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【短編小説】マルホシの灯り|第一話「レジ袋ひとつ」

夜になると、その看板は「マル シ」と灯ります。「ホ」の電球が切れたまま、それでも消えずに。

デビュー作『マルホシの灯り』の第一話「レジ袋ひとつ」を、まるごと無料で公開します。

閉店の噂が立った、街の小さな総合スーパー。そこで働く、不器用な人たちの、ひと冬から春までの物語です。どうぞ、ゆっくり読んでいってください。


 冬の朝、まだ暗いうちに、桜井とし子は店の駐車場でひとり、屋上の看板を見上げた。「マル シ」。「ホ」の電球が切れて、もう二十年になる。それでも、その少し欠けた灯りは、今朝も消えずにともっていた。桜井は白い息をひとつ吐いて、通用口の鍵を開けた。

 まだお客様の入らない青果売り場に立つ。朝の六時半。マルホシ一宮店の、一日でいちばん静かな時間だ。

 開店前のこの時間が、桜井は好きだった。天井の蛍光灯はまだ半分しか点いていない。四十本のうち三本が切れかけていて、青果の隅だけがいつも少し暗い。店全体が水底のように青く沈んで、冷蔵ケースの低い唸りだけが遠くで鳴っていた。

 入荷の段ボールを開けると、キャベツの、土と冷気のまじった匂いが立った。桜井はこの匂いを、毎朝吸ってきた。あかぎれの指に冷たい外葉が触れて、少ししみる。棚に一玉ずつ、傷んだ葉を剥きながら丁寧に積んでいく。奥のものを手前に、古いものが先に売れるように。値札の角を指の腹でそっと押さえ、まっすぐに直す。誰に見られているわけでもない。それでも、まっすぐでないと気持ちが悪かった。

 二十年、桜井はこの店の「パートさん」だった。正社員でも主任でもない。ただのパートのおばさんだ。それでも、この店のどこに何があって、どのお客様が何を買っていくか、桜井はたぶん誰よりも知っていた。

 八時。店内放送のBGMがいつもの一曲目に切り替わる。桜井にはそれが「さあ、はじまるよ」という店の呼吸のように聞こえる。二十年、同じ曲順。目をつぶっていても、今が何時か曲で分かった。

 自動ドアのスイッチが入り、冬の白い光が床のタイルに長い四角を落とした。

 そして八時二分。いちばん最初のお客様は、今日もたみだった。

 杖を右手に、七十二の小さな体を少し前に傾けてゆっくり入ってくる。この一年で、その歩幅は確かに小さくなった。青果売り場をひと回りしてバナナを一房、日配のケースで牛乳を一本。それから菓子パンの棚であんぱんを一つ。かごに入れるのはいつもそれだけだ。一人分の、一日分。それ以上は決して入れない。

 「たみさん、おはよう。今日はぐっと冷えるねえ」

 声をかけると、たみは少し止まって桜井の顔を見た。それから一拍、二拍置いて言った。

 「ああ。あんた、桜井さんね」

 その〝間〟が、桜井の胸を小さく刺す。去年の秋にはなかった。半年前にも、こんな間はなかった。たみの中で、何かが少しずつほどけはじめている。桜井はそれを顔に出さずに笑った。

 「そうよ。桜井です。よう覚えとってくれた」

 会計のとき、それは起きた。

 たみががま口の財布を開けようとして、留め金がうまく外れない。震える指が何度も金具の上を滑る。ようやく開いたと思うと、今度は中の小銭がつまめない。百円玉が一枚、指の間から落ちて、床で高い音を立ててレジ台の下へ転がっていった。続けて十円玉が、五円玉が、ばらばらと。

 たみの後ろに二人、お客様が並んでいた。朝の、急いでいるお客様だ。一人が小さくため息をついたのが、桜井にも聞こえた。

 たみのしわの寄った首筋が、みるみる赤くなっていく。

 「ごめんなさい……ごめんなさいね、私、どんくさくて」

 声が震えていた。恥ずかしさで体が縮んでいくのが分かった。

 桜井は迷わなかった。レジの脇から出て床に膝をつく。冷たいタイルの感触が膝から伝わった。転がった硬貨を一枚ずつ指先で拾い集める。レジ台の下の、埃の中まで手を伸ばして。

 拾い終えると立ち上がり、たみの手を下から支えるように取った。あかぎれの手と、たみの紙のように薄い手が重なる。その手のひらに硬貨を一枚ずつ乗せて、最後に包むようにそっと握らせた。

 「大丈夫。大丈夫よ、たみさん。ゆっくりでええからね。私、ずっとここにおるから」

 たみの赤かった首筋から、すっと力が抜けた。潤んだ目で桜井を見上げ、「ありがとう」と口の形だけで言った。

 後ろのお客様も、いつのまにか急かすのをやめていた。

 そのレジ前の小さな騒ぎを、通路の反対側からもう一人、見ている者がいた。

 三上蓮。二週間前に入ったばかりの、十九のアルバイトだ。品出しのカゴを足元に置いたまま、陳列棚に背中を預けて、伏し目がちに手の中のスマホをちらちら見ている。たみが小銭を落としても、桜井が膝をついても、その顔は少しも動かなかった。ただ「めんどくせえな」というふうに、伸びた前髪の奥で一度、細く息を吐いただけだった。列が進まないことにも、本当は興味がない。

 レジ前の非効率に苛立つ者がいるとすれば、三上はその手前にいた。苛立ちさえ、していなかった。

 桜井が顔を上げて「蓮くん、そのカゴ、通路の真ん中は危ないでね」と声をかけると、三上は聞こえなかったふりをして、カゴを軽く足でずらし、バックヤードへ消えていった。桜井はその背中をしばらく見送っていた。「蓮くん」と呼んだ声だけが、まだ少し宙に残っていた。

 朝の忙しさがひと段落するころには、店はいつもの、少し寂れた顔に戻っていた。

 道路を挟んだ向かいには、去年できた巨大なモール「グランモール」が建っている。ガラス張りで、駐車場は三千台。夜まで明るい。あちらができてから、マルホシのお客様は目に見えて減った。かつては開店前に入口で待っていたお客様の列が、今はまばらだ。

 あの「ホ」の電球も、直そうと思えば、たぶん直せた。屋上に上がって脚立にのぼり、手を伸ばせば、どうにか届く高さだ。切れているのは、電球ひとつ。ほんとうは、それだけのことだった。

 でも、誰も直さなかった。はじめの何年かは「そのうちに」と後回しにされ、そのうちにみんな、片方の欠けた「マル シ」に慣れてしまった。慣れてしまえば、もう気にならない。気にならなくなれば、わざわざ高いところへのぼろうという者も、いなくなる。いつしかその欠けた灯りは、この店のもう一つの顔になっていた。お客様が少しずつ減って、店そのものがゆっくりとあきらめていくのに、ちょうど寄り添うように。今さら直そうと言い出す者は、もう、誰もいなかった。

 それでも、たみのような古い常連は、まだ来てくれる。歩いて来られる近さ。顔を覚えていてくれる安心。桜井はそういう人たちの顔を、一人ずつ思い浮かべることができた。

 午前のいちばん暇な時間に、常連の田所が来た。七十過ぎの口うるさい人で、いつも値引きシールの貼られた総菜ばかりをじろじろと選んでいく。

 「桜井さん。この魚、昨日のじゃないんか」

 「今日のですよ、田所さん。朝、入ったばっかり」

 田所はふんと鼻を鳴らして、それでも毎日来る。桜井は知っていた。田所が奥さんを二年ほど前に亡くして、それからこの店に毎日のように来るようになったことを。だから桜井は、田所の憎まれ口にいつも笑って付き合う。

 「最近、客、少ないな」田所がぽつりと言った。「向かいのでかいのに、みんな行っとるんか」

 桜井は答えに詰まった。ちょうど隣で品出しをしていた戸田主任が、聞こえないふりをして手を動かしていた。その横顔が少しこわばっていた。

 「うちには、うちのええとこがありますでね」桜井はそう言って笑った。田所はそれ以上何も言わずに、レジのほうへ歩いていった。

 田所が行ってしまうと、戸田が、二十年この店を見てきた桜井にだけ聞こえるように、小さな声で言った。主任という立場も、そのときだけはそっと下ろして。

 「桜井さん。この店……ほんとに、大丈夫かねえ」

 桜井は手を止めた。戸田がそんな弱音を漏らすのは珍しかった。いつも現場を明るく引っぱっている人なのに。

 「大丈夫だよ」桜井は迷わずそう言った。根拠はなかった。でも、そう言うしかなかった。戸田はふっと笑って「そうだね」と言い、また忙しそうに働きはじめた。二人とも、それ以上は何も言わなかった。

 ――朝の、あのレジ前の一件を、菓子の棚の陰から見ていたのが北原陽平だった。

 北原の目に映っていたのは、伸びていくレジの列と、その後ろで苛立つお客様の顔だ。頭の中で、先週の本部会議で氷室SVが言った言葉が点滅していた。「レジ応対の標準時間。人時生産性。回転率」。なんであんなに時間をかけるんだ。マニュアルどおりにやれば、もっと早いのに。

 北原はまだ二十四。本音では早くこの現場を〝卒業〟して、本部の企画部門に行きたかった。だから〝効率〟という言葉にすがっていた。数字は裏切らない。人の気持ちと違って、数字ははっきりしている。北原はそう信じていた。

 昼過ぎ、バックヤードの狭い休憩室で、北原はつい言ってしまった。

 桜井がパイプ椅子に座って、持参の水筒のお茶を飲んでいた。北原はその向かいで、スマホの在庫画面を見ながら、独り言のように、しかし聞こえるように言った。

 「桜井さん。今朝の対応、ちょっと時間かかりすぎじゃないですか。後ろ、詰まってましたよ。ああいうのって、正直、業務としては……効率、悪いっていうか」

 言い終わる前に、北原はしまったと思った。自分の声が思っていたより冷たく響いたからだ。

 桜井は怒らなかった。それがかえってこたえた。

 カップを両手で持ったまま、桜井は少しうつむいて笑った。困ったような、寂しい笑いだった。

 「そうだね。北原くんの言うとおりだわ。私、要領悪いし。どうせ、パートだしね」

 そう言って立ち上がった桜井の背中が、いつもよりずっと小さく見えて、北原はその丸まった肩から目をそらした。何か言おうとして、言葉が出てこなかった。自分が今、何か大事なものを踏んだ気がした。でも、それが何なのか、まだ分からなかった。

 その日の夜、七時五十分。閉店まで、あと十分。

 外はもうすっかり暗かった。自動ドアのガラスには、蛍光灯に照らされた店内と、道の向かいでこうこうと光るグランモールの明かりだけが映っている。その静かな光の中を、ふらりと影が一つ入ってきた。

 たみだった。

 朝と様子が違う。杖を持っていない。上着も着ていない。薄いカーディガンだけで、十二月の外を歩いてきたらしい。髪が乱れていた。

 「あの……ごめんなさいね。私、うちが分からんくなって。帰り道が……どっちだったか」

 桜井は本当なら、夕方で上がりだった。もう退勤の打刻もすませていた。それでも朝のあの〝間〟が気にかかって、私服に着替えたあとも、すぐに帰る気になれなくて、事務所の隅でお茶をもらっていた。だからこそ、この時間にたみを迎えることができた。その声の心細さに、桜井の背中がひやりとした。ああ、とうとう、と思った。

 戸田主任がすぐに事務所から出てきた。何も言わずに、自分の羽織っていたカーディガンを脱いで、たみの細い肩にそっとかけた。「たみさん、寒かっただろ。もう大丈夫だでね。あったかいとこ、座ろか」

 北原はレジの近くで突っ立っていた。何をどうすればいいのか、まったく分からなかった。マニュアルのどこにも、こんな場面は載っていなかった。

 「北原くん」戸田主任の声は静かだった。責める色はなかった。「サービスカウンターの、二番の引き出し。たみさんの緊急連絡先の控えがあるはずだ。桜井さんがずっと前に控えといてくれた。あれはな、本部のマニュアルには載っとらん仕事だで」

 北原ははっと桜井を見た。桜井はたみの手を握ったまま、ゆっくり頷いた。「あるよ」と、その目が言っていた。

 引き出しの奥から出てきたのは、一枚のメモだった。少し黄ばんだ、桜井の丸い字。「木村たみさん 娘さん」と書かれ、県外の電話番号が記してある。日付は二年前。世間話のついでに、ふと「もしものときのために」とそっと聞いて、書きとめておいたものだった。誰に命じられたわけでもなく。二十年、そうやってこの店の〝記録にならない記録〟を、桜井は積み重ねてきたのだ。

 北原の指が、そのメモの上で少し震えた。

 娘さんが隣の県から車で迎えに来るまでの、一時間ほど。

 たみはサービスカウンターの丸椅子に座って、桜井とぽつぽつ話していた。バナナは黄色いのより少し青いのが好きだとか、昔この店でコロッケを揚げていた人がいたとか。同じ話をたみは何度も繰り返した。桜井はそのたびに、はじめて聞くように「そうかね」「へえ」と相づちを打った。

 「あんた……桜井さんね」

 「そうよ。桜井です。何べんでも言ったげる」

 たみが安心したように、ふっと笑った。その笑顔を、北原は少し離れたところからずっと見ていた。

 閉店後の、施錠を待つ暗い店内。

 桜井は打刻をとうに済ませ、私服のままだった。それでも帰る気にはなれず、暗い店内をぼんやりと眺めて立っていた。二十年、毎日この時間に見送ってきた景色だった。

 北原は掃除の手を止めて、その桜井のところへ行った。

 「桜井さん。さっきは、すいませんでした。昼の。俺、効率とか時間とか、そんなことしか見てなくて。桜井さんがあの一枚のメモを、二年も前から持っとったなんて、想像もしませんでした」

 深く頭を下げた。桜井は、レジ台に残っていたレジ袋を一枚、そっと手に取った。

 「北原くん、頭上げてね。ええのよ。あなたはこれから覚えていくんだから」

 桜井は暗い店内をぐるりと見渡した。半分消えた蛍光灯。値引きシールの貼られた売れ残りのパン。見慣れた景色。

 「お客様はな、ほんとはね、物を買いに来とるだけと違うのよ。ここに来たら名前を呼んでもらえる。顔を覚えててもらえる。ちょっとだけ、あったかい場所がある。たみさんは、それをもらいに来てくれとるんだと私は思う。私らはな、バナナや牛乳と一緒に、その〝あったかい場所〟を売っとるのよ。レジ袋ひとつの、その中に」

 北原は何も言えなかった。ただ、その言葉が胸のいちばん奥の、ずっと固かったところに、じんとしみていくのが分かった。

 その夜、桜井は自分の家の狭い台所に立っていた。

 冷えきった手を蛇口のぬるま湯にあてて、ゆっくり温める。あかぎれがじんとしみた。

 家の中は、しんとしていた。もう長いこと、この家には桜井一人きりだ。夫を見送ってから、ずいぶんになる。帰ってきて「ただいま」と言う相手も、もういない。

 やかんが鳴った。湯呑みひとつにお茶を淹れて、両手で包む。手のひらにじんわり熱が伝わってくる。桜井はその温かさを、しばらくただ感じていた。そして誰にともなく、ほんの少し口元で笑った。あのたみの、安心した顔を思い出しながら。

 窓の外、ずっと遠くに、マルホシの看板の灯りが小さくにじんで見えた。屋上の「ホ」の電球は、もう二十年も切れたまま、「マル シ」と読める。それでも消えずに灯っていた。

 ――同じ頃。二階の店長室で、大森和成は一人、机に向かっていた。

 机の上には、本部から届いた白い封筒。まだ開けていない。もう三日も。宛名の下に小さく印字された文字を、大森はもう何度も見ていた。――「(要・面談)」。

 窓の外、道路の向こうで、グランモールの明かりが煌々と夜を照らす。こちらの駐車場には、もう一台も車がない。

 大森は封筒を手に取り、また置いた。この店には桜井がいる。戸田がいる。若い北原もいる。あのやる気のないバイトの子だっている。みんな、それぞれの暮らしを抱えている。その顔が一人ずつ浮かんだ。

 大森は深く息を吐いた。その息が白くなった気がした。

 「どうしたもんかな」

 誰もいない部屋で、大森はそうつぶやいた。語尾がいつものように、力なく濁って消えた。

(第一話 了)


 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

 第二話からは、たみさんの娘さんのこと、名札を裏返したあの子のこと、店長のあの白い封筒のことが、少しずつ動きはじめます。

その続きは、紙の本と電子書籍のどちらでも読めます。マルホシ一宮店の、ひと冬から春までの物語を、どうぞ最後まで。


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第一話「レジ袋ひとつ」の、前編・後編朗読でお届けしています。静かな夜のおともにどうぞ。

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