映画『罪人たち』に描かれる“罪”を考察する
ライアン・クーグラー監督の『罪人たち』をGEOで借りたレンタルDVDで観ました。 最近は配信で映画を観ることほとんどなんですが、近隣のTUTAYAが軒並み潰れてしまって、レンタルDVDを買い支える為にも、たまに利用しています。
で、『罪人たち』ですが、表面的には「1930年代デルタ・ブルース×バンパイア」という奇抜な組み合わせのホラー映画に見えます。しかし作品を観終えたとき、「これは単なるジャンル混合ではなく、黒人差別の歴史、吸血鬼映画が背負ってきた社会的メタファー、そしてアメリカ音楽らの要素が重なり合う“交差点のような作品”なのだ」という印象を持ちました。
そこで、この映画の魅力をより深く味わうために、ここでは
①黒人差別へのカウンター視点
②吸血鬼映画史の系譜
③アメリカ音楽文化の継承
という三つの軸が、どのように交わっていたのか、私の解釈をお話ししていきたいと思います。
ーーーーここからネタバレーーーー
●1 黒人差別へのカウンター軸――「白と黒」という単純な図式を揺らすまなざし
『罪人たち』の舞台となる1932年のミシシッピ州クラークスデイルは、ジム・クロウ法のもと、学校・病院・レストランなどが徹底的に白人用/黒人用に分けられていた時代です。 まさに「白=支配者/黒=被支配者」という二項対立が日々の暮らしに刻み込まれていました。しかし、クーグラー監督は、この“単純な図式”に寄りかかることをしません。
クラブ「ジュークジョイント」の開店シーンでは、黒人のスモーク&スタック兄弟がアイルランド系白人たちを店先で追い返します。 差別される側にいるはずの彼らが、別の誰かを排除してしまう。その瞬間に、固定的な「被差別者/差別者」という構造は揺らいでいます。
この視点は、クーグラー監督がこれまでの作品でも一貫して大切にしてきたものです。
『フルートベール駅で』では被害者の黒人男性を聖人化せず、弱さも含めて“人間”として描きました。
『ブラックパンサー』では、敵役キルモンガーの思想の一部が主人公に受け継がれ、単純な「正義/悪」の図式から離れた物語が描かれました。
『罪人たち』でも、監督は「白人は悪、黒人は被害者」という図式を壊し、差別が常に社会の構造や人間の心理の中で複雑に再生産されてしまうことを示しているように思います。
この映画で描かれる差別とは、特定の“人種”を排除する行為ではなく、社会の中にグラデーションとして潜む“差別”なのだと思います。
●2 吸血鬼映画史軸――吸血鬼は“社会から排除された他者”を映し出し「境界」を語る
吸血鬼映画は100年の間に、さまざまな意味を背負ってきました。その系譜に関して私は以前、下記の記事を書きましたので、興味がある方はご覧ください。
こうした歴史を振り返ると、吸血鬼はいつの時代も
“社会が外側に排除したい他者” の象徴だったことがわかります。
『罪人たち』は、この系譜を受け取りながら、吸血鬼という存在を新たに解釈しなおしています。この作品の吸血鬼像は大きく二つの側面を持っています。
●①「差別のない楽園」を象徴する側面
作中の吸血鬼たちは、肌の色や出自を問わず、記憶を共有し、互いを受け入れ合う共同体として描かれています。 アイルランド民謡「ロッキーロード・トゥ・ダブリン」を皆で歌い踊る場面では、白人も黒人もアジア人も、ひとつの輪の中で楽しそうに揺れています。 この姿は、現実世界がまだ手にできていない「差別のない世界」の象徴といえます。
●②「搾取の構造」を象徴する側面
一方で、彼らはサミーのブルースの才能を吸収し、共同体の資産として取り込もうとします。 これは、黒人音楽がしばしば歴史の中で白人中心の音楽産業に吸い上げられてきた構造に重なります。
解放と受容の共同体であると同時に、搾取にも似た構造を秘めている――
この二重性がこの作品の吸血鬼像をより豊かにしています。
●二つの側面を貫く“共通テーマ”としての「境界」
そして、この二つの側面をつないでいるのが、作品全体を流れる 「境界」 というテーマです。 吸血鬼は本質的に境界的な存在であり、
生と死の境界
人間と怪物の境界
白と黒(=人種)の境界
社会の内側/外側の境界
を常にまたいでいます。
スタックとメアリーが“現世では結ばれず”、ヴァンパイア化して初めて愛を成就させる構造も、この境界性を象徴する場面です。境界を越えた先に愛が叶うという逆説は、まさに吸血鬼物語ならではの表現と言えるでしょう。
さらに本作が巧みなのは、吸血鬼映画のお約束である
「吸血鬼は住人の許可がなければ家に入れない」
という古典ルールを、境界のテーマの中に見事に組み込んでいる点です。
不死の力を持ち、どれほど境界を飛び越えられる存在であっても、“コミュニティの内側へ入るには、他者の承認が必要”という設定は、非常に象徴的です。
黒人は社会の境界に阻まれ、白人の空間へ“許可なく”入れない
逆に黒人側も、自分たちのコミュニティを守るために白人を排除する
境界を越える/越えられないという問題が、人種・階級・愛・生死のすべてに関わってくる
こうして、吸血鬼の古典設定そのものが、差別社会で人が直面する“見えない壁”のメタファーとして働き始めます。
つまり吸血鬼とは、
境界を越える者であると同時に、境界に阻まれる者でもある。この二重性こそが、『罪人たち』の吸血鬼像を単なるモンスターではなく、人と社会の関係を映し出す鏡として象徴させているのだと感じました。
●3 音楽文化継承軸――1932年ブルースの風景を“未来から逆算”して描く挑戦
音楽の描き方も、この映画の大きな魅力です。
●① サミーの「Travelin’」は、歴史上存在しない“未来のブルース”
彼が歌う「Travelin’」は12小節ブルースでありながら、トニックではなくサブドミナント始まり。この形式は、戦後のロックンロール、とくにエルヴィス・プレスリーの「Mystery Train」(1955)以後に一般化したものです。
つまり映画は、
1932年に“未来のブルース”をわざと混ぜ込んでいる
という構造なのです。
●② バディ・ガイが歌う90年代版で“本来のブルース”に回帰
終盤、バディ・ガイが年老いたサミーとして登場し、同じ曲を歌います。このとき初めて、「本来のトニック始まりのブルース進行」に戻っています。 映画の中だけで、
ブルース → ロックンロール → アメリカーナ
そして再びブルースへ戻る
という音楽史の循環が一曲に折り畳まれているのです。
●③ “罪人たち”の音楽はアメリカ音楽のごった煮
物語の中盤でサミーが「I Lied to You」を演奏し始めると、時空を超えて、エレキギターの旋律を奏でるロックミュージシャンが現れ、ヒップホップダンサーや、スクラッチを決めるDJ、アフリカ原住民のダンス、果ては京劇?の舞踏までが乱入、ロック、ブルース、ヒップホップ、エスニックミュージック…。 あらゆる音楽の境界を超えた楽曲を彼らは奏で、踊り狂います。これこそが、
「アメリカ音楽とは本来ミクスチャーであり、混ざり合うことで進化してきた」
という現代アメリカーナの思想そのものだと思います。
●4 三つの軸が交差する場所――“罪”とは誰のものか
これら三つの軸が重なったとき、作品タイトルの意味が大きく広がっていきます。
黒人が押しつけられてきた「罪」
白人社会が背負ってきた歴史的「罪」
音楽文化を吸い上げてきたアメリカ社会の「罪」
誰もが差別の加害者になり得るという人間の「罪」
クーグラー監督はこれらを一つに束ね、「罪とは、歴史の中で連鎖してきた痛みそのものなのだ」と語りかけているように感じました。
三つの軸は最後、サミーが歌う「Travelin’」にすべて収斂していきます。
青年時代の歌詞は “why in the world I’m here”だったのが、老サミーは “why in the hell I’m here”と歌う。
世界は地獄のようだ――
それでも旅を続けるしかない――、という覚悟の思いが滲んでいました。
●結語――クーグラーが照らし出した「私たち自身の旅」
『罪人たち』は、黒人差別への洞察、吸血鬼メタファーの再解釈、アメリカ音楽史の大胆な読み替えが重なり合った、類まれな映画です。
多ジャンルを縦断しながら、「境界を越えるとはどういうことか」「私たちは誰の物語を受け継いでいるのか?」と問いかけてきます。
サミーが歌う“Travelin’”(旅)とは、黒人たちの闘争の歴史であり、アメリカ音楽がたどってきた長い道であり、そして監督自身が自分のルーツへ向かう旅でもあるのでしょう。
そして、作品を観終わったあとに残ったのは、「この問いは私たち自身にも向けられているのではないか」という感覚でした。
異国の歴史を描いた映画でありながら、日本に生きる私たちもまた、自分たちが歩んできた道、目を背けてきた過去、そしてそこに潜む“罪”について、改めて向き合わなければならないのではないか――そんな思索を促される鑑賞体験でした。
お薦めです‼
