⑦栽培管理から私自身が感じること
私はリンゴを管理しているのではなく、歴史から預かった命を次へ渡しているのかもしれません???
1. 最初は「剪定」だけを依頼されたリンゴ園でした
北海道開拓の村には全国各地または、世界各方面から観光で訪れる方はとても多いです。リンゴ園は開拓の村の中でも奥の奥に位置しています。
きっと、そんなにりんごに興味を持たれている方は少ないだろう!と思っていました。
それが、リンゴ園で作業していると外国の方からどの国の言葉か?解らず語り掛けられます。
その場は、「Where are you from?」と、お国を訪ね?
それからが大忙し、スマホ翻訳機の出番となります。
国内では、青森、秋田のりんごの産地の方が農閑期にお越しになられることも…
1月~3月の「剪定」、6月から「花摘み」や「摘果」、当初は家内の手助けもあり、徐々にリンゴ園らしく整いはじめました。
当時、枝を見ると、農家が剪定する方法と、かなりかけ離れた方法で、徒長枝をうまく活用する剪定が行われていました。それはそれで決して間違いではありません。とてもユニークな剪定が為されているなぁ!程度でした。
しかし、徒長枝はどちらかというと強い枝となります。それに比例して以外の枝に元気は無く、枝が結構混みあう樹が多いことに驚きでもありました。
また、リンゴではあまり見られない「胴枯れ病」の樹が5本程度あり、どうしたんだろう!と常々疑問を持っていました。
後々、他の圃場から伝染したことを知りました。
1本の樹から次から次へと拡大する病気です。一度発症してしまうと、対応薬は無く、出口の見えない感染症に「枝の切り替え」で急場を凌ぐことを決断。
幸い、当時はりんご特有の「腐乱病」に感染する樹は無く、それはそれで安心しました。
剪定は、全国の生産者さんから学んだ知識に加え、この圃場に合った剪定方法を考えたとき、依頼を受けてからの3年間は、徒長枝を太らせた剪定を徐々に切り崩し、主幹から伸びる主枝を本来あるべき姿に戻すことに専念。
葉を見れば「アブラムシ」に「ダニ」、「黒星病」に「斑点落葉病」etcの発生を確認することができました。きっと防除暦が、この圃場に合致していないことを悟ります。
私にとって、それは長年携わってきた「リンゴ栽培」の仕事。
ところが、「緋の衣」と「国光」の歴史を改めて調べて行くうち、少しずつ樹の見え方が変わってきます。
2. 「余市でリンゴを作っていた自分」とつながる
私自身、かつて余市町でリンゴを栽培していました。

当時は剪定も、防除も、摘果も、収穫も、「良いリンゴを作るため」の仕事でした。
ただ、一環していたことは「低農薬」、農薬を省く「省農薬」に力を注いでいました。それは、アレルギーで果物を手にすることができない方にも、お薦めできる果物を栽培することでした。
そういった流れから、徐々に来園されるお客様の目的は「りんごの樹のオーナー」になること。客足も徐々に増え、口伝えに都内にある百貨店からお声が掛かり、全国版TVにも数度と出演させていただきました。
そういったことから、知名度も一氣に跳ね上がります。
それから年月を経て、今、私は北海道開拓の村で「緋の衣」と「国光」の樹を見ています。
その品種の歴史をたどると、行き着く先は、また「余市」でした。
「余市→自分→開拓の村→歴史を調べる→再び余市へ」の円環です。
3. 剪定鋏を入れることへの気持ち
剪定するとき、枝を一本切ること自体は特別な作業ではありません。頭で考えることなく、自然と手が動きはじめます。
しかし、その樹が「19号・緋の衣」「49号・国光」だと知り、その先にある約150年の歴史を知ってしまうと、鋏を入れる一本の枝にも少し違ったものを感じます。
あるとき、リンゴ園で病気が進行し1本の樹が根本から切り倒されました。その後、伐根。
また、病気を発見する度に、それを繰り返してはならないことを意識しはじめます。
歴史ある品種であっても、樹は今を生きています。
「歴史的だから触らない」ではなく、生きているからこそ、人が手を入れなければなりません。
4. 守ることの難しさ
りんごの樹の寿命は、品種や栽培環境、台木(根になる部分)の種類によって異なりますが、一般的に30年〜50年程度とされています。
しかし、
経済的寿命(おいしい実がたくさん収穫できる期間): 30年〜40年程度に対し、
生理的寿命(樹として生き続けられる期間): 人間同様60年〜100年近く生きることもあります。
私もそうでしたが、一般農家では品質の低下や病気リスク、樹の衰えに合わせ、30年〜40年ほどで新しい苗木へ植え替えるのが一般的です。
開拓の村にも「害獣」「土壌伝染病」「病害虫」「樹齢」「気象」状況によってりんごの収穫数は常に変化が生じます。
歴史ある品種だからといって、病害虫が避けてくれるわけではありません。
害獣による食害もあれば、土壌病害の心配もあります。
私たちが「残したい」と願っただけで、樹が残ってくれるわけではありません。
生きた植物を後世へ残すことの難しさを、現場に立つほど感じます。
5. 「保存」から「継承」へ
そこで今、私は一つのことを考えています。
現在ある「緋の衣」と「国光」から穂木を採り、新しい台木へ接ぎ、次の世代の樹を育てられないだろうか?
今ある一本を永遠に生かすことはできません。
しかし、その枝を次の台木へ接ぐことはできます。
「保存する」のではなく、「つないでいく」。
果樹だからこそできる歴史の残し方があるのではないかと思っています。
6. 150年前の栽培者へ思いを向ける
明治12年、赤羽源八の19号に6個、金子安蔵の49号に7個のリンゴが実りました。
彼らが約150年後、自分たちが育てた品種を北海道開拓の村で誰かが剪定しているなどと想像したでしょうか。
私には、彼らが最初の果実を見たとき何を思ったのか知る術はありません。
ただ、リンゴを育てた経験のある一人として、初めて実った果実を見つけたときの喜びは想像できます。
ここで「歴史研究者としてではなく、一人のリンゴ栽培者として先人を見ている」わけです。
7. 未来へ
私がこのリンゴ園に関われる時間にも、いつか終わりが来ます。
だからこそ、自分が管理している間にできることをしておきたい。
樹を整え、病害虫から守り、果実を実らせる。
そして可能ならば、「緋の衣」と「国光」の穂木を次の台木へ接ぎ、次の一本を育てる。
いつの日か、私がこの場所にいなくなった後も、その樹に花が咲き、リンゴが実る。
そして誰かが、
「このリンゴは、北海道のリンゴ栽培が始まった頃から受け継がれてきた品種なんですよ」
と次の世代に話してくれたならなぁ!と。
それが、今このリンゴ園の栽培管理に携わっている私にとって、何より嬉しいことなのかもしれません。
人の命には限りがあります。樹の命にも限りがあります。
でも、人から人へ、樹から樹へ、物語をつなぐことはできます。
150年前、余市で実った「緋の衣」と「国光」。
その物語は、まだ終わっていません。

