあって、どこも必死。登録した瞬間、電話が鳴るとよ。一分以内に」

「一分?」

「うん。看護師さんが、インターネットでぽちっと登録したら、もうその瞬間に、担当から電話。『お疲れ様です、ハローナースです』って。」

「こわっ」

「怖いよ?出んかったら、その日に三回はかける。出るまでかける。そんで、つかまえたら、その電話で求人を五個は出して、面接を三つは決めさせるからね」

「えげつないですね……」

「でも、それくらいせんと勝てんと。他社に取られるけんね。一分、出遅れたら、その看護師さんは、よそで転職してしまう。そしたら、うちの紹介料はゼロ。一円にもならんけんね」

早見さんはストローをくわえた。

「でな、まこと。ここからがうちの仕事」

「早見さんの?」

「うん。今のは電話する『営業』の話やろ。うちは営業じゃない。うちの仕事はな、そもそも、その看護師さんにどうやって出会うかってとこを担っとうんよ」

「出会う……」

「電話をかけるにしても、まず登録してもらわな、始まらんやろ。じゃあどうやったら登録してもらえる? どうやったら『転職しよっかな』と思っとる看護師さんに、うちのサービスを見つけてもらえる?」

わたしは黙って、聞いていた。

「広告を出す。SNSで流す。検索でひっかける。そうやって、海のどこに魚がおるかを見つけて、そこに『うちにおいでよ』って入口を作る。それが、Webマーケティングの仕事。釣り糸を適当に垂らすんやなくて、魚のおる場所を探して垂らすんよ。狙いを持って、エサも選んでね。」

面白い、と思った。

海のどこに魚がいるか。どうやってその人に出会うか。それは、わたしがリサーチでやっていたことと、どこか似ているように思った。一人の人間について、調べて調べて、その人の輪郭をつかむ。あの感覚に近い。

「で、最近な」早見さんが、続ける。「うちのクライアントが『YouTube、やりたい』って言い出してさ」

「YouTube?」

「そう。看護師さんって、けっこうYouTube見るとよ。夜勤明けとか、休憩中とか。やけん、そこで、転職のコツとか流して入口を作りたい。……でもな」

早見さんは、少し声を落とした。

「映像って高いとよ。制作会社に頼んだら。一本作るのに何十万もかかって、何百万あっても足りんっちゃん。とてもやないけど、予算が出らん。うちの会社の取り分から考えたら、足が出る」

わたしの目を見る。

「そんとき、まことから連絡が来たわけ。あんたが、テレビにおったの、思い出して。ねぇ、これ、運命と思わん?」

運命は言い過ぎだが、要するに安く映像を作れる人間を探していて、そこにちょうど暇そうな元ADの黒木真琴が現れたというだけの話だ。いやな気は、しなかった。

バイトを転々として、誰にも必要とされているように感じていなかった、わたしに。久しぶりに「あんたに頼みたい」と言ってくれる人がいる。たとえ、コスト削減に使われるんだとしても。それでもよかった。

「大変そうですね」

わたしは、言った。

「大変よ」

「難しそうだし」

「難しい。ど素人が、すぐできる仕事やない」

早見さんは、続ける。

「……でも、今ちょっと面白そうって思っとるやろ?」

久しぶりに、心の奥のほうが、ちりちりと熱くなる感じがあった。

「やります。やらせてください」

早見さんはにっこり笑って、アイスコーヒーを飲み干した。


看護師・安西結

「安西はね、ほんと、できる子なんよ」

取材先へ向かう車の中で、早見さんが言った。運転は、しゃべりながらでも危なげない。

「中学んときからの、同級生でね。あの子、もう、その頃から『看護師になる』って、ずーっと言いよった。で、ほんとに、なった。すごくない? 十三、四の頃に決めたことを、そのまま叶えるって」

「すごいですね」

わたしは、助手席で相づちを打った。十三、四の頃のわたしは、何になりたかったんだろう。たぶん何もなかったな。

「安西って、人の輪の真ん中におるような子でさ。なのに、やることは、きっちりしとるんよね。みんなとわいわい遊びよったのに、気づいたら成績は学年でかなり上のほうでさ。ずるいよね」

赤信号の前で、ゆっくりとブレーキを踏みながら、笑った。

「ずるい、ですか」

「ずるいよ。普通さ、明るい子って、ちょっと抜けとったりするやん。それで、許されたりして。でも安西は、抜けとらん。明るいのに、ちゃんとしとう。両方持っとうと」

わたしは、窓の外を、見ていた。

明るいのに、ちゃんとしている。両方を持っている。わたしは、明るいだけだったな。明るいだけで、ちゃんとはできなかった。明るさで持ち上げられて、ちゃんとできなくて、はしごを外される。その繰り返しだった。

会う前から、わたしは、その安西さんという人に、少し、気後れしていた。

撮影は、病院の近くの、レンタルスペースを借りて行った。

白い壁の小さな会議室みたいな部屋。わたしは、早見さんの会社から借りた、小さなカメラを三脚に立てて、ピンマイクの位置を調整した。久しぶりの機材だった。手が勝手に動く。AD時代に体が覚えたことは、何年経っても抜けないみたい。

安西さんは、時間の五分前に到着した。

「はじめまして! 安西です。今日はよろしくお願いします」

ぱきっとした、気持ちのいい声。ショートカットがよく似合う、姿勢のいい人だった。看護師さんという感じの、清潔な空気をまとっている。

「早見さんの言ったとおりだ」

会った瞬間に、わかる。この人は「できる側の人」だ。

「黒木です。あの、カメラ、回させてもらいます」

「はーい。あ、わたし、こういうの初めてなんで、変なこと言ったら、編集で切ってくださいね」

そう言って、安西さんは両手でチョキチョキしながら、にっこり笑った。ところが、いざ撮影が始まると「変なこと」なんて、一つも言わなかった。

「看護師の退職って、切り出し方が、すごく大事なんですよ」

安西さんはまっすぐ、話しはじめた。話が整理されていて、事前準備の緻密さが伝わってきた。

「まず絶対なのが、就業規則の確認。看護師の職場って、『退職は何ヶ月前までに』って、決まってることが多いんです。法律上は二週間前でいいんですけど、現場はそんなんじゃ回らないので。シフトも引き継ぎもありますから。だから最低でも一ヶ月。できれば三ヶ月前。職場によっては、一年前に言わないと、っていうところもありますね」

すごい。よどみがない。

「伝える順番が大事です。最初に退職を伝えるのは、絶対に師長さんです。直属の上司。同僚に先に言っちゃうと、それが回り回ってこじれちゃいます。順番を間違えちゃいけない。あと、メールやLINEじゃなくて、ちゃんと口で直接言う。そのほうが、誠意が伝わるんです。どうしても」

わたしは、カメラのモニター越しに安西さんを見ていた。

自分の仕事をこんなにもよくわかっている。何を聞かれても、答えられる。明るくて、はきはきしていて、しかも、中身がある。早見さんが「ずるい」と言った意味が、わかった。隙がない。

わたしとは、ぜんぜん、違う人だ。

「理由は、前向きなものを言うのがコツです。『スキルアップしたくて』とか。間違っても、『人間関係が』とか『もう限界で』とか、本音は、言わないほうがいい。波風が立つんで。まあ、辞めるのなんて、だいたい、しんどいことが理由なんですけどね」

安西さんは、そこでちょっとだけ笑った。屈託のない、明るい笑顔だった。

取材の終わりのほうで、わたしは台本にあった質問をした。

「安西さんはご自身も転職を経験されてるんですよね。そのとき、どうやって転職先を見つけたんですか?」

「あー、わたしはね」

安西さんは、少し考えてから答えた。

「ネットで調べたんです。『看護師 転職』って」

検索。

「そしたら、ある記事に出会って。転職サイトの使い方とか、失敗しない選び方とか。すごくていねいに書いてある記事で、それを読んで『あ、ここに登録してみよう』って思ったんです。その記事がなかったら、たぶん今の職場には来てないですね。何の記事かは忘れちゃったんですけど」

「ちなみに安西さんって、YouTube、見ますか? 今回、撮らせてもらっておいて、あれなんですけど」

「見ますよ。見ますけど……」安西さんは、バッグを肩にかけながら、ちょっと考えた。「でも、わたし、最後まで、見れないんですよね」

「最後まで?」

「うん。動画って、最初から最後まで見ないと、結局なんの話だったか、わかんないじゃないですか。途中から見ても、わかんないし。忙しいときって、それが、しんどくて。気づいたら、止めちゃう」

「あー……」

「見るのは、レシピと、ヨガくらいかなあ。あれは、見ながら、手も動かせるんで。あと、巻き戻して、何回も見れるし。──知りたいことだけ、ぱっと知りたいときって、わたし、文字のほうが、楽なんですよね。検索して、ばーって読んで」

わたしの隣で、早見さんが小さく「記事か……」とつぶやいたのが、聞こえた。

「お疲れさまでした! ありがとうございました」

安西さんは、「ふう」と息をついて、椅子の背にもたれた。さっきまでの、ぴしっとした「プロの顔」がゆるんだ。

「うわー、緊張した!カメラなんて慣れませんね」

「すごくよかったですよ。一発で撮り直しもなくて!」

「ほんと? よかった!お茶、いただいてもいいですか」

「もちろん! どうぞ」

安西さんはテーブルの上のペットボトルに手を伸ばした。わたしが、撮影の前に置いておいたものだ。安西さんの手が、止まった。

「……あ、ルイボスティーなんだ。珍しいですね」

「あれ、安西さん、ルイボスティーお好きなんじゃ……。早見さんに、聞いたんですよ。安西さんって、何を飲みますかって。ね、早見さん」

「いや、私はジャスミンティーって言うたんやけど」

早見さんが、片付けの手を止めて、こっちを見た。

「……え?」

わたしは、記憶を、たどった。たどって、たどって──。

「あ! ほんとだ! ジャスミンティーだ」

思い出した。たしかに、早見さんは、ジャスミンティーと、言った。なんで、わたしの頭の中で、ルイボスティーに、なっていたんだろう。

「……いや、でも、ほら。コンビニで売ってる、あんまり定番じゃないお茶、っていう括りで、似てるじゃないですか」

「「似てないから!」」

安西さんと、早見さんの声が、きれいに、揃った。

「なにそれ、その括り!」安西さんが、肩を揺らして笑う。「ジャスミンとルイボス、ぜんぜん違うやん!」

「だって、わたし、お茶なんてミルクティーしか、飲まないんで! お茶のこと、よくわかんなくて」

安西さんは、もう、お腹を抱えて、笑っている。

「ミルクティーしか飲まない人が、わざわざ、わたしのお茶を調べてくれたんですね。 でも、間違っちゃったんですね」

「すみません……」

「いや、いいですって。むしろ、そこまで気配りしてくれて、ありがとうございます。嬉しいです」

安西さんは、ルイボスティーのボトルを開けて、一口、飲んだ。

「ルイボスティーって、おいしいですね。スッキリする感じ!」

そう言って、また、笑った。わたしは、ちょっと恥ずかしくて。でも、なんだか、悪い気はしなかった。

「黒木さんって」安西さんが、ボトルを置いて、わたしを見た。さっきの、プロの目とは違う。もっとやわらかい親しみのある目だった。「一生懸命だけど、あたたかみがあって、ホッとしますね。元気がもらえる感じがするというか」

「そ、そうですか?」

「はい、最高です」

安西さんは、もう一度、笑った。帰り際、安西さんは、わたしに連絡先を聞いてきた。

「黒木さん、よかったらまた話しませんか。わたし、あなたと友だちになりたい」

わたしは喜んで、LINEのQRコードを差し出した。

2025年12月

動画は、無事に公開された。

「看護師が退職するときの切り出し方」。安西さんがまっすぐカメラを見て話す、十分ほどの動画。我ながら、よく撮れたと思った。テロップも入れた。AD時代に覚えた編集が、こんなところで役に立った。安西さんの話はわかりやすかったし、人柄もにじんでいた。これは、いける。そう思っていた。

公開から二週間ほど経った頃。わたしは早見さんに会って、軽い気持ちで聞いた。

「あの動画、どうでしたか?」

早見さんは、ホットコーヒーをすすった後、ちょっと黙った。

「……それがさ」

浮かない顔だった。

「伸びとらんと。ぜんぜん」

「え」

「再生、二百ちょっと。それも、たぶん半分は、うちの会社の人間が見たぶん」

二百。わたしは、その数字をうまくのみこめなかった。あんなに時間をかけて、あんなにいいものができたと思ったのに。二百。テレビなら、視聴率にすらならない。コンマ以下にもならない数字だ。

「ごめんなさい。わたしの動画が……」

「いや、ちがう」早見さんは、すぐに首を振った。「まことの動画は、よかった。ほんとに。出来は、文句なし。でも、クライアントには、それじゃ通じない」

早見さんは、ストローをくわえた。

「カンカンよ、クライアント。『金払って、二百? なめてんのか』って。うちの上司が呼び出されて、こってり絞られて。で、その上司が、わたしを呼んで、こってり絞る。きれいに、上から下まで流れてくるわけ」

早見さんが、ふう、と息を吐いた。いつもの、けらけら笑う早見さんじゃなかった。疲れて見えた。

「数字よ、結局。どんだけいいもん作っても、数字が出らんと、誰も見てくれてないのと、おんなじ。そういう世界なんよ、うちらの仕事は」

わたしは、何も言えなかった。ただただ、申し訳なかった。早見さんが、わたしなんかに仕事をくれて、その結果、早見さんが詰められている。また、だ。また、わたしは、よかれと思ったことで、人に迷惑をかけている。

早見さんは、しばらく、テーブルの一点をにらんでいた。それから、ふと、顔を上げた。

「……ねえ、まこと。安西、なんて言いよったっけ」

「え?」

「取材のとき。安西、転職の決め手、なんて言いよった?」

わたしは、思い出した。

「……Web記事です。『看護師 転職』で検索して、出てきた記事を読んで、登録したって」

「そう、記事よね」早見さんの目が、少しずつ変わってきた。「それと、もうひとつ。安西、最後に言いよったやん。動画は最後まで見てないって。レシピとヨガしか見てないって。知りたいことだけぱっと知りたいときは、文字のほうが楽やって」

「言ってました」

「そういう人もいるんやね。うちら、動画だけにかけすぎとったんかもしれん」

早見さんは、背もたれに体をあずけた。

「動画は動画で、続ければいい。でも、それだけやなくて、記事っていう入口も作らんと、もったいなかったんよ」

早見さんは、わたしをまっすぐ見た。さっきまでの、疲れた目じゃなかった。何かを思いついた人の目だった。

「まこと。記事も、書いてみらん?」

「……記事?」

「うん。あんた、テレビで、リサーチやら台本やら、やりよったんやろ。文章、書けるやん。書いてよ。看護師に、ぱっと届く記事。検索したら、出てくるやつ」

わたしは、すぐには返事ができなかった。

記事。書く。そんなこと、考えたこともなかった。わたしは、走り回るADだった。文章なんて、台本を清書したり、リサーチをまとめたりした、それくらいだ。書く人だなんて、思ったこともない。

でも。

──知りたいことだけ、ぱっと知りたいとき。

安西さんの、あの言葉が、なぜか頭の中で響いていた。

「……やってみます。やらせてください」

「まこと、いっつもそれだね。よし、やろうよ」

気づいたら、そう答えていた。これが、わたしが生まれて初めて「書く」と向き合った瞬間だった。できるのかな。

「えすいーおー」って、何ですか?

後日、いつものカフェで、早見さんは、わたしに、Webライティングのいろはを教えてくれた。

「まず、SEOってわかる?」

「えすいーおー……聞いたことないです。」

「検索エンジン最適化。まあ、むずかしく考えんでいい。要は、Googleで検索したときに、自分の記事が、上のほうに出るようにすること。看護師さんが『看護師 転職』って検索したとき、一番上にうちの記事が出たら、読んでもらえる。読んでもらえたら、登録につながる。それだけのこと」

「なるほど」

「で、大事なのが、狙うキーワード。どんな言葉で検索されるかを、狙ったうえで記事を作るんよ。そして、そのキーワードの裏にある『検索意図』を読む。その人が、なんで、その言葉で検索したのか。何を知りたいのか。それに、ちゃんと答えればいいだけ。たとえば、ほら」

早見さんは、Googleに何か打ち込んだ。

「『主婦 正社員』。これで検索すると、ほら、求人サイトばっかり出てくるやろ。主婦向けの、正社員の求人。つまり、『主婦 正社員』で検索する人は、主婦歓迎の正社員の求人を探して検索してるってわけ。Googleは、それをわかっとうけん、求人サイトを表示させる」

わたしは、パソコンをのぞきこんだ。たしかに、ずらりと、求人サイトが並んでいる。主婦歓迎、正社員登用あり。そんな視点で考えたこともなかったけど、便利な仕組みだな。そのとき、ふと、気になって、聞いた。

「早見さん、じゃあ『専業主婦 正社員』で検索すると、どうなるんですか?」

「え、専業主婦?」早見さんは、苦笑いしながら首をかしげた。「どうやろ。まあ、あんま変わらんのやない? 同じような意味だし、同じように主婦の求人が出てくると思うけど」

そう言いながら、早見さんは、検索窓に「専業主婦 正社員」と打ち込んだ。早見さんは画面を見て、固まった。

「……あれ? なんこれ」

私も画面をのぞきこんでみると、さっきとはまったく違っていた。求人サイトが、出てこなくなっている。代わりに並んでいたのは、コラム記事だった。「主婦が正社員になれる?」「8年のブランクがあっても大丈夫?」「専業主婦から復帰するには?」など。

専業主婦。たった、二文字、増えただけ。「主婦」が「専業主婦」になっただけ。なのに、出てくるものが、求人から、記事に、変わった。「なれるんですか?」という疑問に、答える記事に。なんでだろう。考えながら、自然に、口から、言葉が出ていた。

「早見さん、SEOって検索意図に答えることが大事なんですよね」

「そうだよ」

「これって、つまり『専業主婦』って言葉の中にある、検索者の不安な気持ちまで、Googleが読み取ってるってことですか?」

早見さんが、きょとんとした顔で、わたしを見る。

「専業主婦って、わざわざ『専業』ってつける人って、たぶん、長く家にいた人ですよね。それで、今から、正社員に戻れるのかなって、不安で。『なりたい』じゃなくて、『なれるのかな』って、気持ちで検索してると思うんです。だから、Googleも「求人」じゃなくて、『なれますよ』って励ます記事を、出してる……のかな、って思ったりして」

早見さんは、少しのあいだ、黙っていた。それから、ふっと、笑った。

「そうなのかな? まことは面白いこと言うね」

そう言って、早見さんは、アイスコーヒーを、すすった。話は、もう、次のことに移っていた。今回狙うキーワードを、どうするか。わたしは、まだ、スマホの画面を、見ていた。

私はまだ、画面の向こうに、不安な気持ちで、検索窓に「専業主婦」と打ち込んでいる、確実に存在する誰かのことが気になっている。

「で、最初の記事はどのキーワードで、狙おっか」

わたしには、まだ、わからなかった。どの言葉を狙えばいいのか。看護師が検索しそうな言葉なんて、いくらでもある。「看護師 転職」「看護師 求人」「看護師 給料」……。

「シンプルに、考えたらいいんよ」早見さんが、言った。「うちらのミッションは、何やったっけ?」

「……看護師を、やめたいと思っている人に、転職サイトを、紹介すること」

「そう。やけん、ど真ん中を、狙えばいい。『看護師 やめたい』。やめたいと思っとう人が、そのまま打ち込む言葉。ここに、うちらの記事が出て、転職サイトに、つなげる。一番、まっすぐやろ?」

たしかに、そうだ。やめたいと思っている人に、転職サイトを届ける。なら、やめたい人が、そのまま打ち込む言葉を、狙うのが素直である。

「……わかりました」

家に帰って、わたしは、パソコンを開いた。

まずは、競合を調べる。「看護師 やめたい」で検索して、今、どんな記事が、上に出ているのかを、見る。それより、いい記事を書く。早見さんに教わった、手順だ。

検索窓に、打ち込む。

「看護師 やめたい」

エンターを、押した。出てきたのは、ずらりと、似たような記事だった。

「看護師をやめたい理由とは?」
「看護師が辞めたくなる10の理由」
「もう限界……看護師を辞めたいと感じたら」

一位も、二位も、三位も。どこも、やめたい「理由」を、並べている。わたしは、上から順に、開いていった。

どの記事も、同じだった。人間関係、夜勤のつらさ、責任の重さ、給料。やめたくなる理由を、ずらずらと、説明している。そして、記事の、ずっと下のほう、いちばん最後のあたりに、申し訳程度に、転職サイトのリンクが、貼ってある。

「あれ?」

転職サイトを、真っ先に出している記事が、一つもない。

早見さんは、言った。やめたい人に、転職サイトを届けるのが、仕事だと。なのに、上位の記事は、どこも、転職サイトを、すぐには出していない。ひたすら、「やめたい理由」を、説明している。

なんでだろう。

そして、もっとわからないことが、あった。

「……なんで、やめたい理由なんて」

やめたい理由なんて、やめたいと思っている本人が一番よくわかっているはずだ。毎日、その理由の中で、苦しんでいるんだから。人間関係がつらい。夜勤がきつい。そんなこと、わざわざ記事で説明されなくても、本人が誰よりも知っている。

なのに、なんで。本人が一番わかっているはずの「やめたい理由」を、わざわざ説明する記事が、こんなにも、上位に並んで、たくさんの人に、読まれているんだろう。

わたしは、考え込んだ。画面の前で、しばらく動けなかった。そのとき、ふいに、早見さんの言葉が、よみがえった。

「やめたいと思っとう人に、転職サイトを紹介するのが、私たちの仕事。」

「数字が出らんと、誰も見てくれてないのと、おんなじ。」

そう言って、肩を落とした、早見さんの顔。クライアントに詰められて、疲れていた、あの顔。

そして、わたしの中で、何かが、繋がった気がした。

「これだ」


みんな、やめたい理由ばかり書いて、肝心の転職サイトを、すぐに出していない。きっと、売り込みだと思われるのが、怖いんだ。だから、まわりくどく、理由から書いている。

でも、考えてみてほしい。やめたいと思って検索している人は、一刻も早く辞めたいはずだ。早く、楽になりたいはずだ。それが「やめたい」という言葉に現れている。それなのに、どの記事も、だらだらと理由ばかり並べて、肝心の「次の一歩」を、すぐに示してくれない。

だったら、わたしが、やればいい。

やめたい人に、早く答えを出してあげよう。すぐに転職サイトを紹介して、退職の手順まで丁寧に教えてあげよう。早く辞めたい人に、最短の道を示してあげる。それが、一番親切なんじゃないか。

そうすれば、読者は助かる。早く次の一歩を踏み出せる。転職サイトの登録者アップにもつながる。早見さんもきっと喜んでくれる。クライアントも、もう早見さんを詰めなくなるかもしれない。

やっと。やっとわたしも。

周りの役に、立てるかもしれない。

そう思った瞬間、わたしの指は、キーボードに乗っていた。

やめたいと思っている人が、不安なく、次の一歩を踏み出して、安心して辞められるように。冒頭ですぐに転職サイトを紹介した。そのあとに、退職をどう切り出すか。安西さんが取材で話してくれた、あの手順を。丁寧に、わかりやすく書いていった。就業規則を確認すること。まず師長に伝えること。前向きな理由を用意すること。

安西さんの言葉があったから書けた。知りたいことだけ、ぱっと知りたい。だから、まどろっこしい理由なんて、省いてすぐに。答えから書いた。これが検索する人に、一番やさしいはずだ。

気づいたら暗くなっていた。お昼を食べるのも、忘れていた。肩がばきばきでも、心は軽かった。久しぶりだった。何かに、こんなに没頭するのは。こんなに夢中になるのは。

文字数は、もう五千字を超えていた。あと、もう少し。最後に、まとめを書けば完成だ。わたしは、コーヒーをいれなおそうと、立ち上がった。

そのとき。

スマホが鳴った。着信だ。

「早見さんかな」

記事、できそうです、って報告しなきゃ。スマホを手に取り、画面を見ると、表示されていたのは意外な人物だった。

「えっ! 安西さん? なんで?」

わたしは、不思議に思いながら、電話に出た。

「もしもし、黒木で……」

言いかけて、止まった。

「グスッ……ズッ……グス…」

泣いている。安西さんが泣いている。あの明るい、完璧だった安西さんが。

「……安西さん? 安西さん! どうしましたか? 大丈夫ですか?」

しゃくりあげる声の間から、安西さんは言った。

「……わたし、看護師、やめたい」


「看護師 やめたい」の意味

大橋駅まで、どうやって行ったのか、よく覚えていない。

電話を切ってすぐ、わたしは、財布とスマホだけ持って、部屋を飛び出した。書きかけの記事も、暗くなった画面も、そのままで。頭の中には、安西さんの、あの泣き声だけが、響いていた。

安西さんの病院の、最寄り駅。改札を抜けると、ロータリーがあって、バスを待つ人が、ぽつぽつといた。夜の十一時を過ぎていた。

安西さんは、ロータリーの隅のベンチに座っていて、すぐにわかった。でも一瞬、別人かと思った。取材のときの、あのぱきっとした安西さんは、どこにもいなかった。背中を丸めて、うつむいて、膝の上で両手を握りしめている。街灯の白い光の下で、その姿はひとまわり小さく見えた。

「……安西さん?」

声をかけると、安西さんは、顔を上げた。

目が腫れていた。化粧も半分落ちていた。

「……黒木さん。ごめんなさい、こんな時間に。来てくれて、ありがとうございます」

声がかすれていた。

わたしは、その隣に座った。何を言えばいいのか、わからなかった。ただ、隣に座った。

しばらく、二人で黙っていた。ロータリーを、バスが一台、出ていった。その音が消えてから、安西さんがぽつりと話しはじめた。

「……わたしね、この数週間、ミスばっかりなんです」

握りしめた手を見ながら、声を出す。

「何をやっても、うまくいかなくて。今日もやっちゃって。今日のは……今日のは、ほんとにまずかった。一歩間違えてたら、大変なことになってた」

何のミスか安西さんは言わなかった。わたしも聞かなかった。でも、安西さんが、それをどれだけ自分の中で責めているかは声色でわかる。

「先輩がフォローしてくれて、なんとかなったんですけど。そのあと、わたし、トイレでずっと震えてて」

安西さんは、笑おうとして失敗した。

「あのね、黒木さん。うちの病院、すごくいい病院なんです。最新の設備があって、勉強もできて。先輩たちも、みんな優しくて。怒鳴る人なんて、一人もいない。わたしが、自分で『ここで働きたい』って、自分の意志で選んで入ったんです。」

「……はい」

「なのに。こんなに、いい病院なのに。こんなに、いい先輩たちなのに。わたしだけが、わたしだけが。わたしだけが、不甲斐ないんです」

安西さんの声が、震えた。

「ちゃんと役に立ちたい。みんなみたいにできるようになりたい。なのに、できない。何回も、何回も、ミスして。みんなに迷惑かけて。わたし、なんでここにいるんだろうって。わたしなんか、いないほうがいいんじゃないかって……」

そこで、安西さんの言葉が、敬語の形を、なくした。

「……もうやだ。ほんとにやだ」

わたしは、何も、言えなかった。

「ねえ、黒木さん。わたし、黒木さんとの電話の後、ずっと考えていたんです。なんでわたし、こんなことを黒木さんに電話しちゃったんだろうって」

安西さんが、わたしを見た。もう敬語じゃなくなっていた。

「ごめんね。会って、二回目なのに。こんな、ぐちゃぐちゃのところ、見せて。びっくりしたよね」

「……いえ」

「わたしね」安西さんは、また、うつむいた。

「友だちが、いるようで、いないんです」

また、敬語に、戻った。まるで、素の自分が出かかるのを、あわてて、押さえつけるみたいに。

「みんな、わたしのこと、しっかりしてるって、思ってる。明るくて、なんでもできる、安西さんって。だから、わたしもそういう自分でいなきゃって。弱ってるところなんて、見せられない。早見にも、地元の友だちにも、職場の同僚にも。おかしいですよね、私。嫌な女なんです。でも、それ以外、やり方がわからなくって」

安西さんは、わたしを見た。

「でも、今日、どうしても無理で。誰かに、聞いてほしくて。スマホの連絡先、ずーっと、見て。そしたら、黒木さんの名前が、目に入ったんです」

「……わたし」

「黒木さんなら、看護師のわたしのことも、ちょっと知ってくれてるし。退職の切り出し方とか、一緒に話したし。なんか……黒木さんの前なら、ちゃんとしてない自分でもいいかなって。今日、ルイボスティー買っちゃったんだよ。飲んだら、よけいに会いたくなっちゃって。引いちゃうでしょ?勝手にごめんね」

「安西さん」

わたしは、口を開いた。

何を言えばいいのか、わからなかった。慰めの言葉なんて知らない。気の利いたことなんて言えない。ただ、この人に、何か伝えたかった。

「あの……わたし、今日、ちょうど看護師さんの記事を書いてたんです」

「記事?」

「はい。早見さんに頼まれて。それで……今日、調べてて。『看護師 やめたい』って、検索したんです」

安西さんが、ぴくっと、肩を動かした。やめたい、という言葉に。

「そしたら、出てくるんです。たくさん。『看護師をやめたい理由』って記事が、何個も、何個も。一位も、二位も、三位も、ずっと、やめたい理由の話ばっかりで」

わたしは、ゆっくり、言葉を探しながら話した。

「わたし、最初、不思議だったんです。なんで、やめたい理由なんて、わざわざ記事にするんだろうって。だって、やめたい本人が、理由なんて一番よくわかってるはずだから。でも」

安西さんは、わたしを、見ていた。

「それだけ、たくさんの人が『やめたい理由』を求めてるってことなんです。『看護師 やめたい』って。毎日、たくさんの人が『悩んでるのは私だけなの?』って、探している。だから、きっとあんなにたくさんの『やめたい理由』の記事が検索画面に表示されているんです」

わたしは安西さんの目を見た。

「安西さんだけじゃないです」

安西さんの、目が揺れた。

「自分だけが不甲斐ない、って。安西さん、さっき言いましたよね。でも、そんなふうに悩んでいるのは、安西さんだけじゃないんです。たくさんの人が、いい病院で、いい先輩たちの中で、自分だけができないって、思いながら、それでも看護師を続けてるみたいです。私はなんにもわかりませんが、Googleで見る限り、そうみたいです。みんな、『やめたい』って、打ち込みながら。だから、私でも、これだけは言える。安西さんは、ひとりじゃない」

その言葉を、口にした瞬間。ずっと、思い出せなかった既視感が、いっきに、よみがえってきた。

──深夜の、オフィス。半分だけ、落とされた、蛍光灯。胸ぐらを、つかまれて。「やめたいです」って、こぼしたあの夜。

……わたしもさ、何度も思ったことあるよ。辞めたいって。ADなんて、きつい仕事、なんでやってるんだろうって。毎日思う。ほんとに。寝てないし、怒鳴られるし、給料安いし。パワハラ、モラハラどころじゃないよ、こんな職場。なんで、こんなことやってんだろうって。しかもさ、Dになったら、もっと辛いんだよ。責任、全部かぶるんだから。AD のほうが、まだ楽だったなって、絶対思うの。わかってんの、それは。

あのとき、川上さんは「やめたい」と言った私に、自分のやめたいと思ったときの理由を話してくれた。その時の川上さんは、見たことがないくらい、優しかった。あれが本当の川上さんなんだ。

そして、その後の川上さんの言葉も覚えている。

……わたしは、テレビが、好きなんだよね。だから、辞めないだけ。それだけなんだよ。立派な理由なんてない。

「……安西さん」

「……はい」

「安西さんは、看護師の仕事が好きですか?」

安西さんが、わたしを見た。一瞬、きょとんとした顔をして。それから、その目に、また、涙が、盛り上がってきた。

「……好きだよ」

「好きに決まってるじゃん。好きだよ。中学のときから、ずっと、なりたくて。やっとなれて。そのために、頑張ってきたんだもん。好きだよ。大好きだよ。」

言いながら、安西さんは、ぼろぼろと、大粒の涙をこぼした。

「好きなのに。こんなに、好きなのに。好きだけじゃ、どうにもならないことが山ほどあって。好きなんて、軽々しく思えて、言えなくなってきて。好きだからつらい。できない自分が許せない。好きじゃなかったら、とっくにやめてる。好きだから。好きだから、やめたくないんです」

ああ、そうだ。「やめたい」の奥には、「やめたくない」がある。「やめたい」って、検索する人は、本当は、やめたくないんだ。好きだから。続けたいから。でも、できなくて、苦しくて。誰にも言えなくて。だから、検索窓に、「やめたい」って、打ち込む。「やめたいと思いながら、続けてるのはあなただけじゃないよ」って、言ってほしくて。同じように「やめたい」と思っている人を探しに行ってるんだ。本当にやめるのなら「退職」や「転職」って、打ち込むよね。

安西さんは、両手で顔を覆って泣いていた。さっきまでの、自分を責める、苦しい泣き方じゃなかった。もっと深いところから、何かがあふれ出すような泣き方だった。

しばらくして、安西さんは顔を上げた。

「……黒木さん」

目を、真っ赤にして、でも、少しだけ、笑っていた。

「ありがとう。大事なこと、気づかせてくれて」

「……わたし、何も」

「ううん」安西さんは、首を、振った。「友だちになってって、頼んだ、わたし。正解だった」

「ありがとうございます。じゃあ、友だちついでに。これ、どうぞ。」

「え、ホットミルクティー? なんで?」

「今の季節は、ルイボスティーもいいけど、ホットミルクティーが美味しいと思いますよ。疲れましたね、お互い。」

ふたりで一口飲む。

「あったかい。おいしい。ありがとう。」

いまなら、わかる気がする。「看護師 やめたい」で検索して、やめたい理由ばかりが並ぶ意味が。それは、川上さんが、あの夜、わたしの隣でしてくれたことと、同じだった。

黒木さ。この仕事だけが、あんたの人生じゃないよ。

川上さんの、あの日の声が。7年の時を越えて、わたしの中で静かに響いていた。


一記事書きたかっただけなのに

家に帰ったのは、日付が変わる少し前だった。

部屋の電気をつけると、デスクの上でパソコンがつけっぱなしになっていた。画面は暗くなっていたけれど、マウスを動かすと、ぱっと明るくなった。書きかけの記事が、そこにあった。

「看護師 やめたい」。朝から晩まで夢中で書いた、五千字。あとまとめを書けば完成だったはずの記事。わたしは椅子に座って、それを上から読み返した。

冒頭に、すぐ転職サイトの紹介。早く辞めたい人に、最短の道を。退職の切り出し方。就業規則を確認して、師長に伝えて……。読みながら、わたしはだんだん寒気がしてきた。

これは、なんだろう。

昨日までのわたしは、これが親切だと思っていた。やめたい人に早く答えを出してあげる。それがいちばんやさしいんだと。

でも。もし、この記事を安西さんが読んだら。さっきの大橋駅の安西さんが。泣きながら「やめたい」と検索した安西さんが、この記事にたどり着いたら。

やめたいんですね。じゃあ転職サイトはこちらです。退職はこう切り出しましょう

言えるわけがない。さっきわたしは、安西さんにそんなこと、一言も言わなかった。そんな選択肢は存在しない。安西さんは転職先を探していたんじゃない。退職の手順を知りたかったんじゃない。ただ「ひとりじゃない」と確かめたかった。誰かに隣にいてほしかった。

なのに、わたしは。

この記事で、安西さんみたいな人に「はい、出口はこっちですよ」と背中を押そうとしていた。まだ出口なんて探していない人を。ただ立ち止まって、誰かにわかってほしいだけの人を。

わたしはその五千字を、ぜんぶ消した。一文字も残さずに。真っ白になった画面を、しばらく見ていた。

じゃあ、何を書けばいいんだろう。やめたいと検索する人に、本当に必要なのは、何だろう。

安西さんの顔が浮かんだ。「ひとりじゃない」と言ったとき、揺れた、あの目。そしてわたし自身の、あの夜。川上さんが隣に座って「わたしも、そう思った」と言ってくれた、あの夜。

あなただけじゃない。それを伝えたい。記事で。検索の向こうにいる、顔も知らない誰かに。

でも、どうやって。わたしがただ「あなたはひとりじゃないですよ」と書いても、そんなの薄っぺらい。会ったこともない人にそう言われても、信じられない。わたしだって、信じない。

根拠がいる。ふと、そう思った。

「あなたはひとりじゃない」を本当に信じてもらうには、本物の声がいる。たくさんの、本物の「やめたい」が。

検索してたどり着いた人が、それを見て思うんだ。ああ、わたしだけじゃなかったんだ、と。みんな同じことで悩んで、それでも続けてるんだ、と。そんな記事があったら、もっと役に立てるはずだ。インターネットが、よくなるはずだ。

そして、その人がもし、本当に転職を考えはじめたら。そのときに初めて、そっと転職サイトを置いておく。記事のずっと後ろのほうに。「もし次の一歩を踏み出したくなったら、こういう方法もありますよ」って。急かさない。背中を押さない。ただ隣に座って、それから、そっと出口の場所を教える。


気づいたら、外が明るくなっていた。わたしは一睡もしていなかった。でも、眠くなかった。頭の中は、これまでにないくらい澄んでいた。わたしが書きたかったものが、やっと見えてきた。

わたしはその日のうちに、早見さんに連絡した。話したいことがある、と。早見さんは、いつものカフェに来てくれた。

「どうしたん、まこと。えらい早かったね。記事、できた?」

早見さんは、わたしがやる気になっていると思って、嬉しそうだった。コーヒーを頼んで、身を乗り出してきた。

「あの、早見さん。わたし、書きたい記事がはっきりしたんです」

「お、いいやん。どんなの?」

わたしは、徹夜で考えた企画を話しはじめた。

「『看護師 やめたい』で検索する人は、たぶん、すぐに転職したいわけじゃないんです。まだ迷ってて。『やめたい』って気持ちを誰にも言えなくて。自分だけがこんなふうに思ってるんじゃないかって、不安で。それで検索する。だから、その人にいちばん必要なのは、『あなただけじゃない』って伝えることだと思うんです」

「ふんふん」

早見さんは、まだ笑顔で聞いていた。

「だから、わたし、アンケートをやりたいんです。現役の看護師さんに、ネットで聞くんです。『やめたいと思ったことがありますか』『それはどんなときですか』って。それをたくさん集めて。できれば、千人くらい」

「……千人?」

早見さんの笑顔が、少し止まった。

「はい。千人の『やめたい』を集めて、記事にするんです。『看護師の九割が、やめたいと思ったことがある』みたいに。グラフにして、一人ひとりの声も載せて。そうしたら、検索してたどり着いた人が思うんです。ああ、わたしだけじゃなかったんだって。それが、いちばんその人を楽にする記事だと思うんです」

「……まこと?」

「あと、せっかくなんで、このアンケート結果、プレスリリースでも出したいんです。ニュースサイトとかに取り上げてもらえたら、もっとたくさんの人に届くし。記事にも箔がつくし……」

「待って待って」

早見さんが、片手を上げた。笑顔は、もう消えていた。

「ちょっと待って。じゃあ、転職サイトの紹介は? どこに入れると?」

「いちばん後ろです」

「……後ろ?」

「はい。記事のいちばん最後に、そっと。『もし次の一歩を考えたくなったら、こういう方法もありますよ』って。先に転職サイトを出したら、急かしてる感じになっちゃうんで」

早見さんは、しばらくわたしを見ていた。それから、ふう、と息を吐いた。さっきまでの嬉しそうな顔とは、まるで違っていた。

「まこと。あんた、うちの仕事を忘れとうみたいやね」

「え」

「うちの仕事は、看護師さんを転職サイトに登録してもらうこと。それでお金をもらっとるんよ。なのに、言いよることぜんぶ逆やん」

早見さんの声が、低くなった。

「千人にアンケート? プレスリリース? お金も手間もかかるやん。そんで、できた記事は、転職サイトをいちばん後ろにちょっとだけ? そんなん、登録増えるわけないやん」

「でも、それは、読者のことを──」

「うちはね!」

早見さんが、声を上げた。隣の席の人が、ちらっとこっちを見た。早見さんは声を落として、でも強い口調で続けた。

「うちはね。今、クライアントに詰められとるって、話したやろ。毎週毎週『登録、何件増えた』って聞かれて。『先月より減ってる』って責められて。うちの上司も、その上司も、みんなピリピリしとう。そんなときに、あんた、何ヶ月もかかって、登録も増えん記事を作るって言いよると?仕事をナメるのも大概にしてくれる?」

わたしは、何も言えなかった。

「……わたしの立場に立ってよ」

早見さんの目が、潤んでいた。

「あんた、わたしのこと考えてないやん。自分の書きたいもののことばっかり。わたしがどんだけ追い詰められとうか、わかっとう?クライアントの立場に立てるようにならないと、仕事なんて来ないからね」

「逆です。自分のことしか考えていないのは、早見さんの方です」

「は? 何いってんの?」

「早見さんは、クライアントじゃなくて、ユーザー一人ひとりのことを考えたことがありますか」

早見さんの動きが、止まった。自分でも驚いた。早見さんに言い返すなんて。仕事をくれた、恩人の早見さんに。立場が下の、わたしが。でも、言葉が止まらなかった。

「やめたいって。誰にも言えなくて。家族にも、同僚にも、言えなくて。たった一人で、夜中に、検索窓に『やめたい』って打ち込むしかない人のこと、考えたことがありますか」

「……まこと」

「その人は、転職サイトの登録ボタンを、押しに来たんじゃない。ただ、自分だけじゃないって、確かめたくて。そういう人のこと、考えたこと、ありますか」

わたしは、早見さんの目を見た。逸らさずに。早見さんは、何も言わなかった。わたしは、続けた。さっきまで、のまれていたのが嘘みたいに、言葉が出てきた。

「早見さんは、同僚が涙をためて『仕事をやめたい』って相談してきたら、淡々とおすすめの転職サイトを紹介するような人間なんですか?」

「……」

「私が知っている早見さんは違います。そんな人じゃない。早見さんには、そんなコンテンツをつくってほしくないんです。読者を見るのは、表層的には遠回りに見えます。でも、それがいちばん、登録に繋がる。最終的には、いちばんクライアントを満足させるはずなんです」

早見さんは、しばらく、何も言わなかった。

わたしは、心臓がばくばくしていた。怒られる。もう、仕事はもらえないかもしれない。早見さんとの関係も、終わるかもしれない。でも、これだけは、譲れなかった。

早見さんが、ふと、笑った。

「……あんた、変わったね」

「え」

「あんた、バイトしかしてなかったのに。何にも自信なさそうで。『すみません』ばっかり言いよったのに」

早見さんは、ストローで氷をつついた。

「今、わたしに、こんなに食い下がってきて。しかも、ぐうの音も出らんこと、言いよる」

早見さんは、背もたれにもたれて、天井を見上げた。長いため息をついた。

「……ほんとに、頑固やね、あんた」

「すみません」

「謝らんでいい」早見さんは、笑った。そして、わたしを見た。

「わかった。もう、どうなってもいい。──あんたに、任せる」

「……いいんですか?」

「よくないよ」早見さんは、即答した。「よくない。クライアントに、なんて説明するか。考えただけで、胃が痛い。激ヤバ。でもさ」

早見さんは、ちょっと照れたみたいに、目を逸らした。

「あんたが、そこまで言うならさ。信じたくなっちゃうんだよね。こいつの言うこと、本当かもって」

「ありがとうございます」

わたしは、頭を下げた。これで、書ける。本当に、書きたかったものが、書ける。心の底から、そう思った。立ち上がろうとしたわたしは、早見さんに、ふと聞いてみたくなった。

「早見さん」

「ん?」

「早見さんは、今の仕事が、好きですか」

早見さんは、きょとんとした顔をした。それから、ちょっと笑って、首を、ひねった。

「……わかんないよ、そんなの」

困ったように言った。

「毎日、数字に追われて。クライアントに、詰められて。あんたみたいな、わけわかんないヤツも抱えてるし。好きとか、嫌いとか、考えてる暇もないかな。……なんで?」

「いえ」

わたしは、首を振った。

「わたしは、いま。ちょっと、好きになれそうなんです」

早見さんは、わたしを見て、ふっと笑った。

「……そう。よかったね」

窓の外は、よく晴れていた。わたしは、家に帰って、書こうと思った。たった一本の、記事を。検索窓に「やめたい」と打ち込む、誰かに、届くように。


Webライター・黒木真琴。

1本目の記事の進捗は、まだ0%である。

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