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予定を入れない休日が怖い──何もしない時間に落ち着かない理由

休日の予定が何も入っていないと、ほっとするはずなのに、どこか落ち着かないことがある。

誰かと会う約束もない。行かなければいけない場所もない。急ぎの買い物も、どうしても片づけなければいけない用事もない。カレンダーだけを見れば、自由な一日なのに、心の中ではなぜか小さな焦りが動き出している。

このまま一日が終わったら、もったいないのではないか。せっかくの休みなのに、何も残らないのではないか。どこかへ行ったほうがいいのか、誰かに連絡したほうがいいのか、部屋を整えたほうがいいのか、勉強でもしたほうがいいのか。

休みなのに、頭の中だけが忙しくなる。

僕は、この感覚を単なる暇つぶしの下手さだとは思っていない。むしろ、平日にずっと何かに追われてきた人ほど、予定のない休日をうまく受け取れなくなることがある。忙しさに慣れすぎると、何もない時間が回復ではなく、空白に見えてしまうからだ。

予定がないと不安になるのは、休みを評価しているから

予定を入れない休日が怖くなるとき、心の中では休みの日まで採点が始まっている。

今日は有意義だったか。ちゃんとリフレッシュできたか。何か前向きなことをしたか。人と会ったか。運動したか。部屋は片づいたか。明日からの自分に役立つことを積めたか。

こうして見ると、休日なのに、どこか仕事の延長のようになっている。

平日は成果や効率や役割で自分を動かしている。仕事をしている以上、それはある程度仕方がない。けれど、その見方を休日にまで持ち込むと、何もしない時間はすぐに価値の低い時間に見えてしまう。

本当は、何もしない時間にも意味はある。けれど、意味がすぐに見えない時間は、忙しさに慣れた心には扱いづらい。何かをした証拠が残らないと、不安になる。誰かに説明できる予定がないと、自分の休日が薄く感じられる。

予定がないことそのものが怖いのではなく、予定がない自分をうまく肯定できないことがしんどいのだと思う。

余白を怖がる人ほど、普段はちゃんと動けている

予定を入れない休日に落ち着かない人は、怠け者ではない。むしろ、普段からちゃんと動いている人が多い。

仕事では先回りしている。家のことも気にしている。人との約束もなるべく守る。迷惑をかけないように、遅れないように、抜け漏れがないように、自分の中で小さな管理を続けている。

その状態が長く続くと、何も管理しなくていい時間に入ったとき、心がすぐには緩まない。自由なはずの時間を前にして、何をすれば正解なのかを探し始めてしまう。

そして、SNSを開くと、誰かの休日が目に入る。遠出している人、家族と過ごしている人、カフェで本を読んでいる人、朝から運動している人、丁寧に料理をしている人。もちろん、その一場面だけを見ているにすぎない。それでも、自分の何もしていない時間と比べると、どこか置いていかれたような気持ちになる。

でも、休日は他人に見せる作品ではない。

誰かに説明できる一日でなくてもいい。写真に残る時間でなくてもいい。予定が詰まっていなくても、生活が前に進んでいなくても、その日が無駄だったとは限らない。

むしろ、何もしない時間に落ち着かなさが出てくるなら、それは心が止まったからではなく、ようやく普段の緊張に気づける場所まで戻ってきたということかもしれない。

消費で埋めても、回復にならない日がある

予定がない不安を消すために、何かで時間を埋めたくなることがある。

動画を見る。買い物に出る。カフェに行く。予定を追加する。掃除を始める。学習アプリを開く。誰かに連絡する。どれも悪いことではないし、実際に気分が変わることもある。

ただ、怖さを消すためだけに予定を入れると、休日はまた忙しくなる。

外に出たのに疲れが抜けない。買い物をしたのに満たされない。動画を見続けたのに頭が重い。誰かと会ったのに、帰ってからひとりでどっと疲れる。そういう日は、楽しみ方が悪かったのではなく、最初に必要だったものが回復だった可能性がある。

回復は、いつも分かりやすい形をしていない。

楽しい予定のように盛り上がらないし、勉強のように成果が見えないし、片づけのように部屋が変わるわけでもない。ただ、身体の力が少し抜ける。呼吸が浅かったことに気づく。何かをしなければという内側の声が、少しだけ小さくなる。

それくらい地味なものだから、忙しい人ほど回復を過小評価してしまう。

何もしない時間を、失敗ではなく受け皿にする

予定を入れない休日が怖いとき、無理に立派な休みにしようとしなくていい。

まずは、何もしない時間を空白ではなく受け皿として見てみる。平日に置きっぱなしになった疲れ、言葉にできなかった違和感、ちゃんと処理できなかった気持ち、気づかないふりをしていた身体の重さ。そういうものが、予定のない時間に浮かび上がってくる。

だから、落ち着かない休日は失敗ではない。むしろ、普段は見えないものが見える日でもある。

とはいえ、ただ何もしないことが苦しい日もある。そんなときは、大きな予定ではなく、小さな輪郭だけを置くのがいいと思う。たとえば、午前中は洗濯だけする。昼は外に出るかどうかをそのとき決める。夕方に少し歩く。夜は明日の準備を一つだけする。

休日全体を完璧に設計するのではなく、心が迷子にならない程度の点を置く。

予定を詰めるのではなく、戻ってこられる目印を作る。そのくらいの軽さで十分だと思う。

休日をちゃんと使うより、自分に戻る

休日に必要なのは、何かを達成することだけではない。

平日の自分は、どうしても役割に寄っていく。仕事をする人、気を遣う人、段取りをする人、家のことを回す人、誰かに合わせる人。そういう自分も大切だけれど、ずっと役割のままでいると、自分が何を感じているのか分からなくなる。

予定を入れない休日は、その役割から少し離れる時間でもある。

何もしない時間が怖いのは、自分が空っぽだからではない。何者かでいない時間に、まだ慣れていないだけかもしれない。誰かに見せる休日ではなく、何かを証明する休日でもなく、ただ自分の感覚が戻ってくるのを待つ休日があってもいい。

今日、予定を入れなかったことに少し不安があるなら、その不安ごと休みに置いてみる。

ちゃんと過ごせたかどうかを採点する前に、今の自分は何をそんなに埋めたがっているのかを見てみる。予定なのか、安心なのか、承認なのか、疲れを感じなくて済む刺激なのか。

休日は、空白を埋めるためだけにあるのではない。

何もしない時間に落ち着かないとき、あなたが本当に欲しかったのは、予定でしょうか。それとも、何もしていなくても大丈夫だと思える感覚でしょうか。

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