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タイに逃げた先で僕が本当に欲しかったもの。-何者にもなれなかった男の、少し不思議な物語-

別に、人生が終わったわけではなかった。

仕事がなくなったわけでもない。借金取りに追われていたわけでもない。家を失ったわけでも、病気になったわけでもない。

だから、

「何がそんなにつらいの?」

と聞かれたら、たぶん僕は答えられなかったと思う。

ただ、何をやってもうまくいかない。
そんな時期だった。

会社ではミスをした。
たいしたミスではなかった。誰かが死ぬわけでも、会社が潰れるわけでもない。

でも、その「たいしたことのないミス」が、妙に心に残った。

上司に呼ばれた。
「次から気をつけてください」
たったそれだけだった。怒鳴られたわけでもない。

それなのに、席に戻ったあと、パソコンの画面を見ながら、自分はどうしてこんな簡単なこともできないんだろうと思った。

周りでは、同僚たちが普通に仕事をしている。

電話の音、キーボードを打つ音、コピー機の音、誰かが笑っている。

世界は、僕の失敗なんてなかったみたいに進んでいく。

それが、少しだけ苦しかった。

家に帰れば、冷蔵庫には昨日買ったコンビニ弁当が残っている。部屋の隅には洗濯物。テーブルには開封していない郵便物。

スマホには、返していないLINEがいくつか溜まっていた。

友達から、
「今度飲もうや」
と来ていた。

僕は、
「また連絡する」
と返した。

たぶん連絡しない。
人と会うのも面倒になっていた。

休みの日には昼まで寝て、起きてスマホを見て、どうでもいい動画を眺めている。気がつけば夕方になっている。

腹が減ったらスーパーへ行く。

店員に、
「お箸つけますか?」
と聞かれて、
「はい」
と答える。

その日、一番長く交わした会話がそれだったこともある。

何もしていないのに疲れている。
そんな毎日だった。

ある朝、鏡を見た。
髭も剃らず、寝癖のついた頭で、歯ブラシをくわえている自分がいた。

僕は鏡の中の男に聞いた。
「お前、何してんの?」
もちろん、答えは返ってこなかった。

昔はもっと、何かやりたいことがあった気がする。もっと面白い人間だった気もする。

誰かに褒められれば嬉しかった。誰かに頼られれば、少し誇らしかった。

自分には何かできる。
そんなふうに思っていた時期もあった。
でも、それが何だったのか、よく思い出せなかった。

何者かになりたかった。
でも結局、何者にもなれなかった。

ヒーローなんて言葉からは、最も遠い場所にいる人間だった。

誰かを助けるどころか、自分の毎日すらまともに片づけられない。

そんな男だった。

その日の夜、
酒を飲みながら、なんとなくスマホで航空券を見ていた。

旅行へ行こうと決めていたわけではない。まして、行きたい国があったわけでもない。

ただ、ここではない場所に行きたかった。

航空券の検索画面を開き、出発地だけを入れた。

行き先の欄には、
「すべての場所」
という選択肢があった。

知らない街の名前と、航空券の値段が次々と並んだ。

適当にスクロールしていると、妙に安い航空券が出てきた。

何かを何回か我慢すれば払えるくらいだった。

「安っ」
それだけは覚えている。

どこの国なのか、よく見た記憶はない。
酔っていたからなのか。

僕は、その購入ボタンを押した。

     *

翌朝、枕元にあったスマホを見る。

めずらしく広告以外のメールが、1件届いていた。目を細めて、行き先を見る。

そして、声が出た。
「……タイ?」

昨夜の僕は、どうやらタイ行きの航空券を買ったらしい。

タイについて、ほとんど何も知らなかった。

暑い、物価が安い、屋台が多い、寺院がある、山岳民族がいる、キックボクシング、トムヤムクン、そして発展途上国。

その程度だった。

正直に言えば、日本より時代が遅れている国。

そんなイメージさえ持っていた。

海外へ行ったことのない人間が、テレビやネットで見た断片だけで勝手に作ったイメージだ。

今思えば、ずいぶん失礼な話だった。

でも、その時の僕は、そんなことにすら気づいていなかった。

キャンセルしようかと思った。
でも、やめた。

逃げてもいいか、
そう思った。

何から逃げるのかは、自分でも分からなかった。

会社なのか、人間関係なのか、日本なのか。

それとも、自分自身なのか。

たぶん全部だった。

だから僕は、タイへ行った。

     *

空港を出た瞬間、熱気が体にまとわりついた。

暑い。

日本の夏とは少し違う。空気そのものが重い。

湿気と、車の排気ガスと、どこかから漂ってくる甘い匂い。その向こうに、何か食べ物のような匂いも混じっている。

バイクが交差点に列をなしている。
トラックの荷物が、溢れて落ちてきそうだ。
知らない言葉が飛び交う。

僕には、何を言っているのか何も分からない。でも、それがよかった。

誰も僕を知らない。

会社でミスをしたことも知らない。LINEを返さない人間だということも知らない。休日に一日中ベッドで寝ていることも知らない。

ここでは、僕がどんな人間だったのかを知っている人が一人もいない。

それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。

ホテルに荷物を置き、近くを歩いてみた。

少し行った街角に、小さな商店があった。

店先には果物や菓子、日用品が所狭しと並び、奥の冷蔵庫には飲み物がぎっしり詰まっている。

僕は水とビールと、よく分からないスナック菓子を持ってレジへ行った。

財布を出そうとすると、前の客はスマホで支払いをしていた。

別の客もスマホ。
レジの横にはQRコード。
僕は少し意外に思った。

へえ。
タイでも、こんなに普通にキャッシュレスなんだ。

いや、
「タイでも」という言い方が、そもそも失礼だったのだろう。

店員が何か言った。

僕は笑って、
「サンキュー」
とお礼言った。

レシートを受け取った。

ホテルへ戻り、ベッドの上に買ったものを広げた。緑の象のラベルのビールを開ける。

一口飲んだ。
冷たい。
うまかった。

何気なくレシートを見る。
そこで、僕の手が止まった。
数字が書いてあった。

2569。

僕はしばらく見ていた。

2569。

もう一度見る。

やっぱり2569。

スマホを開く。
日付を見る。
2026。

レシートを見る。
2569。

僕はビールを置いた。

「……なんだこれ」
独り言が出た。

店の番号かもしれない。商品コードかもしれない。でも、数字の並び方が、どう見ても日付だった。

僕はもう一度スマホを見る。
2026。

その夜は、あまり深く考えなかった。

     *

翌朝、窓の向こうには強い朝の日差しが降り注いでいた。

日本にいた頃は、朝食なんてほとんど食べなかった。コーヒーだけ飲んで会社へ行くことも多かった。

でも、旅先ではなぜか朝から腹が減る。

ホテルを出る時、フロント横に置いてある案内を見た。

また数字があった、2569。

僕は立ち止まった、
昨日と同じだ。

街へ出ると、広告、イベントのポスター、病院の案内、店先の掲示物。ところどころに同じ数字が現れる。

2569。

2569。

2569。

僕はだんだん気味が悪くなってきた。
そしてもう一つ。

街を歩けば歩くほど、僕が日本で勝手に抱いていたタイのイメージが崩れていった。

小さな屋台でも、客は当たり前のようにスマホで支払っている。

道路には、見慣れないメーカーの電気自動車が次々と走っていた、充電設備もある。

大型ショッピングモールへ行けば、若い人たちは日本と変わらない。

いや、日本以上に自由な格好をして歩いている。

男性なのか、女性なのか。

そんな区別をすること自体が急に古臭く思えるほど、いろんな人がごく普通に街の中にいた。

女性らしい服装をした男性。
男性らしい格好をした女性。
派手な服を着た若者。
髪を好きな色に染めた人。

でも、誰も振り返らない。

誰も特別なものを見るような目を向けない。

ただ、そこにいる。
それが、この街では普通に見えた。

欧米人?
中国人?
ミャンマー人?
国籍も肌の色も違う人たちが、同じカフェで、同じテーブルを囲んでいる。

誰も気にしていない。
街そのものが、
「好きにすればいいじゃないか」
と言っているように見えた。

僕は少し戸惑った。

日本にいた時、僕はタイを日本より遅れた国だと思っていた。

でも、違う。
少なくとも、僕が目の前で見ているこの街は違った。

キャッシュレス、EV、ジェンダーの自由、外国人が自然に混ざり合う街、人々の距離、自由さ。

僕には、むしろ日本より先へ進んでいるように見えた。

そして、また目に入る。
2569。

スマホを見る。
2026。

街を見る。

EVが走っている、スマホ決済、さまざまな国の人、自由な服装、誰も誰かを気にしていない。

そして、2569。

僕の頭の中で、点と点が勝手につながり始めた。

2569から2026を引く。
543。

「……543年?」
まさか。

いやいや、そんなわけがない。
僕は笑った。
でも、もう一度街を見る。

知らない文字、知らない人々。僕が日本で想像していたより、ずっと先へ進んでいる社会。

そして、2569。
「俺……未来に来た?」

自分で口にして、さすがにバカらしくなった。

飛行機に乗っただけだ。そんなことがあるわけがない。
たまたま僕が知らない、何か別の数字なのだろう。

そう思い直そうとした。

僕はそのまま、目の前にあった大型ショッピングモールへ入った。

外の熱気が嘘のように、冷たい空気が流れていた。

吹き抜けの広い空間、ガラス張りの店、ブランドショップ、行き交う人たち。

その中央に、巨大なデジタルスクリーンがあった。

タイ政府のニュースらしき映像が流れていた。

タイ語だから、何を言っているのかは何も分からない。でも、画面の隅に見覚えのある数字があった。

2569。
僕は足を止めた。

映像が切り替わった。

新しい電気自動車。
高層ビルの建設現場。
大きな工場で動くロボットアームと、それを取り囲む技術者。

僕には、どれも未来のニュースに見えた。

そしてまた、2569。
僕はスクリーンから目が離せなかった。

レシートだけじゃない。
ホテルだけじゃない。
街のポスターだけでもない。

ニュースまで2569。

なのに、周りを歩く人たちは誰一人として驚いていない。

みんな普通に歩いている。
若者がスマホで買い物をしている。
女性らしい服装をした男性が、友人たちと笑いながら歩いている。

外国人らしい家族がアイスクリームを食べている。

アジア人の若者たちが笑いながら通り過ぎる。

誰も、誰かの格好や生き方を気にしているようには見えない。

ガラスの向こうの道路には、EVが静かに走っている。

誰も、2569という数字を気にしていない。

その時、頭の中で何かがひっくり返った。

この街がおかしいんじゃない。
みんなにとっては、これが普通なんだ。

ということは。
おかしいのは、この街じゃない。

俺の方だ。

僕はスマホを見る。
2026。

巨大なニュース画面を見る。
2569。

スマホ。
2026。

ニュース。
2569。

僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。

それでもまだ、心のどこかで抵抗していた。

そんなことがあるわけがない。
そう思っていた。

その時だった。
隣から、一人の青年に声をかけられた。
青年はタイ語で何かを話しているのだろう。

僕には、何を言っているのかまったく分からない。

困った顔をしていると、青年は少し考えて、英語に切り替えた。

「トラベル?」
青年は笑っていた。

「イエス」
僕も笑った。

僕は巨大なニュース画面を指差して言った。
「イヤー?」

青年も画面を見る。

そして、僕は2569を指差した。
僕は自分のスマホを見せた。
「2026」

青年が一瞬黙った。
「Two thousand twenty-six?」
2026年だって?

青年は僕の顔を見た。
そして、笑った。

隣にいた友人らしい男に何かを言った。

友人も僕を見る。
そして、二人で笑った。

僕だけが笑えなかった。
胸の奥で、何かが止まった。

2026。
その数字を聞いて笑った。

僕はもう一度、巨大な画面を見る。
2569。

青年たちはまだ笑っている。

その瞬間、頭の中で最後のひとつがつながった。

そうか。
2026年なんて、この青年たちにとっては大昔なんだ。

500年以上も昔の年を、目の前の外国人が突然、自分の生きている時代みたいに口にした。

そりゃ笑うだろう。

僕だって、500年以上前から来たと言い出す人間が目の前にいたら、たぶん同じように笑う。

僕はスマホを見る。
2026。

青年を見る。
青年たちは、まだ笑っている。

巨大なスクリーンを見る。
2569。

街を見る。

EVが静かに走っていく。誰かがQRコードで支払いをしている。いろんな国の人が歩いている。

そして、街のあちこちには2569。
もう、偶然とは思えなかった。
僕は息を呑んだ。

「……本当に?」
もう一度、2569を見る。

「俺……本当に543年後に来たんだ」

この時、疑いが確信に変わった。

もし本当に未来だったら、
人生で初めて、僕は特別な人間になれるかもしれない。そんな気がした。

日本では、何者にもなれなかった。

会社では代わりのきく社員。家に帰れば、散らかった部屋で一人。誰かに必要とされている実感なんて、ほとんどなかった。

でも、もしここが543年後なら。

僕は2026年を知っている唯一の人間になる。

過去から来た男。
それは、かなり特別だ。

僕はショーウィンドウの前に立った。
そこに映っているのは、昨日と同じ顔だった。

少し日焼けしている。髪は相変わらず乱れている。腹も少し出ている。

とても未来を救う男には見えない。
でも、映画の主人公だって、最初は普通の人間だったりする。

僕はガラスに映る自分に言った。

「もしかして……俺、重要人物なんじゃないか?」そう考えた瞬間、自分でもおかしくなって少し笑った。

でも、僕は久しぶりにワクワクしていた。

     *

目覚ましが鳴る前に起きた。
日本ではありえない。
カーテンを開けると、朝日が強かった。

僕はシャワーを浴び、Tシャツを着て、靴を履いた。

不思議だった。
昨日までなら、旅先でも昼まで寝ていたかもしれない。でも今は、街を見たかった。

543年後の世界を。

街はもう動き始めていた。
バイクの排気ガス、店のシャッターを開ける音、犬が歩いている。

オレンジ色の袈裟を着た僧侶が、静かに道を歩いていく。そのうち一人の僧侶が立ち止まり、スマホを見ていた。

543年後にも、お坊さんはいるらしい。
そして、お経までスマホに入っているのかもしれない。

     *

昼になると、猛烈に暑くなった。
きっと地球温暖化が進んでいるんだろう。

僕は市場の食堂に入った。

メニューを見ても、何が書いてあるのか分からない。困っていると、隣のテーブルに料理が運ばれてきた。

鶏肉らしきものを炒めた料理に、目玉焼きが乗っている。

うまそうだった。

僕は店のおばちゃんを呼んで、隣の料理を指差した。

それから、自分の前のテーブルを指差す。

おばちゃんは僕の顔を見て、笑いながらうなずいた。どうやら通じたらしい。

しばらくして、同じ料理が僕の前に置かれた。

一口食べた。
けっこう辛い。
と思った次の瞬間、本当に辛い。

汗が噴き出した。
でも、うまい。
僕は水を飲んだ。

店のおばちゃんが、僕の顔を見て笑っている。「スパイシー?」

僕は、「ノープロブレム」
と答えた。
でも、完全に問題だった。
おばちゃんがさらに笑った。

僕も笑った。

日本にいた時、知らない人とこんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。

食べ終わって店を出た。
それだけのことなのに、少し気分がよかった。

夕方、空の色が急に変わった。

灰色の雲が広がり、風が吹いた。
市場の人たちが慌ただしく動き始める。
そして、雨が落ちてきた。
一滴。
二滴。
と思った次の瞬間、空が落ちてきた。
そんな降り方だった。

543年後のタイの雨には、加減というものがない。

道路は一瞬で水に覆われた。
人々が走る。
屋台の店主たちは、商品を守るためにシートを広げる。

店で笑っていたおばちゃんが、風にあおられたシートを一人で押さえていた。

商品が濡れそうになっている。

僕は考える前に走っていた。
「ここ?」
日本語で叫んだ。
当然通じない。

おばちゃんが向こう側を指差す。
僕はそこを持った。

風が吹く。
シートが膨らむ。
雨が顔に叩きつける。
Tシャツは数秒で濡れ、靴の中に水が入る。

おばちゃんが何か叫ぶ。
僕も叫ぶ、「分からん!」

おばちゃんが笑う。
僕も笑った。
雨の中で、二人ともずぶ濡れだった。

しばらくすると、風が弱くなった。
商品は無事だった。

おばちゃんは胸の前で手を合わせた。
「コップンカー」

僕は手を振った。
「大丈夫、大丈夫」
もちろん、日本語だった。
でも、なぜか通じたような気がした。

その夜。
ホテルへ戻り、濡れた服を浴室に干した。

シャワーを浴びて、ベッドに座る。
ライオンのラベルの冷たいビールを開けた。
僕は昼間のことを思い出していた。

未来の知識なんて、何ひとつ必要なかった。
ただ、シートの端を持っただけだった。
それなのに、今日一日の中で一番気分がよかった。

ヒョウ柄のラベルのビールを、もう一本開けた。

この国の人は、動物が好きらしい。

     *

道端で一台のバイクを押している青年を見かけた。

汗だくだった。
故障したらしい。
僕は一度通り過ぎた。

10メートルほど歩いて、立ち止まった。
振り返る。青年はまだ押している。

見覚えのある顔だった。

この前、ショッピングモールで2026という数字を聞いて笑った青年だった。

向こうも僕に気づいた。
「あっ」
という顔をして、笑った。

僕も笑った。
僕は戻った。
「ヘルプ?」

青年が驚いた顔をした。

僕は後ろからバイクを押した。
重い。
思っていたよりずっと重い。

暑い。
汗が背中を流れる。
しばらく二人で押した。

修理屋らしい店まで着くと、青年は頭を下げた。そのあと、近くの店で水を買ってくれた。

二人で道端に座った。
青年は少し英語の単語を話した。
僕はタイ語をまったく話せない。

会話はすぐ途切れた。
でも、気まずくなかった。

水を飲む、バイクを見る、犬を見る、時々笑う。それだけだった。

日本では、会話が途切れることを怖がっていた。

何か面白いことを言わなければ。相手を退屈させてはいけない。そう思っていた。

でも、この青年とは言葉すらほとんど通じない。だから、沈黙が普通だった。

それが妙に楽だった。

     *

市場で泣いている女の子を見つけた。

4歳か5歳くらい。

小さなサンダルに、ピンク色の服。顔を真っ赤にして泣いている。

周りに親らしき人はいない。
僕はしゃがんで笑ってみた。
女の子は、さらに大きな声で泣いた。

そりゃそうだ。
知らない外国人のおじさんが、急にしゃがんで笑ったら怖い。

僕は困った。
逃げたくなった。
でも、そのままにしておけなかった。

近くの店員に声をかけ、身振り手振りを使った。

迷子。
母親。
探す。

何人かの市場の人が動き始めた。
10分ほどして、女性が走ってきた。

女の子が、
「メー!」
と叫んだ。
母親に飛びつく。
母親は娘を抱きしめ、僕たちに頭を下げた。

僕は、何もしていないような気がした。
実際、母親を見つけたのは市場の人だった。
僕はただ、泣いている子のそばにいただけだった。

でも、そのあとなぜか、女の子の顔を何度も思い出した。

日本での僕は、困っている人を見ても、見ないふりをすることがあった。

電車で席を譲ろうと思って、結局、声をかけられなかったこともある。

道で困っている外国人を見て、英語が面倒だから通り過ぎたこともある。

でも、この街では少しだけ違った。

理由は分かっていた。
僕には、使命がある。
そう思っていたからだ。

2026年から来た自分には、この世界で何かをしなければならない。

その思いが、一歩目を押してくれた。

     *

僕の日常は変わった。
朝早く起きて市場へ行き、いつもの店でコーヒーを飲む。

店員が僕の注文を覚え始める。

最初は指差しだったのに数日後には、僕が店の前に立つだけで同じコーヒーが出てきた。

店のおばちゃんは、僕を見ると手を振る。
僕も手を振る。

バイクの青年を見かければ、一緒に昼飯を食べる。

タイ語を教えてもらう。
僕の発音が変で、青年が笑う。
僕も笑う。

夕方になると、市場の匂いが変わる。
炭火の煙、焼いた肉、ニンニク、唐辛子、甘いデザートと果物、雨のあとのアスファルト。

そんな匂いの中を歩きながら、僕は困っている人はいないかを見るようになっていた。

荷物を運ぶ。
倒れた看板を起こす。
旅行者に道を聞かれる。
僕も知らないから、一緒にスマホを見る。

テーブルの脚がぐらついていれば、店の人と一緒に直す。
暑そうな犬がいれば、水をあげる。

どれも大したことではない。
世界は1ミリも変わらない。
ニュースにもならない。

でも、僕は毎晩ホテルへ帰る時、日本にいた頃より少しだけ疲れていて、日本にいた頃よりずっと気分がよかった。

会社で褒められたわけでもない。お金を稼いだわけでもない。何かに成功したわけでもない。

ただ、誰かが笑った。

誰かがタイ語で、ありがとうと言ったみたいだった。

それだけだった。

     *

それは、午後だった。

市場を出て、大通りを歩いていた。
暑かった。
日差しがコンクリートに反射して、街全体が白く光っているように見えた。

僕は道端のカフェで買ったアイスコーヒーを飲みながら、ホテルへ戻ろうとしていた。

その時、前方に人だかりが見えた。
10人、20人。
もっといたかもしれない。

みんな同じ方向を見上げている。
誰かが叫んでいる。
スマホを耳に当てている人もいる。

僕もつられて上を見た。
マンションだった。
その中ほどの階。

ベランダの外側に、小さな子どもがいた。

最初、何を見ているのか分からなかった。

子どもの体が柵の向こう側に出ていた。
片手で何かにつかまっている。
足は、宙に浮いていた。

手に持ったアイスコーヒーから、冷たい滴が暑いアスファルトに落ちた。

周囲が騒然としている。
女性が泣き叫んでいる。
誰かがどこかへ走っていく。

電話をしている人。
管理人らしい男が建物の中へ駆け込んでいく。下から「動くな」と叫んでいるらしい人。

でも、まだ誰も子どものところには行けていない。

僕は一瞬、理解できなかった。
なぜ?
なぜ誰も行かない?

もちろん、救助を呼んでいるのだろう。
警察、消防、管理人。
未来なら、きっともっと安全な救助方法がある。

そう考えるべきだった。
でも、僕の頭はまた勝手な方向へ走った。

543年後、社会は便利になった。

スマホひとつで何でもできる。車は電気で走る。支払いは一瞬。誰もが自由に生きられる。

その代わり、
もしかしたら、人間は自分で危険の中へ飛び込むことをしなくなったのかもしれない。

誰かが助けてくれる。
システムが助けてくれる。
専門家が来てくれる。

未来では、そういう社会になったのかもしれない。本気で、そう思った。

でもその時、僕にはそれしか考えられなかった。

子どもの片手がずれた。
群衆から悲鳴が上がった。
その瞬間、頭の中から音が消えた。

会社のことも、日本のことも、未来のことも。何も考えなかった。

気がつけば、僕は建物へ向かって走っていた。

誰かが止めようとした。
何か叫ばれた。
でも、言葉が分からなかった。

いや、
たぶん日本語で言われても、止まらなかったと思う。

建物の中へ入る。
管理人らしい男が上を指差している。

僕は階段を上がった。
息が切れる。
足が重い。

子どものいる部屋には、すぐには入れないらしかった。

人が集まっている。
誰かが鍵を探している。
誰かが電話をしている。

僕は一つ下の階へ走った。
廊下には、何人かの住人が出ていた。

僕は一人の男に駆け寄り、上を指差した。
男はすぐに察した。

廊下の奥へ走り、ドアを叩く。
ドアが開いた。
住人らしい女性が顔を出す。
男が何か叫び、女性は上を見た。
そして、すぐに僕を部屋へ通した。

僕は部屋の中を走り抜ける。
ベランダへ出る。
上を見る。

子どもの足が見えた。
すぐ上だ。
でも、届かない。

隣のベランダとの間に、外壁のわずかな出っ張りがあった。

そこを数メートル進めば、子どもの真下へ近づける。僕は、そこから先へ出た。

自分でも驚くほど怖かった。
手が震えていた。
ヒーローだから怖くない、なんてことはなかった。

怖い。
帰りたい。
誰かに任せたい。
そう思った。

壁に手をかける。
足を置く。
一歩。
もう一歩。

下を見た瞬間、心臓が縮んだ。
人が小さかった。  

やめろ。
頭の中で誰かが言った。
落ちるぞ、お前が死ぬぞ。 

僕は壁にしがみついた。
息を整えた。
その時、子どもが泣いた。

僕は顔を上げた。
あと少しだった。
「マイペンライ」
覚えたてのタイ語で言った。

聞こえていたかどうかは分からない。
「大丈夫だから」
自分自身に言っていたのかもしれない。

近づく。
子どもの手が震えている。
顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

僕は、できる限りゆっくり手を伸ばした。
「マイペンライ」
もう一度、声に出した。

正しい使い方なのか、自分でも分からない。
でも、今の僕が知っているタイ語の中で、一番言いたいことに近かった。

大丈夫、大丈夫だから。
子どもが僕を見る。

その瞬間、子どもの手が滑った。
僕は反射的に腕を伸ばした。

小さな体が落ちてきた。
僕は、その体を抱えた。
重かった。

いや、軽かったのかもしれない。

でも、あの瞬間だけは、世界中の重さが腕にかかったように感じた。

僕は子どもを胸に押しつけた。
泣き声が、すぐ耳元で聞こえた。
生きている、そう思った。

ただそれだけで、膝から力が抜けそうになった。

少しずつベランダへ戻った。
誰かの手が伸びてきた。
子どもを渡した。

女性が泣きながら抱きしめる。
周りの人たちが叫んでいる。
拍手、泣き声、スマホ。

人。

人。

人。

僕は壁にもたれて座り込んだ。

足が震えていた。
手も震えていた。
突然、泣きそうになった。
怖かった。
ものすごく怖かった。

僕は今さらになって気づいた。
自分も、落ちていたかもしれない。
誰かが僕の肩を抱いた。
誰かが水をくれた。

タイ語で何か言われた。
全然分からなかった。
ただ、何度も聞こえた言葉があった。

「ヒーロー」

僕は顔を上げた。

「ヒーロー」

あちこちから聞こえる。

僕は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。

     *

その夜、ホテルへ戻る時、バイクの青年にばったり出会った。

青年は僕を見るなり目を大きくして叫んだ。
「ヒーロー!」

僕は意味が分からなかった。
青年がスマホでリンクを開いて見せてくれた。

そこには、僕がいた。
マンションを見上げている僕。
走っていく僕。
子どもを抱いている僕。

誰かが撮影した動画がSNSに上がっていた。
再生回数が、信じられない速さで増えている。

別の動画。
別の投稿。
ニュースらしきページ。
僕の写真。
タイ語の文字。

僕の名前は知られていない。
だから投稿には、
「ジャパニーズ マン」
「ジャパニーズ ヒーロー」
そんな英語が混じっていた。

青年が言った。
「Thailand know you」
タイが、あなたを知っている。

僕はベッドに座ったまま、スマホを見ていた。

日本では、僕が一日会社を休んでも何も変わらなかった。

僕がLINEを返さなくても、世界は普通に回っていた。

僕が一日ベッドから出なくても、誰も困らなかった。

そんな自分が、遠い国で、何万人、何十万人という知らない人からヒーローと呼ばれている。

僕は嬉しかった。
でも、同時に怖かった。

僕はヒーローなんかじゃない。
あの時だって、怖くて仕方なかった。
ただ、誰も行かないように見えたから行っただけだ。

それだけだった。

それなのに、スマホの向こう側で、僕はどんどん立派な人間になっていった。

     *

市場へ行くと、空気が違った。
僕を見た人が振り返る。
誰かがスマホを向ける。
知らない人が握手を求めてくる。
写真を撮ってほしいと言われる。

僕は困った。
昨日まで、ただの日本人旅行者だった。

今日は、みんなが僕を知っている。

いつものおばちゃんは、僕の顔を見るなり泣いた。そして、抱きしめてきた。

バイクの青年は、僕の肩を何度も叩いた。
「ヒーロー!」

僕は首を振った。
「ノー」

でも、青年は笑った。
「イエス」

それ以上、言えなかった。

     *

最初は、逃げるためにタイに来た。

誰にも知られていない場所へ行きたかった。

でも今は、この街に僕の顔を知っている人がいる。

いや、街どころではない。

知らない町に住む人まで、僕の顔を知っている。

でも、僕にとって大事だったのは、そんなことではなかった。

朝、コーヒーを作ってくれる人がいる。
手を振ってくれるおばちゃんがいる。
一緒に飯を食う青年がいる。
僕が通れば、笑ってくれる人がいる。

日本へ帰れば、また元の生活が待っている。
会社。
散らかった部屋。
未読のLINE。
僕は少し怖かった。

そんな夜、いつもの屋台の前で、おばちゃんと青年と一緒に夕食を食べていた。

風が少し涼しかった。

市場の照明、食器の音、バイクの音、遠くから聞こえる音楽。

僕は、この景色を覚えておこうと思った。

青年が突然聞いた。
「Why you help everyone?」
どうして、みんなを助けるのか。

僕は箸を止めた。
少し考えた。

これは、まだ誰にも言っていなかった、
僕の秘密。
僕がここへ来た理由。

いや、
正確には、僕がここへ来たあとに知った、自分の使命を、そろそろ話してもいいと思った。

僕は少し顔を落とした。

二人が僕を見る。

僕はスマホを取り出し、日付を見せた。
2026。
「I’m from 2026」
2026年から来たと。

青年は少し眉をひそめた。
その顔に、何となく見覚えがあった。

おばちゃんも僕を見る。

僕は続けた。
「Thailand……」
タイは......。

店に貼ってあった紙を指差した。
そこには、あの数字があった。
2569。

僕は胸を張った。
「Thailand……2569」
タイは2569年だと。

青年は黙っている。

「I came from……」
私は来た。

僕は指で計算するふりをした。
「543 years ago」
543年前から。

沈黙した。
市場のざわめきだけが聞こえた。
青年は僕の顔を見ている。

その口元が、少しずつ震え始めた。
そして突然、吹き出した。
笑った、腹を抱えて笑った。

その笑い方を見て、僕は一瞬、どこかで同じものを見たような気がした。

ショッピングモールだ。
巨大なニュース画面の前。

僕が、「2026」と言った時。
青年は、まったく同じように笑っていた。

でも、思い出した理由を考えるより先に、おばちゃんも何か分かったらしい。

僕の顔を見る、青年を見る。
そして、大笑いし始めた。

二人とも涙まで流している。

僕だけが笑っていない。
「What?」
なぜ?

青年は笑いながらスマホを取り出した。

電卓を開き、数字を打つ。
2569−543=2026
画面を僕に向けた。

僕は画面を見た。
何が言いたいのか、まだ分からない。

青年が言った。
「Buddhist calendar」
仏暦だと。

「……Buddhist?」
仏暦?

「Thailand calendar」
タイのカレンダー。
青年は説明し始めた。

タイでは、仏暦を使う。
今年は2569年、西暦では2026年。

つまり、
2026+543=2569。

僕は画面を見た。
2569−543=2026。

もう一度見る。
2569−543=2026。
頭の中で、何かが崩れ落ちた。

街角の小さな商店のレシート。
ホテルの案内。
街のポスター。
巨大なニュース画面。

キャッシュレス決済。
電気自動車。
自由に生きる人たち。
外国人であふれる街。
そして、あの日のショッピングモール。

「2026」と言った僕を見て、笑った青年。

あの時、僕は思った。

2026年なんて、この人たちにとっては大昔だから笑ったのだと。

違った。
全部、未来だから存在していたわけではない。

今だった。

ニュース画面の2569も、レシートの2569も、ホテルの2569も全部、今だった。

ここは未来ではなかった。

僕はタイムスリップしていなかった。
飛行機に乗っただけだった。
日本を出発して、普通にタイへ来ただけ。

「……ノー!」僕は頭を抱えた。

青年はまだ笑っている。

「ノー!……」

おばちゃんも笑っている。

僕は、これまでの日々を思い出した。

タイは日本より遅れている。
そう勝手に思っていた。

実際に来たら、自分の想像よりずっと自由で、ずっと便利で、ずっと国際的だった。

だから、未来だと思った。

ニュースの画面に2569と出ていたのに、誰も驚いていなかった。

だから、未来だと確信した。

2026と言った僕を青年が笑った。
だから、2026年は遠い昔なのだと思った。

昼間が猛烈に暑かった。
だから、543年後の地球温暖化だと思った。

僧侶がスマホを見ていた。
だから、お経までスマホに入っていると思った。

ビールに動物が描いてあった。
だから、この国の人は動物が好きなのだと思った。

マンションの下で、誰もすぐに子どものところへ行かなかった時も、未来の人間は勇気を失ったのだと勝手に決めつけた。

全部、僕の思い込みだった。
なんてバカなんだ。
僕は顔を覆った。

できれば543年前まで戻りたかった。

「My mistake」
私の間違いだった。

僕が言うと、青年が即答した
「Yes」

そこは否定してほしかった。

     *

翌朝、目が覚めた。

天井を見る。
昨日のことを思い出した。
恥ずかしい、猛烈に恥ずかしい。

ベッドの横には、帰国する荷物が置いてある。

僕はため息をついた。
結局、僕は何者でもなかった。

未来の人でもない。
選ばれた人間でもない。
特別な使命もない。
ただの、日本から来たバカな旅行者だった。

なんだ。
結局、日本にいた時と同じじゃないか。

何者にもなれなかった。

僕は荷物を持ってホテルを出た。
空港へ向かう前に、最後に市場へ寄った。
おばちゃんに挨拶だけして帰ろうと思った。

市場の角を曲がる。
そして、足が止まった。
人がいた。

いつものおばちゃん、バイクの青年、迷子だった女の子とその母親、コーヒーの店員、市場の人たち。

そして、マンションで助けた子どもと、その家族もいた。

知らない顔もいる。

僕を見る。
一人が手を上げた。
「ヒーロー!」
みんなが笑った。

僕も苦笑いしながら、首を振った。
「ノー 、ヒーロー!」

未来から来たわけでもない。
特別な人間でもない。
ただの、勘違いした日本人だ。

そう言おうとした時、おばちゃんが僕の腕を軽く叩いた。
「You help people」
あなたは人々を助けた。

そして、僕を見て笑った。

「That’s hero」
それはヒーローよ。

僕は何も言えなかった。

未来から来たかどうかなんて、最初から誰も気にしていなかった。

気にしていたのは、僕だけだった。

胸の奥が、急にいっぱいになった。

雨の日を思い出した、
シートを押さえただけだった。

バイクを押した。

迷子の子どものそばにいた。

荷物を運んだ。

倒れた看板を起こした。

テーブルを直した。

犬に水をやった。

そして、あの日。
怖くて仕方なかったのに、マンションを見上げて、一歩だけ前へ出た。

何ひとつ、特別な力があったわけではない。

そして僕は、ずっと勘違いしていた。

特別な人間だから、人を助けられるのだと思っていた。使命があるから、行動できるのだと思っていた。

違った。

先に必要だったのは、特別な力じゃなかった。目の前に困っている人がいた時、一歩出ること。

たったそれだけだった。

僕は未来なんて知らなかった。
歴史なんて変えていない。
世界なんて救っていない。

でも、あの雨の日、おばちゃんの商品は濡れなかった。

あの青年は、一人でバイクを押さなくて済んだ。

あの女の子は、母親が来るまで一人ではなかった。

そして、あの子どもは今、母親の隣で笑っている。

それは、確かに起きたことだった。
勘違いではなかった。

僕はずっと日本で、自分には何もできないと思っていた。

何者でもないから。
能力がないから。
自信がないから。
余裕がないから。
そんな理由をたくさん並べていた。

でも、人を助けるのに、何者かになる必要なんてなかった。

僕はおばちゃんに、小さく頭を下げた。

「コップン カップ」

タイに来たばかりの僕は、「サンキュー」と言っていた。
でも今は、覚えたタイ語で「ありがとう」と言えた。

なぜ僕の方がお礼を言っているのか、自分でも分からなかった。

     *

空港へ向かう途中、タイの街が流れていく。

市場、バイク、屋台、学校、寺院、
からまった電線、犬、歩いている人。

電気自動車。
スマホを片手に歩く若者。
自分らしい格好で街を歩く人たち。
さまざまな国の人。
来た時と同じ景色のはずなのに、少し違って見えた。

スマホを開く、2026。

財布から、あの日のレシートを取り出す。
2569。

今度は笑った。
2569。

未来ではない、タイの仏暦だ。
2569−543=2026。
たったそれだけのことだった。

もし最初の日、街角の小さな商店を出た直後に、僕がGoogleで検索していたら。
「タイ 2569」
と調べていたら。
10秒で答えを知っていた。

「なんだ、仏暦か」
それで終わった。

僕は未来の人にはならなかった。
使命も持たなかった。
ニュース画面の2569を見ても、何とも思わなかっただろう。

青年に2026と言って笑われても、ただの会話で終わっただろう。

朝から市場へ出かけて、誰か困っていないかを見ることも、たぶんなかった。

雨が降れば、屋根の下へ逃げただろう。

バイクを押している青年を見ても、暑いから通り過ぎたかもしれない。

迷子を見ても、誰かが何とかするだろうと思ったかもしれない。

そして、あの日。
マンションの下にいた僕も、誰かが助けるだろうと、ただ見上げていたかもしれない。

もしそうなら、あの人たちと知り合うこともなかった。

だから、人生には時々、間違えた方がいいこともあるのかもしれない。

少なくとも、僕にはそうだった。

僕は未来の人になれると思った。
だから、少し勇気を出した。
少しお節介になった。
少しだけ、昨日までの自分とは違う行動をした。

そして気がつけば、その勘違いに僕自身が救われていた。

日本から逃げるように旅に出た時、僕は何者にもなれなかった男だった。

タイへ来ても、結局それは変わらなかった。

未来人でもない。
救世主でもない。
特別な能力もない。
やっぱり僕は何者でもない。
でも、もうそれでいいと思った。

何者でもない人間でも、誰かの荷物を持つことはできる。

雨の中で、一緒にシートを押さえることはできる。

泣いている子どもの隣にいることはできる。

疲れている人に、水を渡すことはできる。

そして、本当に誰かが困っている時、怖くても一歩だけ前へ出ることはできる。

世界の未来を変えることは、僕にはできない。

でも今日、目の前にいる誰かの一日を、ほんの少しだけ変えることなら、できるかもしれない。

     *

飛行機が滑走路を離れた。

タイの街が少しずつ小さくなっていく。

僕は窓の外を見ながら思った。

日本へ帰ったら、まず部屋の洗濯物を片づけよう。

溜まっているLINEにも返事をしよう。

「また飲もう」と言ってくれた友達にも、今度は自分から連絡してみよう。

会社では、また失敗するかもしれない。

きっと、劇的に人生が変わるわけでもない。

明日から突然、立派な人間になるわけでもない。

それでも、以前の僕とはほんの少しだけ違う。

たぶん。

人は、ある日突然ヒーローになるわけじゃない。誰も見ていないところで、小さなことをひとつやる。

次の日も、またひとつやる。

その積み重ねの先で、誰かが勝手にそう呼ぶだけなのかもしれない。

僕の場合は、始まりが少し間抜けだった。
ただ、タイの暦を知らなかった。
それだけで、自分が543年後へ来たと思い込んだ。

でも、
僕は今でも、あの勘違いを少しだけ誇りに思っている。

だって、日本で何者にもなれなかった男が、逃げるようにやって来たタイで、ほんの短い間だけ、誰かのヒーローになれたのだから。


このタイの自然の空気を、
服として纏える場所があります。
北タイの手仕事から生まれた
ナチュラル・ハンドメイド・ウェア

この感覚を形にした服がGENIEです。
→ プロフィールから
https://genienature.official.ec/


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