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脱サラ非農家の起農日誌——特別編 第6回「ベランダを、卒業する——プランターの先にある、土の話」

【登場人物】

岩島順一(いわじま じゅんいち・50歳)
公務員を25年勤めて退職した、非農家の起農準備中。今夏、畑を持たないままベランダのプランターで有機の夏野菜づくりに挑戦。質問する側=読者の代わりに、素朴な疑問をぶつける。

三好さん(みよし・75歳)
岩島の師匠。元銀行員。定年後に家の柑橘を継ぎ、BLOF理論で有機栽培を実践。ミシュラン認定レストランに直接卸す。穏やかで、淡々と核心を突く語り口。

裕子(ゆうこ)
岩島の妻。ベランダ菜園に没頭する夫を、半ばあきれ、半ば面白がって見守る。

ゴン・リク
岩島家の茶色い中型犬2頭。柴犬に似た雑種。いつも一緒で、ゴンが少し前に出る兄貴分。


八月の終わり。

ひと夏、ベランダの野菜たちは、よく働いてくれた。アイコは数えきれないほどの実をつけ、キュウリは一日見ないと巨大化し、後から加えたナスも、つやのある実を三つ四つ、ぶら下げた。

朝のベランダが、すっかり日課になっていた。水をやり、脇芽を摘み、虫を見て、採れたものをボウルに入れる。妻の裕子は、もう驚かなくなった。犬のゴンとリクは、相変わらずプランターを不思議そうに見上げている。ゴンが先に鼻を寄せ、リクが後ろから覗く。それも、夏の風景になった。

だが、八月の終わりのある朝。俺は、ベランダに立って、妙な物足りなさを感じていた。


「もっと、広いとこでやりたい」

その日、三好さんから電話があった。最近は、向こうからもかかってくるようになった。

「岩島さん、夏野菜、どうでした」

「三好さん、ちょうど、電話しようと思っとったとこです」

「ほう」

「採れました。よう採れました。アブラムシも来たし、テントウムシも来たし、pHも気にしたし、おすそ分けもしました。教わったこと、ひと通り、やれた気がします」

「ええことです。ほな、満足しましたか」

俺は、少し、間を置いた。

「それがですね、三好さん」

「はい」

「物足りんのです」

「ほう」

「ベランダの一鉢、二鉢では、もう、物足りん。もっと、広いとこでやりたい。そう思い始めとるんです」

電話の向こうで、三好さんが、ふっと笑ったのが分かった。

「岩島さん」

「はい」

「それが、卒業の合図です」


「ベランダは、教習所やったんです」

「卒業、ですか」

「ベランダはね、教習所やったんです」

「きょうしゅうじょ。車の?」

「そうです。車の免許、取るとき、いきなり公道に出ますか」

「出ません。教習所のコースで、練習します」

「ベランダは、それです。狭いコースで、ハンドルの切り方、ブレーキの踏み方を覚える。土つくり、水やり、虫の見方、収穫。基本動作を、小さく、安全に練習する場所やったんです」

「で、ひと夏で、ひと通り覚えた」

「覚えました。アブラムシが来ても、もう慌てんでしょう」

「慌てません。手で取ります」

「葉が黄色うなっても?」

「下葉か、pHか、まず疑います」

「ほら。もう、運転できとるんです。そろそろ、コースの外に出る頃です」

俺は、スマホのメモアプリに打ち込んだ。

ベランダ=教習所。基本動作を小さく練習する場所。物足りなさ=卒業の合図。

「三好さん、コースの外、というのは」

「畑です。本物の、土の上です」


プランターの土と、畑の土は、違う

「三好さん、ベランダでこれだけできたんやから、畑でも同じようにやれますよね」

「岩島さん、そこは、ちょっと待ってください」

「ちょっと待つ?」

「プランターの土と、畑の土は、別もんなんです」

「別もん。同じ土やないんですか」

「全然、違います。プランターはね、買うてきた培養土でしょう。あれは、最初から、ええ具合に調整してある。pHも、肥料も、水はけも、メーカーが整えてくれとる」

「至れり尽くせり、ですな」

「そうです。だから、ベランダは成功しやすい。でも、畑の土は、誰も調整してくれてないんです」

「ありのまま、ということですか」

「ありのままです。その畑が、何十年、どう使われてきたか。粘土質か、砂質か。水はけはどうか。pHはどうか。何も分からん、まっさらな相手です」

俺は、第二回で習った土壌分析のことを思い出した。あのとき三好さんが見せてくれた、数字のずらりと並んだファイル。あれは、まさに「ありのままの土」を知るための健康診断だった。

「三好さん。畑を始めるなら、まず土壌分析、ということですか」

「ようつながりました。その通りです。畑の土は、まず、知ることから始まるんです」


「いきなり広い畑は、あかん」

「三好さん、ほな、僕、そろそろ畑、探した方がええですか。観光農園やるなら、広いとこがいりますよね」

「岩島さん、気持ちは分かります。でもね、もう一個、教習所の教えを思い出してください」

「教習所の」

「いきなり高速道路、走りますか」

「走りません。まず、下道です」

「畑も、同じです。いきなり何反もの広い畑を借りて、有機でやろうとすると、たいてい失敗します」

「失敗」

「草に負けます。虫に負けます。手が回らんのです。ベランダの一鉢は目が届いた。でも、広い畑は、目が届かん。同じやり方は、通用せんのです」

「ほな、どうしたら」

「小さく始めるんです。家庭菜園が借りられる市民農園とか、知り合いの畑の隅とか。一坪、二坪から。ベランダより少し広い、くらいから」

「一坪、二坪」

「そう。そこで、畑の土を相手にする練習をする。プランターと畑の違いを、体で覚える。それから、だんだん広げていくんです」

俺はメモに打ち込んだ。

畑も段階的に。いきなり広い畑は草と虫に負ける。市民農園など一坪二坪から。

「三好さん、なんか、僕の起農の進め方と、似てますな」

「というと?」

「いきなり農園経営、やないんです。まず創業塾に行って、農業大学校に行って、ベランダで練習して。順番に、段階を踏んどる」

「岩島さん、それが、一番ええんです。農業はね、焦った人から、退場していくんです」


焦った人から、退場する

「焦った人から、退場する」

その言葉が、胸に残った。

「三好さん、それ、どういう意味ですか」

「岩島さん、新しく農業を始める人、たくさんおります。でもね、何年かで、辞めていく人も、たくさんおるんです」

「辞める」

「理由はいろいろです。でも、よう見ると、焦った人が多い。早う結果を出そうとして、いきなり広げて、いきなり借金して、いきなり大量に作って。うまくいかんで、潰れる」

「急ぎすぎて」

「急ぎすぎなんです。土は、急に良うならん。技術は、急に身につかん。お客さんは、急に増えん。ぜんぶ、時間がかかるんです。その時間を、待てるかどうか」

「待てる人が、残る」

「残ります。岩島さん、あなたは、待てる人やと思います」

「なんで、そう思うんですか」

「畑もないのに、ベランダのプランターで、ひと夏、ちゃんとやった人やからです。普通、焦る人は、そんなことせんのです。いきなり畑を探しに行くんです」

俺は、少し、照れた。

「いや、それは、三好さんが、プランターから始めなさいって言うたからで」

「言いましたけど、やるかどうかは、本人次第です。岩島さんは、やった。それが、答えです」


ベランダの、店じまい

九月に入った。

夏野菜たちは、少しずつ、勢いを失っていった。トマトの実は小さくなり、キュウリの葉は黄ばみ始めた。夏の終わりは、ベランダにも、ちゃんと来る。

俺は、ある休みの日、ベランダの店じまいをした。

枯れ始めた株を、抜く。支柱を、片づける。プランターの土を、ひっくり返す。ひと夏、よく働いてくれた土は、植えたときよりも、少し、色が濃くなっている気がした。微生物が、根が、この夏のあいだに、確かに土を変えていた。

この土は、また使える。三好さんに教わった。来年の春、苦土石灰を少し混ぜて、pHを戻して、堆肥を足せば、また夏野菜が育つ。

土は、続いていく。

俺は、空になったプランターを見ながら、不思議な感慨にとらわれた。

このベランダで、俺は、有機農業のひと通りを、体で覚えた。種から、というわけではないが、苗から、実りまで、虫まで、土の手入れまで。そして、おすそ分けという、商売の入口まで。

教習所を、卒業する。

次は、本物の土の上だ。畑の、ありのままの土。まずは、知ることから。小さく、一坪、二坪から。焦らず、段階を踏んで。

俺は、台所に立って、コーヒーを淹れた。ミルに豆を入れて、ゆっくり挽く。香りが、立ち上がる。

窓の外、空になったベランダで、ゴンとリクが、所在なげに座っていた。ゴンが先に、こちらを振り返る。リクが、それにならう。

「来年も、やるからな」

そう声をかけると、ゴンが、尻尾を一回、振った。


この記事を読んでくれた、あなたへ

最後に、少しだけ。

ベランダの家庭菜園で、ひと夏を過ごすと、ある日、物足りなさを感じる瞬間が来るかもしれない。もっと広いところで、やってみたい。その気持ちは、失敗ではない。前に進む合図だ。

でも、そこで焦らないでほしい。

プランターの土と、畑の土は、違う。整えられた培養土と、ありのままの畑の土は、別の相手だ。だから、いきなり広い畑に飛び込まず、市民農園の一坪から、少しずつ。ベランダで覚えた基本動作を、本物の土の上で、もう一度、確かめながら。

土は、急に良くならない。技術は、急に身につかない。お客さんは、急に増えない。

焦った人から、退場していく。待てる人が、残る。

あなたがもし、ベランダでひと夏を過ごしたなら、あなたは、待てる人だ。次の一歩を、ゆっくり、踏み出してほしい。

岩島は、ベランダを卒業した。

次は、本物の土の上である。


次回予告 脱サラ非農家の起農日誌——特別編 第7回「一坪の畑を、借りる——ありのままの土と、はじめての対話」——秋。岩島は、近所の市民農園に、一区画を借りる。ベランダのプランターとは、まるで違う、ありのままの土。固いのか、柔らかいのか。酸っぱいのか。何が育つのか。三好さんに教わった「畑の土を知る」を、岩島が、はじめて本物の土の上で実践する。土壌分析の結果を手に、岩島は何を読むのか。


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