AIネイティブ世代の危機管理
――私たちは「生産的失敗」を経験した最後の世代なのかもしれない。
前編|AI以前に生きた時間が、経験資産に変わるとき
考える前に、答えが来る。
行き詰まれば、
別の道を示してくれる。
うまく言葉にならないことまで、
先に言葉にしてくれる。
私は今、
その便利さに、毎日のように助けられています。
文章を書くときも。
仕事を整理するときも。
ホームページをつくるときも。
少し前までなら、
一人ではできなかったことが、
今は、
ずいぶん自分の手の届くところまで来ました。
それは、本当にすごいことです。
だから私は、
AIを遠ざけたいわけではありません。
むしろ、
かなり好きです。
毎日のように話しています。
それでも。
AIと仕事をするようになってから、
以前よりよく思い出すようになったものがあります。
AIがなかった頃の、
あの、
やたら時間のかかった日々です。
自分で調べる。
人に尋ねる。
待つ。
間違える。
やり直す。
分からないまま、
何日も考える。
当時は、
ただ不便だっただけだと思っていました。
もっと早く答えが分かればいいのに。
もっと簡単な方法があればいいのに。
何度、そう思ったか分かりません。
でも今、
AIが次々に案を出してくれる中から、
何かを選ぶ側になってみると、
あの時間の中で身についたものが、
思いがけず働いていることに気づきます。
これは違う。
こっちの方がいい。
今は急がない方がいい。
ここは、もう一度考えた方がいい。
そんな判断の基準です。
それで、あるとき、
こんな言葉が浮かびました。
私たちは「生産的失敗」を経験した、
最後の世代なのかもしれない。
少し大げさな言い方かもしれません。
もちろん、
これからの世代から失敗がなくなるわけではありません。
人生には、
AIがあっても避けられないことがたくさんあります。
私が気になっているのは、
そこではありません。
答えを受け取る前に、
自分で試す時間。
結果を見て、
「あ、違った」
と考え直す時間。
そこまでAIが先回りするようになったとき、
人の中では、
何が育つのだろう。
そんなことを、
考えるようになりました。
ただ今日は、
その話をすぐ子どもたちへ持っていく前に、
まず私自身に起きたことから
書いてみたいと思います。
少し前まで、
ホームページは、
専門家に頼んでつくってもらうものだと思っていました。
私には、
プログラミングの知識がありません。
Web制作を学んだこともありません。
でも、
自分の仕事の入り口になる場所は、
いつか持ちたいと思っていました。
ただ、
情報がきれいに並んだだけのページではなくて。
そこへ来た人が、
少し呼吸をゆるめられるような場所。
海や月の光を感じるような場所。
占いを、
未来を決めつけてもらうものではなく、
自分を知って、
次の一手を考えるためのものとして、
受け取ってもらえる場所。
私が大切にしてきた考え方まで、
静かに息づいているような場所。
頭の中には、
ずっと見えていました。
けれど、
見えていることと、
つくれることは別でした。
その境界を越える力になったのが、
AIでした
私はChatGPTに、
自分の仕事について話しました。
占いについて。
これまで出会ってきた人について。
好きな色。
言葉の温度。
余白の取り方。
何を伝えたいのか。
そして、
何を、
どうしても言いたくないのか。
話しながら、
考えを整理しました。
文章をつくりました。
ページの構造を考えました。
そして、
実装を担うManusへ渡しました。
画面ができる。
文章が入る。
ボタンが動く。
ページとページが、
つながっていく。
これまでなら、
何人もの専門家に相談しなければ
形にできないと思っていたものが、
私の言葉を通して、
目の前に現れ始めました。
AIが変えたのは、
つくる速さだけではありませんでした。
誰がつくれるのか。
そこまで、
変えてしまったのだと思います。
ただ。
AIがつくったものを、
そのまま使えたわけではありません。
もちろん、
事実の確認や動作の点検が必要なこともあります。
でも、
それとは別に、
私は何度も手を止めました。
違う。
申込みへ進みやすい導線になっている。
でも、
ここでは、
そんなに急がせたくない。
そのたびに、
私はAIへ伝え直しました。
もっと静かに。
ここでは急がせないで。
不安をあおらないで。
この言葉は使わないで。
美しく。
でも、
美しいだけで終わらせないで。
そうして、
少しずつ、
私の場所ができていきました。
全部が完成するまで、
じっと待っていたわけではありません。
まず出す。
使ってみる。
違えば直す。
また見る。
その繰り返しです。
ただ、
自分にとって大事な違和感だけは、
そのままにしない。
そこで私は、
ふと気づきました。
AIが私に与えたのは、
新しい才能ではなかった。
私の中にすでにあったものを、
現実へ運ぶ力だった。
では、
なぜ私は、
AIがつくったものを見て、
「違う」と分かったのだろう。
考えてみれば、
その感覚は、
AIと出会って急に生まれたものではありませんでした。
美術を教えながら、
色と形を見続けてきた時間。
生徒たちの表情を見ながら、
言葉が届く瞬間と、
届かない瞬間を感じてきた時間。
占いをするようになって、
一つの星だけで、
人を決めてはいけないと知ったこと。
正しいことを言えば、
人が動くわけではないと、
何度も教えられたこと。
うまくいかなかったこと。
遠回りしたこと。
選び直したこと。
あとになって、
「あれは、こういうことだったのか」
と気づいたこと。
そういう時間の全部が、
「何かが違う」
と気づくための感覚を、
少しずつ、
私の中につくっていたのだと思います。
AIは、
私の知らないことをたくさん知っています。
私より速く調べ、
速く書き、
速く形にしてくれます。
でも、
私の人生を生きたことはありません。
私が何に傷つき、
何を守り、
何を美しいと思い、
どこで引き返してきたのか。
その時間は、
私の側にあります。
AIがなかった時代、
私たちは、
今よりずっと時間をかけていました。
自分で調べる。
人に尋ねる。
待つ。
間違える。
やり直す。
言葉にできないまま、
何日も考える。
効率がよかったとは、
とても言えません。
避けられた苦労も、
たくさんあったと思います。
だから私は、
昔の不便を、
そのまま美化したいわけではありません。
苦労した方が偉いとも思わない。
遠回りは、
多ければ多いほどいいとも思いません。
でも。
すぐに答えが来なかったからこそ、
自分で選び、
失敗し、
考え直すしかなかった時間もありました。
そして、
その中で身についたものがあります。
どこで人は迷うのか。
何を急いではいけないのか。
正しさだけでは、
なぜ人の心に届かないのか。
失敗したあと、
どうすれば立て直せるのか。
それを、
頭だけではなく、
自分の時間を通して知っている。
ただし、
長く生きたことや、
苦労したことそのものが、
そのまま価値になるわけではないとも思っています。
昔の経験を、
昔の正解のまま持っていても、
今には使えないことがある。
振り返る。
今の場面に置き直す。
残すものと、
手放すものを選ぶ。
そうして初めて、
過去は、
今の判断に使えるものになる。
私は今、
AI以前に積み重ねてきた時間の中から、
そうして取り出せるものを、
経験資産
と呼びたいと思っています。
AIと仕事をするようになって、
「知っていることの量」だけでは測れないものを、
以前より強く意識するようになりました。
何を問うのか。
何をつくるのか。
何を残すのか。
出来上がったものの中にある、
小さな違和感を見過ごさないこと。
そして、
最後に選んだものを、
自分の名前で引き受けること。
AIが形にする力を持てば持つほど、
こちらには、
何を形にしたいのか
が残ります。
私がこれまで生きてきた中で得たものは、
完成した答えとしてではなく、
問いの立て方として。
判断の基準として。
ここで、
働いていました。
経験を、
ただの思い出で終わらせない。
言葉にする。
仕事にする。
誰かへ渡せる形にする。
そのための新しい道具を、
私はAIとの対話の中で
手に入れたのだと思います。
私は今、
毎日のようにAIと話しています。
仕事を速く終わらせるためだけではありません。
むしろ、
自分が何を考えているのかを知るために、
話していることも多い。
AIに説明しようとすると、
曖昧だったものに、
少し輪郭が出てくる。
出てきたものを見て、
「違う」
と言う。
すると、
自分が何を大切にしていたのかが分かる。
逆に、
AIから出てきたものを見て、
「あ、私はこっちでもいいんだ」
と、
自分の考えを変えることもあります。
守りたいものが見えてくる。
同時に、
変えてもいいものも見えてくる。
私の違和感が、
いつも正しいわけでもありません。
だから、
伝え直す。
確かめる。
選び直す。
その繰り返しです。
面白いのは、
やり直すたびにAIが私を理解するだけではなく、
私自身が、
私を理解していくこと。
振り返れば、
AIを使っている今も、
私はずっと試行錯誤しています。
考えなくてよくなったわけではありません。
むしろ、
形にするまでの壁が低くなったから、
試して、
見て、
また考える。
その回数が増えました。
AIとの対話によって、
私は別の人間になったのではありません。
これまでの自分を、
ようやく使えるようになってきた。
そんな感覚の方が、
近いのです。

AIは、
私の代わりに人生を生きてはくれません。
でも、
私が生きてきたものを渡せば、
それを形にする力にはなってくれる。
私が見てきたこと。
考えてきたこと。
何度も失敗し、
それでも手放さなかったもの。
それらを、
言葉にする。
仕事にする。
次の誰かへ渡せる形にする。
AI以前に生きた時間は、
終わった時代の荷物ではありませんでした。
AIと出会ったことで、
むしろ、
もう一度動き始めたものがあります。
過去の経験が、
未来をつくる材料へ変わっていく。
AIが私にくれたのは、
新しい才能ではありませんでした。
ずっと持っていたものに気づき、
それを現実へ運ぶための、
新しい力でした。
だから今、
あの遠回りの時間を、
少し違う目で見るようになっています。
分からなかった。
迷った。
間違えた。
考え直した。
あの時間は、
ただ遅かったのではなかったのかもしれない。
私がAI以前に生きてきた時間は、
これからの時代にこそ使える、
私の経験資産だった。
今は、
そんなふうに思っています。
そして、
ここまで考えると、
どうしても次の問いが残ります。
では、最初からAIがそばにある人たちは、
自分の判断の土台を、
どのようにつくっていくのだろう。
同じ遠回りを、
わざわざさせる必要はありません。
避けられる苦労は、
避けていい。
でも、
考える前に答えが来る。
失敗する前に助けが来る。
葛藤する前に、
言葉が与えられる。
そんな環境の中で、
人間の中に育つ前の能力まで、
先回りして外へ預けてしまっていいのだろうか。
答えを受け取ることと、
自分で判断できるようになること。
その二つを、
これからどう両立させていくのか。
これは、
別の記事で考えてみたいと思います。
後編では、
AIネイティブの子どもたちに、
私たちはどんな「考える時間」を残せるのか。
そこから、
もう少し考えてみます。
松尾純子.
Serendipity🦋
ここまでの文章も、私はAIと一緒につくっています。
実は最初、このテーマをAstraに渡しました。
出てきた文章は、とても論理的でした。
骨格もしっかりしていて、無駄もない。
読めば、言いたいこともよく分かる。
でも。
読んでいるうちに、
「あ、これは私の呼吸じゃないな」
と思いました。
そこで、同じ内容をGPT-5.6 Solに戻して、
今ここまで読んでいただいた文章に書き直しました。
同じ私の考えを渡しているのに、
出てくる文章はこんなに違う。
自分でも、ちょっと笑ってしまいました。
せっかくなので、この先に、
Astraが書いた同じテーマの文章を、ほぼそのまま置いてみます。
分析も、添削もしていません。
「どちらが正しい」という比較でもありません。
ただ、
同じテーマをAIがどう料理すると、こんなに“読み心地”が変わるのか。
100円で、Astraくんの論文調をのぞいてみたい方だけ、どうぞ。
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