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創作小説|神さびた黴(かび)|前編

こんばんは。
つい昨日から漫画原作版『大奥』を読み始めています。

第1巻を読み終わった時点で、「おいおい…この漫画やべーぞ…」と放心し、よしながふみという漫画家の底力を垣間見させてもらったような気がしました。(この作品もいつか論じたい…!)

さて、そんなわけで今宵はゲンロンSF創作講座の課題として提出した創作小説をお届けします。

この作品は、「読んでいて"あつい"と感じるお話を書いてください」というお題に対して提出されたものなのですが、この頃一度でいいから歴史改変SFを書きたい!という欲望が筆者の中にふつふつと沸いていて、半ば強引に課題と結びつけて書いた作品でもあります。

また、筆者としては一ヶ月で本文を書くために資料集めに奔走したり図書館に通ったりしながら必死で書き上げた記憶が思わず蘇ってしまう短編です。

そのかいもあってか、同期の受講生から「小松左京みたい。すごいものを読んだ」という感想をいただいたり、早川書房の編集者である溝口力丸さんから「評価は難しいけど、一ヶ月でこれを書いたのは情熱のなせる技だ」という講評をいただいたりと、それなりに爪痕は残せたのかなと思える作品に仕上がっています。

皆さんにも楽しんでいただけると嬉しいです。

なお、今回は少し長いので前編と後編に分けようと思います。(後編の投稿は不定期。)
あらかじめご了承ください。

それでは、早速いってみましょう!




宮中の南西よりに位置する藻壁そうへき門を潜り京へ一歩抜けるや、それまで毅然として振る舞っていた酒部公さかべのきみ直本は己に残された時間が少ないことを想い静かに項垂れた。

後ろを振り返ろうとも思わないが、両傍では今も刑部ぎょうぶ省(※1)から監視のために遣わされた官司らが緩みなく睨みを利かせているに違いない。

もし直本が気を違えでもして後ろの二人を振り切ろうとしようものなら、官司らは容赦もなく直本を太刀で切り付けるか背にした弓を手に取り矢を射かけることだろう。

どんよりと垂れ込める薄墨色の雨雲を前に、直本は己が閉塞した胸中に再び淡い光が差し込むことは二度とないことを虚しくも悟るのだった。

「もし。そこな御仁方。不躾ではありますが、造酒正さけのかみ(※2)酒部公直本様とお見受けいたします。」

声を頼りに項垂れた頭をゆっくりと正面に戻すと、そこには茶褐色の法衣を纏いその上から聊か法衣の色合いとは不釣り合いな袈裟をかけた二人の僧侶が立っていた。

一人は壮年に差し掛かった落ち着きのある風貌で物腰も泰然として盤石といった体であるが、もう一人は未だ若く沈静を欠き、物事の道理を幾ばくも知らずといった風である。

直本は先まで抱いていた弱音を押し殺し、再び毅然としてよく通る低い声で首肯した。

「いかにも。余は造酒司さけのつかさ(※3)造酒正酒部公直本である。して、其方らは何者ぞ?」

僧侶がその言葉に応えようとした矢先、端に佇んでいた官司の一人が直本を押しのけ前に進み出するどい声を轟かせた。

「貴様は一体何の権があってこの男に話しかけるか。見たところ宮中に用向があるというわけではあるまい。そうでなければ、まずは衛門えもん府(※4)に行き宮中への通行の許可を取られよ。何しろただでさえ宮中では、陛下御快癒のための祈祷を任ずる僧の数が足りぬのだからな!」

「それには及びません。拙僧らの用向は、貴方様が今しがた押しのけなされた御仁にこそあるのです。どうか酒部直本様、拙僧らのためにその貴重なお時間を割いては下さらぬか。」

官司の威圧とした態度にも怯まず微笑みを湛えながら僧侶は応えた。

官司は己を差し置いてなおも直本に願い出る僧侶の非礼にますます怒りを募らせたようだった。

「ならん!この男は八虐(※5)の内もっとも犯すべからざる罪を犯したのだ。よって明日、市にて死刑の執行が下される。用向とあらばこの男が晒し首になった後で幾らでも訪ねるがよい。」

憤然とする官司の言葉は今の直本にとってあまりに重々しく響いた。

残された時間はあまりに少ない。

思えばそのことばかりを気にして、これまで碌に己が罪を内省し懺悔することも満足にしてこなかった。

やはり天の“さだめ”には抗えず、そうであってもこうして最期の時を飾るための機会を天は己に与えて下すったのだろうか。

今がその、潮時なのだと。

「今や天下に仇名す逆賊たる余に用向とは、其方らはよほどの物好きのようだ。よろしい、どうかこの御客人らと最期に話をさせて欲しい。後生である。」

直本がそう願い出ると、先の官司はなおも目を血走らせて否と叫び続けた。

そして強い興奮により我を失ったその官司が腰に提げた太刀を引き抜き僧侶らの方へと駆け出そうとしたその刹那、直本は素早く官司の前に回り込みその腹めがけて一発強烈な拳を見舞った。

拳をもろにくらった官司は白目を剥いて右手に持った太刀をこぼすとその場に力なく崩れ落ちた。

腹を押さえ立つこともままならなくなった官司は直本を詰り罵倒するも絞るように小さな声であったために誰の耳にも入らない。

許せと一言直本が呟いた直後、その傍らにいたもう一人のいくらか利発そうな官司が初めて口を開いた。

「こちらこそ同僚が失礼を働いた。」

それから地面に倒れたままとなった先の官司に寄って助け起こすと、彼を整然とこう諭すのだった。

「死に往く者の最期の願いとあらば、叶えてやらぬは道理に反しよう。それが例え八虐の罪人であっても。なに、もし妙なことをしようものならこの男の家族がどういった扱いを受けるか分からぬ頭ではあるまい。それに見よ。奴の瞳ときたら曇りなき諦観に満ち切っているではないか。」

──

結局上から示された恩情により、直本は僅かの間だけだが僧侶らと話を交わす許可を受けることが出来た。

直本は僧侶らを自らの邸へと案内し侍女に命じて客間へと通させた。

その間直本は客人らの手前最低限礼を慮った内向の服装に着替え、客間で神妙と坐して待っていた二人の前に姿を現した。

「すまぬが、まずは先に聞きそびれてしまったことをもう一度問わせて欲しい。其方らは何者か?」

「拙僧らは名乗るほどの者では御座いませぬ。しかしそれでは障りもありましょう。よって拙僧は教海きょうかい、後ろのは寂仙じょうせんと便宜上名乗らせて頂きます。」

僧侶らの妙な言い回しと口にした名にいくらか違和を覚えはしたが、深くは追究しなかった。

直本は仏教の習わしや事情に疎かったので一々兎角口を挟むことでもない。

それよりも今問題なのは、目の前にこうして佇む僧侶らの用向が何かということに尽きる。

直本は改めて居ずまいを正して厳かに問うた。

「では教海殿、単刀直入にお聞きしよう。もうじき死に往かんとする余に用向とは一体何であるか?」

直本の言葉に教海は目を細め、それから発せられた問の意味をゆっくりと口に含んで吟味するかのように沈考した後ようやく言葉を返した。

「貴方様がお探しになられている件の女子の消息について、助言し得ることがあるかと思い参った次第です。」

その瞬間、何かがぶつかる鈍い音が響いたかと思えば、直本は勢いよく立ち上がっていた。

「それは誠か!?まさか余を謀っているのではあるまいな!」

あまりの衝撃に思わず声が上ずってしまうが、今はそのようなことを気にしている場合ではない。

しかし、この僧侶は何故直本が女子を探していることを知っているのだろうか。

直本の困惑した表情を察して、教海は言葉を紡いだ。

「それほど不思議なことではございますまい。いくつか風の噂を耳にしたまでのこと。しかし飽くまで噂は噂でしかありませぬ。拙僧としては是非此度の厄介な一件について酒部直本様ご自身の口から仔細お話いただければと思っているのです。貴方様から聞いたお話を勘案してようやく、拙僧の推察は確信に変わるでしょうから。」

直本の顔は明らかに強張りを見せているものの、何もかも諦めかけていた胸中に一筋の光が差し込みようやっと幾らか息を吹き返すことが出来たような心地がした。

打つ手がない今、そしてある意味では己よりも多くを知っているかもしれないこの僧侶らに話を聞いてもらうというのも滑稽ではあるが一興ではないか。

そう考え、直本はゆっくりとその場に座り直した。そして、此度に起こった長くはないが短くもない悪夢の仔細を回想し始めるのだった。


1(註)

(※1)律令制の八省の一つ。裁判・行刑をつかさどった役所。

(※2)律令下、朝廷の御用酒を司った造酒司における総責任者。長官の造酒正は正六位の官で、その下に造酒佑さけのたすくという高等官級の役人がいる。文末に参考資料として挙げた『新訂官職要解』によれば酒部公の世襲制とされ、(※10)で説明する職業としての酒部とは別である。 

(※3)律令下の宮内省に属し、朝廷用の酒や酢を造った役所。

(※4)皇居諸門の警衛、出入の許可、行幸の供奉などをつかさどった役所。

(※5)日本古代の律で、国家・社会の秩序を乱すものとして特に重く罰せられた罪。 



造酒正酒部公直本は、その日酒殿(※6)に置かれた無数の甕を前にして暗澹たる表情を浮かべずにはいられなかった。

それというのもそれらの甕になみなみと注がれ満たされた液体、すなわち近々朝廷で催される節会せちえ(※7)の儀のために献上されなければならない御酒ごしゅ(※8)が軒並みすべて火落ち(※9)し、使い物にならなくなってしまったからである。

直本は酒部さかべ(※10)より手渡された杓でもって半勺ほど掬うと、凄まじい臭いを放つ、もはや酒とは呼び得ないその液体に唇をつけた。

その瞬間雑味がねっとりと舌に絡みつき、腐った魚のような独特の臭みが口いっぱいに広がった。

それは胃の腑を刺激し吐き気を催させるも、すぐさま直本によって地面へと吐き捨てられた。

吐き出したにもかかわらず直本の口の中にはしばらくの間それの遺した不快な風味がべったりとこびりついて離れなかった。

その様子を始終見ていた直本の部下の一人である造酒佑は苦言を呈した。

かみ、火落ちした無用の酒であるとはいえ、御酒として醸されたものに無断で口をつけるなどあってはならないことです。もしものことがあっては…。」

「もしものこととは一体何だ?朝廷の官司連中にこのことが公になるのを恐れているのか?それとも、其方。よもや祟りや神罰の類を憂慮しておると?」

「そうは申しておりません。ですが正、御自身の立場も考慮していただきませぬと。それにわれには分からないのです。何故見た目も明らかに悪い酒の味をわざわざ造酒司の長自らが確かめなければならないのです?」

佑のもっともらしい疑問に直本は何とも複雑な表情を浮かべると、苦笑いして言った。

「仕方がなかろう。他に適役がおらんのだ。然るに酒部どもに任せるという手はあるが、あやつらにも酒造りに対する誇りというものがある。わざわざ自分が造った不味い酒を進んで飲もうとする輩はそう多くない。それに、こうして不味いと分かっている酒を飲んでおるのは失敗の原因を探り、よりよい結果に繋げるため。例え次の機会にまた失敗したとしてもその酒は以前失敗した酒とはまた違った不味さ、違った悪臭を放っているかもしれん。余らの仕事はそれを逐一仔細に記録し成功のため只管試行錯誤を繰り返すことであろう。要は酒造の失敗の原因を徒に天上の神仏に押し付けたり、地上の権威の顔色を窺ったりして何もせぬのでは、それこそが余らにとって何よりの失態に繋がりかねんということだ。」

直本の言葉を聞いた佑は感嘆し改めて尊敬のまなざしを直本に向けた。

馴染みの薄い考えではあったが、不思議とどんな教説も直本が唱えると真理然として聞こえるのだった。

「今は奇妙に聞こえるかもしれぬが、遠い未来にこうした考えは普遍の価値を示すようになると余は信じておる。特に酒造りなどという役割に従事していると古来より伝えられる通り神仏とは寧ろ目に見えぬ仕方でそこここに宿っているのではないかと思う時もしばしばだ。昨今そちらの方はどうも忘れられがちなのだが…。」

このように直本は時折宇宙の真理に思いを馳せ、深淵な世界の一端を殊に酒造りという古来より続いてきた人類の叡智を通じて覗き込もうとした。

直本にとってそうした時間は何にも代え難い。

例え仕事の最中であっても部下らの視線を憚ることなく夢想に耽った。

しかし、今回ばかりは暢気に浸っている場合ではないかもしれない。

この時すでに直本の心奥には不吉な予感がたち込めていた。

ひょっとすると、これまで直本が信じて疑うことのなかった実験と観察に基づく科学的方法論では如何ともし難い、想像を絶する泥沼に足を掬われつつあるのではないか。

決して抜け出すことの出来ない深くて暗い、泥沼。

程なくして直本の不吉な予感は現実のものとなった。

ただし、それは未だこの時の直本すら想像だにしていなかった悪夢の始まりのほんの序に過ぎなかったのだが。

──

それからしばらく経っても一向に解決策は見出されなかった。

大和や摂津、河内の各地方から選抜された優秀な醸造家である酒部らの知恵を総動員するも結果は芳しいものとは言えず、ただ空しいばかりだった。

直本もまた、部下らに命じて事細かに記録した事項を基に水や米、それと酒を醸すために用いる麹の一種である麹糵きくげつの配合率を調整したり道具や作業工程自体を精査したりと思いつく限りの試行錯誤を行ったが、結局のところは全て無駄だった。

そうこうするうちに催された節会の儀ではやむを得ない措置として下級官司や雑役夫ざつえきふが飲む雑給酒に幾らか手を加えたものを代替の酒として用いるしかなくなった。

無論評判は散々たるもので、これまで世襲により受け継がれた造酒正の役職に、直本は不釣り合いなのではないかという議論まで飛び出す始末。

これによりいよいよ直本は崖縁まで追い詰められ、残すところ後がなくなった。

仮に直本が役職を解かれるようなことがあれば、先祖の代より脈々と受け継がれてきた栄誉ある家職を直本の代で途絶えさせることになる。

そうなれば祖霊に顔向け出来なくなるばかりか、一族諸共没落の憂き目を甘受しなければならなくなるかもしれない。

それは酒部公の家長として何よりも恥ずべき結末であった。

直本は切羽詰まり藁にも縋る思いで事態の打開に当ろうとした。

必要とあらば、祈祷師や巫者を呼び寄せ酒に憑いた悪霊を祓ってもらおうとまでしたこともあった。

しかし直本が望むような結果は何一つ示されることがなかった。

やがて月日は矢の如く過ぎ往き、再び節会の時期が迫ろうとしていた。

この頃になると、御酒ばかりか雑給酒すら満足に造ることが出来なくなっていた。

朝廷内では直本の進退について真剣に議論し始めているようだった。

本人不在の欠席裁判。

無論直本だけではなく直本直属の部下から選抜された酒部に至るまで何らかの処遇が下されるだろう。

直本は一族ばかりでなく、直本に付き従ってきた部下らの命運をも潰えさせようとしていることに己の無力さと愚かさをただ悔やむばかりであった。

──

ある日の折、部下より一報を聞きつけた直本は造酒司から酒殿へ向かい急ぎ駆け出していた。

何でも信じられない出来事が起きたということしか聞かされておらず、それが吉報であるのか凶報であるのかは未だ知れなかった。

直本は強い不安と焦燥に駆られたもののよくよく思い直してみれば、今よりさらに悪いことなど起こり得ようはずもない。

そう考える直本が酒殿へ辿り着いた時には、中は酒部や役夫などの人だかりで騒然となっていて誰も直本の到着に気づく様子はなかった。

直本は数人の部下らと共に人垣を押しのけ騒ぎの中心となっている甕の前に出た。

するとそこに立って頻りに甕を覗き込んでいたのは、見知らぬ童だった。

白を基調とした装束の裾を腰より少し下の辺りで硬く結び、下には簡素なを短く折って巻き付けている。

どうやらその姿から件の童が女子であると知れた。

頭には白い布地が巻かれ、邪魔になる長髪をあの白布の中に綺麗に収めているようだった。

「そこな、娘よ。何をしておる?」

女子は初め、自身が呼ばれていることすら気づいておらず甕の中を一心不乱に覗き込むばかりだった。

時々棒を使って甕の中をかき混ぜては、何かをぶつぶつと呟いている。

その光景を暫し茫然と眺めていた直本は我に返ると、もう一度低くよく通る声を大きくして呼びかけようとした。

するとその時、女子は急にこちらを振り向きはにかむような笑みを見せた。

「こちらの甕の酒もどうやら首尾よくいったようです。」

その細やかな笑みを一目見た瞬間、直本は何と見目麗しくも可愛らしい娘であろうかと思わず嘆息した。

珠のように白く透き通った柔肌に黒々として光輝く両の瞳、酒殿を満たす温みに当てられてか火照ってほんのりと紅が差した頬を上下させながら息を少しく荒げている。

その類稀な姿形は歴代の帝に仕えた数多の采女うねめ(※11)らの誰にも決して引けを取らないのではないかと思われるほどだった。

直本は大きく息をのみ明らかな動揺を見せるも、酒造の責任者として威厳を保ちつつ、されど少々躊躇いがちに目の前の女子に問うた。

「首尾とな!?どういうことか?大体其方は誰なのだ?この場所は神聖なる所故許可なく立ち入ることは例え童といえども許されぬ。」

女子は直本の言葉に応える代わりに、傍に置かれていた杓を手に取って甕の中の液体を三勺ほど掬った。

そして無言のまま直本の前まで進み出、深く傅いた。

「酒部直本様、ご覧ください。」

童が示すには聊か場違いな堂々たるその態度を一瞥し一向に釈然としない直本は言われるがまま杓の中を覗いた。

「!?」

直本は驚きのあまり言葉を失った。そして身体を後ろに仰け反らせそのまま後じさった。

(馬鹿な!?あり得ぬ。一体……何が…!!)

直本の前に差し出された一柄の杓の中でゆらゆらと揺れていた液体は、紛れもなく酒だった。

それも直本ですらこれまでに見たことのない極上の香しき清酒だった。

まるで高貴なる霊を宿した一杯の生命のようにそれは神々しくも滑らかな光りを放ち、直本らを祝福してくれているように思われた。

その瞬間、直本の頬に一筋の涙が伝い、少し遅れて胸の内を言い知れぬ感慨がゆっくりと満たしていった。

名もなき女子は静かに顔を上げて言った。

「お慶び申し上げまする。これも全ては酒部直本様の人徳の為せる御業でありますれば。」

「い、言っている意味がよく分からぬのだが……。」

もはや直本にとって、目の前に佇む女子が何者であるかなどどうでもよくなりつつあった。

何故なら彼女も含めて、今こうして直本がまなざす光景それ自体天がもたらした奇跡のそれであって、およそ人心には図れる類のものとは思われなかったからである。

察するにこの童は天が遣わした神女であるに違いない。

「酒部直本様、貴方様が常に抱いておりますのはこの宇宙に普く唯一無二の真理なのです。神仏はそこここに宿る。然らば神仏の発す声もまた天坤あめつちを満たすのが道理…。貴方様はかような声を自ら率先して聞き取らんとし、今では顧みられることの少ない人としての本義を果たさんと欲したのです。吾はただ酒部公様の信に心を打たれ、微力ながら力添えをしたく思い参上したまでのこと。」

そう言い終えると、女子は両手で杓を丁寧に掲げ直本へ差し出した。

「どうかお納めください。」

ほんの束の間、淡い静寂が辺りを緩やかに包み込んでいった。

生きとし生けるもの全てがありのままにその姿を留め静止し、およそ現実には似つかわしくない神話的な情景と化して酒殿と甕と女子と杓と直本らの縁を幾重にも束ね結び合わせているようであった。

直本はその永遠にも引き延ばされた全なる情景を自らの責で傷つけてしまうのではないかと恐れた。

しかしやがて意を決したように神妙な顔つきをすると、黙って女子から差し出された杓を受け取り深々と頭を下げた。

その様子を先からしんと眺めていた周りの衆も直本に見倣った。

「光栄なことです。余は今ようやっと得心がいきました。その高貴なる御姿は見紛うはずもない。貴方様こそ、造酒司坐神さけつかさにますかみが一柱であらせられるところの酒弥豆女さかみずめ様ではありませぬか?」

一同のすっかり感心し敬服し切った様子に女子は困ったような表情を浮かべて言葉を返す。

「それは酒部直本様、貴方様の思い違いでございます。吾は一介の賤しき衆生の一人に過ぎませぬ。ただほんの少しだけ世の声と通じ合うことが出来る力能を多く授かっているというだけで…。どうか皆々様お顔をお上げになってください。」

そう言うが早いか、女子は立ち上がり自分の役割は終わったとばかりに酒殿の出入口へと向かって歩き出した。

人垣が両脇に退いたことで出来上がった道を実に悠々とした足取りで進み出でてゆく。

やがて出入口の一歩手前で立ち止まると、直本の方へ振り返り言った。

「酒部直本様、ゆめゆめお忘れなきよう。人を含めあらゆる生命とは流転する“さだめ”にあるのです。今この場所に並べられた数多の甕の中には無量の神仏がざわめき熱を発し、人の世に豊饒をもたらしている。そして人もまたその恩恵に対してそれ相応の仕方でもって報い、かように神仏と人の世の“共生”が成り立っているのでございます。神仏の世界もまた人の世と共に絶え間のない流転を繰り返しているのです。その流れは幾重にも交わり決して留めることが出来ないのです…。」

不思議なことにその時のことは、その場にいた直本を除いた誰しも白昼の夢であったかのようにぼんやりとした印象を思い返すことくらいしか出来なかった。

あれは果たして本当に起きた出来事だったのだろうかと皆は口々に囁いたが、結局のところそれを証立てる手立ては女子が置いていった件の酒の他に何ひとつとして残されていなかった。

──

その後、直本らが朝廷に献上した件の酒は宮中にて瞬く間に評判を呼び、幾日もしない内に直本は異例ではあったが帝より特別の褒辞を賜った。

帝に代わりその御言を口にすることを許された尚侍ないしのかみ(※12)は、これもまた異例なことに直本の許までわざわざ足を運び、清廉で凛と張った声をもって直本を労い帝と京のためにより一層の研鑽を積むようにと叱咤した。

あまりしげしげと眺めるのはよくないこととはいえ帝の寵愛を一身に受けていると噂されるだけあって、仰いだ折ほんの僅かに垣間見えたその容姿は見目麗しく、耳を心地よく打つ声音の端々から知性めいた響きを存分に感じさせる。

まさに才色兼備という言葉はかの御仁のためにあるのではないかと、そう思われるほどだった。

しかし一度直本の心に深く刻み込まれた件の女子の面影と引き比べてみると、どうだ。

途端に目の前の美女が纏っている魅力という名の薄絹が剥がれ落ち知性を湛えた軽やかな声の響きは鈍重で雅を欠いた音色に変化してしまうのだった。

詰まるところ、直本はある種の熱に浮かされ心ここにあらずといった様子であった。

森羅万象あらゆる営みが徐々に日常としてのケの世界へと戻りつつある中で、一人直本の心はぽつねんとあの驚嘆すべき非日常としてのハレの世界に取り残されていた。

直本はただ今一度だけでも女子と巡り会うことを夢見、願った。

それが決して叶わぬことであると知りながら、いつかあの永遠の静寂の中に舞い戻れるのではないかと期待せずにはいられなかった。

そうして月日が目まぐるしく過ぎゆく中、直本は己が犯した最大の過ちについて遂に気がつくことも決してないまま、運命の日を迎えることと相なったのである。

──

その日、直本は空が未だ白むことを知らぬ時分からいつものように物憂げな表情を浮かべながら、宮中の造酒司へ通じる近門、藻壁門を潜り抜けようとした。

だが、門の前でしかめっ面を浮かべ通行の認を取る衛士えじの様子がいつもとは明らか異なることに気がついた。

直本が門の前まで歩を進めると、数人の衛士が顔を見合わせゆっくりと、しかし逃げ出せないよう一人を後ろへと回り込ませてから道を塞ぐようにして直本の下へにじり寄っていった。

やがて直本は完全に行く手を塞がれたことを悟ると衛士らに向かって声を挙げた。

「何ぞ、何ぞ?余に何か用向か?」

直本の問を無視するかのように眼前の衛士の一人が怒鳴った。

「造酒正酒部公直本だな!上命により貴様の身柄を拘束させてもらう。」

「まさか!何かの間違いだ。余が罪を犯したと?」

直本が言葉を発した直後に、前と後ろで構えていた衛士らが一斉に素早く動き直本の四肢を抑え込んだ。

その拍子に直本の身体が前につんのめりそのまま倒れ込むと、先に怒鳴り声を挙げた衛士が縄を取り出し、慣れた手つきで直本の両手首を後ろに回してきつく縛り上げた。

直本はどうすることもしない代わりに、一体何が起きたのかを見極めようとした。

しかし衛士らは硬く口を結んだまま一言も事情を告げることなく、直本を宮中の刑部省下へと引っ立てていった。

そこで直本を待ち受けていたのはまさに悪夢という言葉でしか表しようのない展開であった。

「造酒司造酒正酒部公直本、主は自らが指揮し造らせた御酒に毒を混ぜるよう命じ、あろうことか陛下のお命を奪わんとした。その悪逆非道、極めて卑劣なる大罪は到底許されるべきものではなく如何なる疑義も差し挟まれる余地はない。よって第七賊盗律の規定に従い、罪状は八虐謀反むへん(※13)、刑罰は大辟(死刑)による斬とする。なお此度の罪の重さ等から勘案し六議りくぎ(※14)による刑罰の優遇並びに奏上(※15)による申立は適用されぬものとする。」

役人は淡々とした態度を崩すことなく事の経緯と直本の処遇について述べた後、幾らも言い淀むことなく直本の妻と子、造酒司に勤める官司らと親族家族の責についても厳しく追究した。

官司らの多数は身分の高いものから順に流刑あるいは徒刑(懲役刑)に処されたが、例外として直本の妻及び子と側近の部下については直本と同じく斬に処すということだった。

数刻にわたり訴状の内容を聞かされ続けた直本は、その間両の瞼を硬く瞑り抵抗の意思を示すことなくただ黙っていた。

胸中に渦巻くのは不安と焦燥に駆られ、よくよく吟味もせずに甘い奇跡のような物語に縋ってしまった己に対する深い怒りと後悔の念のみだった。

無論徒労に終わるとは分かっていながら、直本は此度の経緯と忽然と現れた童の起こした所業について洗いざらい白状し、そうであっても全ての責は自分にあるということを強調するのだった。

直本の話を聞いた役人らは嘲笑を浮かべ碌に取り図ろうともしなかったが、目の前に突っ立っている一人の男が心に重篤な障りを抱えているのではないかと慮ると、その身の上が幾らか哀れに思われなくもない。

そうした空気を敏感に察した直本は思わず振り絞るような声でもって懇願した。

「若し貴方様方が余の身の上を少しでも哀れに思うなら、かように広く偉大なる憐みでもって余の妻子と部下らの処遇を軽くしては下さらぬか。余は大辟で構いませぬ。それだけの罪を犯したのだから。だが、余の妻と子はもとより部下にどうしてこれと同じだけの刑が科せられましょう。余に今一度の機会をお与え下さい。必ずや件の童を見つけ出しこの場に連れて来てご覧に入れましょう。それが叶ったあかつきには余一人を除いて何卒大辟罪から外して頂きたい……。」

必死の願いも空しくその日のうちに牢へと入れられた直本は夜が更け切っても碌に眠れずにいた。

妻と子を巻き込み家の名を汚しただけに飽き足らず、直本を信頼して従ってくれていた部下らを裏切る形となってしまった事実が鋭利な刃先となって直本の心を容赦なく刻み抉った。

朝日が昇ったことも知らされないまま、暗い牢の中ですっかり疲弊し切った直本の許に一人の役人が慌ててやって来て言った。

「上からのお達しにより先刻貴様が示した訴えを呑むことと相なった。ついては三日後の午の刻(十二時)までに件の童を連れて宮中へと出頭せよ。童を連れ尚且つ帝の解毒に成功したあかつきには受け入れ通り貴様以外の者どもの命は保証しよう。しかし連れてこられぬ、もしくは連れてこられても解毒の目途が立たぬ場合は予定通りの大辟を執行する。日時は三日後未の刻(十四時)とし、場は西市にて執行するものとする。以上!」


2(註)

(※6)供御の御酒を醸すための建物。

(※7)古代、朝廷で、節日その他公事のある日に行われた宴会。

(※8)造酒司で造られた高級酒類「御酒糟」のうちでも特に入念に醸したもの。宮中の重要儀式や宴会に供される甘口の澄み酒である。

(※9)清酒が貯蔵中に腐敗すること。

(※10)律令下、造酒司などで朝廷用の酒造りに従事した官人。

(※11)古代、郡の少領以上の家族から選んで貢進させた後宮の女官。

(※12)内侍司(※16)の長官。もと従五位相当、後に従三位相当。

(※13)古代の八虐の一つ。国家の転覆をはかること。

(※14)律に規定された刑法上の特典を受くべき六種の資格。

(※15)意見や事情などを天皇に申し上げること。

(※16)律令制の後宮十二司の一。天皇に近侍して、奏請・伝宣の事にあたり、また、後宮の礼式などをつかさどった。



「結局、首尾は上々という風にはいかなかったわけですね。」

教海の言葉に直本は小さく頷く他なかった。

実際直本はこの二日間一刹那たりとも眠ることなく件の女子を探し出すために奔走し続けた。

しかし有力な情報はおろかあの日直本と共にその場で女子が織りなす奇跡を見物していた者たちの記憶もおぼろげで、あれは夢幻の類ではなかったかと皆は呆けた様子で口にするばかりだった。

中には此度の一件で直本や造酒司に不信や疑惑の念を持つようになった働き手も少なからず出始め、捜索は遅々として進まなかった。

卜占ぼくせんや呪術師の力を借りたこともあったが上手くはいかず、いよいよ八方塞がり、自邸に戻り妙案を練り直そうという時に教海と寂仙が現れたという経緯である。

「余の悪夢めいた話はここまで。さて教海殿、そろそろ教えては下さらぬか。先に其方は“件の女子の消息”について心当たりがあるような言い回しをされたな?」

教海は直本の話に耳を傾けていた時と全く同じ姿勢を保ち微動だにしないどころか、常人から見て果たして呼吸をしているかどうかでさえ定かではないように思われた。

対して教海の斜め後方に控える寂仙は絶えず身体を揺らし落ち着きもなく、目は虚ろとして話を聞いているのかいないのか判別することが難しい。

直本にはとても僧侶の所作とは思えない程であった。

「酒部直本様、改めてお話を伺い拙僧の推察は確信へと変わりました。ですがそのことを語る前に幾つか問わせていただいてもよろしいか?」

「よい。」

「では酒部直本様、今上帝と現在の京をどう思われます?」

初め、直本は教海の質問の意図が俄かには掴めなかった。

あまりに漠然として聞こえ何よりそれへの答が直本の置かれた今の状況とどう繋がるのか判然としなかった。

「すまぬが、問の意味が掴めぬ。」

「ではこう言い直しましょう。この平安の京、そして今の帝は果たして現の世に属するものだと思われますか?」

教海の言葉を聞いて、直本は質問の意図を正確に把握するどころか、なおさら全身を硬直させざるを得なかった。

平安の、京……?

一体この僧侶は何を言っているのだろう?

「余の聞き間違いかもしれぬが、今其方はここを平安京と言ったのか?」

「間違いございません。」

直本はその返答を耳にして背に怖気の走る思いがした。

あるいは今も悪夢の只中にあるのではないかと、そう思われるほどに。

「僧侶よ、それは聞くに堪えん戯言だ。其方にはこの国の地理や歴史といった常識が欠けておるらしい。よいか、ここは平安京ではなく平城京である。そして今上の帝は数年前に起こった動乱にて平安京に屹立した仮初の朝廷から威光と権勢を奪還し、この由緒正しき吉野の大地に再びの栄華をもたらしたのだ。」

直本の眼はまるで秋空の如くどこまでも澄み渡っており、その点について疑うことはおろかそれこそが正しい筋道であったと強く確信しているように見受けられた。

教海は果たしてこれより知ることになるであろう真実に、目の前の男の心が耐えられるものかと深慮せずにはいられなかったが、もはや後戻りは出来ないこともよく弁えていた。

「残念ながら、その認識こそが仮初であり夢幻なのです。酒部直本様、京の現状をよくご覧下さい。酒に限らず各地から朝廷に献上される穀物や織物、工芸品の類は軒並みその量を減らし、京はかつてないほどに貧窮し苦境に陥っている有様です。民草は次々と飢えて死に、絢爛豪奢な朱雀大路(※17)はここ一年で山賊どものねぐらと化し治安は悪化の一途を辿っている。この時分でなお大辟などといって京に不浄を撒き散らさんとするとは何と浅ましくも愚かしいことか。挙句、今上帝が病に臥せていることをよいことに今や宮中では熾烈な権力争いが起こり、その堕落は留まることを知りませぬ。」

教海は滔々と言葉を紡いだ。

直本は内心穏やかではなかったが、教海が語る言葉もまた確かに真ではある。

ここ数年、具体的には平安京から平城京へ正式に遷都した時分から京の経済状況は悪くなる一方で、そのため重大な課題を抱えていたのは決して造酒司ばかりではなかった。

例えば大膳職だいぜんしき(※18)では調理する食材の入りが少なく対応に苦慮していると聞いていたし、内蔵寮くらりょう(※19)が管理する蔵の中は御物饗饌が点々と置かれ空きが目立つようになったという。

京の財政を司る大蔵省に至っては果たして正常に機能しているのかどうかさえ怪しく思われた。

直本の家柄はもとより質素倹約を旨としていたため生活の質が落ちたと感じたことはほとんどなかったが、冷静に思い直せばそうした兆候が端々に表れていたのは事実だ。

「思うに、今の宮中では今上帝を生かし救わんとする勢力とそのまま見殺しにし新たな帝を擁立しようとする勢力が拮抗しておるのでしょう。酒部直本様への対処が朝令暮改、ころころと変わる有様を見てもそのことは一目瞭然。政はいよいよもって混乱し京の腐敗は決定的なものと相成りました。古来より儒教においては忠恕ちゅうじょ(※20)の教えが大事とされてきたが、今や然るべき指針を欠いたこの偽の京において忠は幾重にも分かたれ見せかけの恕ばかりが蔓延る地獄絵図と化しておる。先程いみじくも貴方様は身の上に降りかかった一連の出来事を“悪夢”と形容なさった。しかしそれは決して形容などではなくれっきとした事実なのです。時空の歪は拡がり、もはや正史も古郷もあったものではない。そして酒部直本様、偽とはまた貴方様とて同じこと。貴方様は未だ己自身の“消息”さえ掴んでおらんのだから。」

その言葉を聞いた途端、直本は終に怒りとも知れない不快な感情から顔を歪め目の前に佇む狂僧をきっと睨みつけた。

そしてやはり時間の無駄であったかと、心の底より落胆し軽蔑の意を込めて言葉を返した。

「もうよい。其方は余の残された時間を徒に消費しただけに留まらず、かように詰まらぬ世迷言を吐き捨て悦に入ろうというのか。これ以上話すことはない、即刻お引き取り願おう。」

直本が侍女を呼び寄せるために立ち上がりかけたその時、教海の後ろ手でずっと無言を貫いていた寂仙が突然奇声に近い声を挙げた。

「大納言、朕に従い今こそ為すべきことを為せ!思い出すのだ。御前は誰ぞ?御前は誰ぞ?」

そう言った切りこの気違いじみた一人の男は再び永遠にも須臾しゅゆにも思える沈黙の中へと身を潜めるのだった。

直本は片膝をついたままの姿勢で留まったまましばらく動けないでいた。

場を支配する重々しい空気をゆっくりと引き裂くように、教海が再び口を開いた。

「拙僧は以前唐の都長安に遊学していた折、数多の奇々怪々に見舞われました。だが此度の変異、鬼神妖の起こしたものにしては聊か奇妙なことでございます。数年前の動乱にて大祈祷を捧げた際、拙僧らが施した結界は悉く破られ無念にも悪鬼羅刹の侵入を許してしまった。古今東西密の秘儀が通じぬ怪異の話など聞いたこともないというのに。故に拙僧はこの時を待ち侘びていたのです。あの動乱時、当時の帝である嵯峨天皇より平城太上皇へいぜいたいじょうこう東国行きを阻止せよとの勅命を受けそのまま行方をくらませた一人の男の消息を掴むこと、そしてそこから悪鬼の正体を炙り出し今度こそ完全に滅さんとする機会を。」

教海の表情は直本も未だ完全には理解していない天命を遂行することへの決意に満ち満ちているように見えた。

その堂々たる気迫に直本は息を呑み、つい先程まで与太だとしか思われなかったこの僧侶の言に豊かな生命が吹き込まれていくのを感じずにはいられなかった。

「……余は、一体…何者なるや?」

その瞬間、直本は強烈な眩暈に襲われ突如その場に倒れ伏した。

教海は寂仙に迅速な指示を飛ばすと、直本の傍に駆け寄り祈祷の準備に取り掛かり始めた。

「この俗の世は当の昔に狂っておる。天坤を揺るがすばかりか、文明を喰らう化物が相手となればなおのこと…。酒部直本…否、坂上田村麻呂様。夢か現か、誰の教えも導きも期待出来ぬ今その境が曖昧になればなるほど真理は遠のいていくのです。」

つい先刻まで空を覆っていた薄墨色の雲々は夕時が終わりを迎えるにつれてどす黒く変色していった。

時折吹きつける生温かい風に当てられて教海、もとい空海は、これからやって来るであろう難事が己の想像を遥かに超え出るものであることを予感するのだった。

(後編へ続く)


3(註)

(※17)平城京・平安京の朱雀門から羅城門までの南北に通ずる大路。

(※18)律令制で、宮内省に属し、宮中の会食の料理などをつかさどった役所。

(※19)律令制で、中務省に属し、御座所に近い宝蔵を管理した役所。

(※20)忠実で同情心が厚いこと。


参照・参考資料

なお、註は適宜、荻生待也編著『日本の酒文化総合辞典』(2005年)柏書房、新村出編『広辞苑 第七版』(2018年)岩波書店、松村明編『大辞林 第三版』(2006年)三省堂、松村明監修『デジタル大辞泉』小学館を参考にした。

参考資料

小倉ヒラク『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』(2017)木楽舎

齋藤孝訳『論語』(2016)筑摩書房

坂口謹一郎『日本の酒』(2007)岩波書店

高橋崇『坂上田村麻呂 新稿版』(1986)吉川弘文館

戸川点『平安時代の死刑 なぜ避けられたのか』(2015)吉川弘文館

福嶋亮大『復興文化論 日本的創造の系譜』(2013)青土社

堀江修二『日本酒の来た道 歴史から見た日本酒製造法の変遷【新装版】』(2012)今井出版

松岡正剛『新版 空海の夢』(2005)春秋社

宮坂宥勝監修『空海コレクション1』(2004)筑摩書房

桃崎有一郎『平安京はいらなかった 古代の夢を喰らう中世』(2016)吉川弘文館

和田英松『新訂 官職要解』(1983)講談社


以上になります!
いかがでしたでしょうか。

先述した通り、嬉しい感想や講評をもらう一方で、「地の文はいいんだけど、セリフがその時代を捉えきれてない。また、この時代には存在しないであろう語彙を使うのはどうか」といった疑念や講評もいただきました。

確かにその辺りは筆者の力量不足であり、その点等が読者の邪魔をしているということであれば、もっと精進しますと述べさせていただくしかありません。

というわけで、今回はこの辺りでしめさせてください。

よろしければ、フォロー・スキ・感想等よろしくお願いいたします。

それでは、次の記事でお会いしましょう!
さようなら〜。

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