黒華 #1
【あらすじ】
四日前、難波田の刑が執行された。難波田は十五年前、渋谷区神泉町で磯村一家を殺害し、死刑が確定していた。事件は終わった。事件を捜査した稲瀬は遺族に花を手向けるため、一人檜原の峠へ向かっていた。だが、そこで稲瀬は切断された腕を発見する。その腕はクリスマスに殺された一家の遺体の一部だった。犯行現場に黒い花が飾られているのを見た稲瀬は、十五年前にも現場に黒い花があったことを思い出す。二つの事件は似ていた。黒い花は何を意味するのか。黒い花に導かれ、稲瀬は真相へ辿りつく。
十二月二十七日土曜日。
空は雲で覆われていた。弱々しい光が山道を照らしている。道の両側に立ち並ぶ木々は落葉し、落ち葉がアスファルトに溜まっている。
舗装された道は人が二人並んで歩けるほどの幅があるが、登るにつれ少しずつ細くなっていた。
私は『檜原都民の森』に来ていた。秩父多摩甲斐国立公園の中にある。奥多摩三山の一つである三頭山の南東斜面、標高千から千五百メートルに広がる山岳公園だ。
三年前、この先の峠で磯村充は命を絶った。両親と妹を殺され、一人残された磯村は自ら死を選んだ。彼の心を蝕んだものは、犯人を見つけられないという無念ではない。犯人は事件が発覚して三日後に逮捕されている。
逮捕したのは警視庁捜査一課の赤城と、渋谷東署一係に刑事として配属されたばかりの私だった。
犯人が捕まったからといって殺された者が生き返るわけではない。悲しみは消えない。時が癒してくれるというが、実際にはただ薄い瘡蓋で覆われるだけだ。何かの拍子に瘡蓋は破れ、また血が流れだす。
自分の名前を呼ぶ声はもう聞こえない。一緒に笑った時間は二度と戻らない。家族がいた温もりは永久に失われてしまった。そのことを思い出すたびに傷口は開き、抉られた。
流れる血の一滴一滴が、磯村の心を少しずつ穿っていったのだと思う。
私は花束を握りしめた。事件は終わった。四日前、男の刑が執行された。それを磯村に報告するためにここまで来た。
あの男はもういない。
だが、私の心には靄がかかっていた。
――なぜ、あの男は磯村一家を殺したのか。
この問いに、いまも答えられずにいる。
事件は十五年前の十二月二十五日深夜、渋谷区神泉町で起きた。犯人の名前は難波田誠司。当時三十六歳で身寄りはなく、養護施設で育った。幼い頃から手先が器用で、高校生の時に彫った木彫りの彫刻は、公募展で金賞を獲得している。
高校卒業後、奨学金で美術大学の彫刻科へ進学した。そこで仏像の修復を学んだようだ。大学卒業後は工房で働いていた。経年劣化した美術品の修復が主な仕事で、地方の寺まで出向くことも多かったという。仕事ぶりは真面目で、工房の誰もが難波田を実直な人物だったと評価していた。
取調室で赤城の問いに答える難波田に、私も同じ印象を持った。難波田は顔を伏せ、声を震わせながら一つ一つ答えていた。あれが演技だったとは思えない。
磯村一家の誰かを恨んでいたのかという問いに、難波田は名前も知らないと答えた。どこかで同じ電車に乗っていたとか、行きつけの店が同じだったということもない。
被害者一家との接点が見つからなかった。怨恨や痴情のもつれ、ストーカーの線もないなら、強盗目的だったのか。
だが、難波田に借金はなく、金銭を奪った形跡もなかった。精神疾患も疑われたが、既往歴はなく、起訴前鑑定でも精神疾患は認められていない。
難波田は自分のやったことが凶悪犯罪だとわかっていた。それなのに、犯行を隠す素振りがまったくないのも引っかかる。
現場には血濡れた指紋と凶器のナイフが残され、周辺の防犯カメラにも難波田の姿は記録されていた。夜明けまで二十四時間営業のファミレスでコーヒーとサンドイッチを注文し、始発で自宅へ帰っている。
駅で監視カメラを気にする様子はなく、電子マネーで乗車していた。足取りを追うのは難しいことではなかった。
逮捕後、難波田は犯行を認めている。ただ動機だけが不明だった。赤城が繰り返し尋ねても、難波田は嗚咽するだけでその理由を語らなかった。
事件は突発的に起きたのではない。犯行に及ぶ二十時間前、難波田は自宅の戸棚から刃渡り二十四センチの狩猟用ナイフを取り出し、鞄に入れている。事前に凶器を用意していることから、犯行は計画的だったとみなされた。
なぜ、難波田は最期まで動機を語ろうとしなかったのか。
答えは永久に失われてしまった。そのせいで、私はあの事件が持つ闇からいまだに抜け出せずにいる。
短いトンネルを抜けると、道は二手に分かれていた。矢印の形の札があり、右手は『鞘口峠』、左手は『三頭大滝』と記されている。
私は右手へと歩き始めた。舗装された道は終わり、道は雑草と落ち葉に覆われていた。土の感触を感じながら登っていく。急な上り坂になり、息が切れた。枯れ葉を踏み締める音に鳥の囀が重なる。
さらに斜面を登り、ブナの群生地へと入っていった。周囲を見まわし、ひときわ背の高いブナの大木に目を留めた。
枝は大きく三本に分かれ、先端に向かってさらに細かく広がっていた。空を掴むように伸びた梢にカラスが留まっている。根元には一輪の白い薔薇が置かれていた。まだ枯れてない。
この数日のうちにここまで花を供えにきた者がいる。私と同じように、犯人の死を磯村に報告に来たのだろうか。あるいは何かの記事で事件を知った登山客が手向けていったのかもしれない。
磯村はこのブナの枝にロープを結び、首を吊って自死した。まだここに磯村の魂が留まっているように感じるのは私だけではないようだ。
花束を供えるため、大木に近づいた。枯れ葉に混じった小枝を踏み、乾いた音が響いた。梢にいたカラスが羽を広げ飛び立っていく。
何かが視界に入り、息を呑んだ。いや、きっと見間違えだ。何でもないものを事件と結びつけてしまうなんて、どうかしている。
息を整え、その何かに近づいた。仕事で疲れが溜まっている。きっと誰かが捨てた紙袋か布の切れ端だろう。
脳裏に浮かんだものを否定しようと目を凝らし、しゃがみ込んだ。だが、それは見間違いではなかった。
そこにあったのは、人間の腕だった。
剥き出しの皮膚は生白い。その腕は肘で切断され、指は何かを掴むように握られていた。切断面の血は乾き、まだ腐敗臭もない。
ブナの周囲を見まわしたが、ほかに切断された遺体は見当たらなかった。
通報一時間後。
峠には規制線が張られ、辺りは騒然となった。臨場した刑事は青梅西署の寺尾と名乗った。私より十は歳上だろう。背は低く、痩せている。私の警察手帳を繁々と眺め、肩をすくめた。
「稲瀬さんは、よく檜原に来るんですか」
「いえ、ここへ来たのは今日で三回目です。最初に来たときは捜査の一環でした。事件の遺族がここで亡くなったんです」
「それは、いつのことですか」
寺尾は記憶を辿るように目をすがめた。
「三年前です。遺書はありませんでしたが、自殺と断定されています」
「事件の遺族だった男が自殺したのか。それはどんな事件でしたか」
寺尾は手帳を開いた。
「事件があったのは、もう十五年も前のことです。クリスマスの深夜に一家三人が惨殺されました。当日家にいなかった長男の充さんだけが生き残ったんです」
「……神泉町の一家惨殺事件か」
寺尾の問いに、私はうなずいた。
「犯人の男は事件後すぐに逮捕され、裁判で死刑判決が下されました。刑が執行されたのは、つい四日前です」
「だから、あんたはその報告に来たってわけか」
寺尾はブナの木を見やった。鑑識課員が写真を撮っている。切断された腕はすでに運び出されていた。
「俺は、今日あんたが第一発見者としてここにいることに因縁めいたものを感じてるよ」
因縁という言葉がチクリの胸を刺す。
「そうですね。腕が切断されているということは、どこかに腕を失った遺体があるということですからね。一刻も早く身元を確認できることを祈っています」
「因縁というのは、稲瀬さんが刑事だから言ってるんじゃないよ。あんたが神泉町一家惨殺事件を捜査した刑事だから……」
妙な言い方をする。
「あの事件の関係者は、みんな亡くなってしまいました。充さんのご親戚も亡くなっていて、刑に処された難波田にはもともと両親がいませんでした。今回の事件とは繋がりようがないんです」
私の言葉に、寺尾は表情を強ばらせた。
「一族が……生き絶えた。そういうことか」
寺尾はつぶやき、コートの襟を立てた。時刻は正午を過ぎていたが、太陽は一向に現れない。空気は冷えていて、指先の感覚を奪っていく。
「難波田はどうして磯村一家を殺したのか。それだけがわかりませんでした。その答えを私はずっと考えているんです」
「報道では、犯人と被害者に面識はなかったと聞いている。一部の週刊誌は、強盗目的の通り魔殺人だったと書き立てていたが、稲瀬さんはそうは思ってないんだな?」
寺尾が私の顔を覗き込んだ。額が広く、グレイヘアは後ろに撫でつけられている。目は二重で目尻が下がっていた。温厚そうな顔つきだが、眼光は鋭い。
「難波田が奪ったものは何もありません。快楽殺人でもありません。難波田は、磯村さん一家を殺した動機以外はすべて話してくれました。その様子だけ見ると、とても三人を惨殺した殺人鬼には見えませんでした」
一陣の風が吹き、枯れ葉が飛ばされていく。
「……実は、よく似た事件が起きているんだ」
寺尾は吹き抜けた風の行方を追うかのように空を見た。大きな白い雲がゆっくりと動いている。
「家族が殺されたんですか」
ここ数日に起きた殺人事件を思い返す。そういえば二日前、奥多摩町に住む一家が殺された事件が新聞に載っていた。被害者の名前は伏せられ、強盗殺人として捜査していると書かれていた。強盗犯が捕まったというニュースはまだ報道されていない。
「ああ。家族構成は妻と子供二人で、どちらもすでに成人していた。長男は都心で一人暮らしをしていたから、殺されずに済んだ」
「似ているというのは、四人家族だからですか」
「磯村一家は長女が殺されていたんだよな? こっちは次男が殺されている。どちらも長男だけが生き延びている。それに日付だよ」
「二十五日に殺されたんですね。死亡推定時刻は……」
「深夜二時から三時と推定されている。まるで十五年前の事件をそっくり真似しているみたいで気味が悪いだろ? ただ一つ、違うことがあるけどな」
寺尾は眉を寄せ、ブナを見やった。どこかで鳥の鳴き声がする。
「何か取られたものがあったんですか」
私の問いに、寺尾は一瞬間を置いた。低い唸り声を漏らしながら首を傾げている。ちょうどいい言葉が見つからないとでも言いたげだ。
「取られたって言われりゃ、たしかに取られたことに違いねぇ。殺された次男は、右腕が切断されていたんだよ」
寺尾は息を吐き、立てた襟をかき合わせた。
「腕って……まさか……」
脳裏に一時間前に発見した腕が蘇る。肌が剥き出しで、何かを握るように指は握られていた。あれは右腕だった。
冷たいものが額に当たる。空を見上げると白いものが舞っていた。雪だ。それは桜の花びらのようにゆっくりと舞い落ちてきた。
