春のよろこび
ある日の夜のこと。
父が仕事から帰ってきたのと同時に、友人からもらったと言って、大きいタケノコを持って帰ってきた。
立派なタケノコ。
直径三十センチメートルはあって、重さも五キロはあったもの。
所有している山から直接採ってきたのだそう。
土のにおいがした。まるでさっき山から生まれたばかりのような、ほのかなあたたかいにおいがした。
祖母と母と集合して「このタケノコを使って、何を作ろうか。」と話した。「タケノコの天ぷら?炊き込みご飯?お煮しめ?」と言って、わいわい談笑した。
タケノコが大好きなわたしにとって、楽しみで楽しみで仕方がなかった。
タケノコの調理をしたことがないわたしは、きっとおばあちゃんとお母さんが魔法をかけたようにおいしいものに変えてくれるんだ、と心待ちにしていた。
次の日、タケノコの調理が始まった。
大きいお鍋に、大量のタケノコが茹でられていた。
「こんにちはタケノコさん。やっと皮をむかれ、はじめましてだね。ぐつぐつ茹でられている気分はどうですか?ちょっと熱い温泉に入っているような気分かな。」とわたしは一人で想像を巡らせていた。
まずはお煮しめを作っていた。かつお節と和えた、出汁のきいたお煮しめ。これがすっごくおいしいんだ。楽しみだった。
その日の夜は、大量のお煮しめを食べた。おかずはほとんどお煮しめだけと言ってよいほどだった。その量は大きなお鍋の半分くらい。四人前くらい。コリコリ、シャコシャコ、やわらかく煮られたタケノコはそれはそれは美味しくて、幸せいっぱいの気持ちだった。
次の日のお昼。シュゴーシュゴーと炊飯器がないていた。「お母さん何を炊いているの?」と聞いた。すると「タケノコの炊き込みご飯だよ。おじいさんおばあさんとママとりさの分。四合だよ。」と母は言った。四合?!最初はびっくりしたものの、たしかにそれくらい必要かも…と思って、すんなり納得した。
タケノコ、ニンジン、ごぼう、鶏肉が入っていた。春の味覚がたっぷり詰まっていた。
すごくすごく美味しくて、母と「幸せだね。」と言って食べた。
次の日の夜。
台所でおばあちゃんがせっせせっせと働いていた。「何を作っているの?」と聞いたら「タケノコの天ぷらだよ。」と言った。欲張りなわたしは「ああ、よかった、タケノコまだあったんだ。」などと思いながら楽しみで仕方なかった。
その日は父も早く帰ってきて、いつも通り父母わたしの三人で食卓を囲った。
みんなでタケノコの天ぷらを食べた。
サクサク。ふわふわ。ジュワー。あちち。
春の味がしたようだった。
父が「うまい。これはうまいなあ。」といい、母も「そうだね。」といい、わたしも「すごくおいしい。幸せだね。」と言った。
父と、母と、おばあちゃんの味。
みんなが作ってくれた味。
春の味覚。
タケノコの味はやさしくて、春の温かさを教えてくれるものだった。
ある日のこと。
母に「お庭になっているサヤエンドウを採っておいて。夕ご飯にするから。」と言われた。
そういえばお庭にサヤエンドウの蔓が伸びていたっけ。
外に出るとサヤエンドウの蔓が、わたしの背を越して、網に絡まり巻き上がっていた。
「あれ。この間は蔓がまだ伸びていなくて、花も無くて、実をつけるのかなぁ。」と思っていたのに、気が付けば、実がなっていた。
量も増えていて、一晩のおかずにするのにちょうどよい量だった。
その晩はおばあちゃんがサヤエンドウの卵とじを作ってくれて、これまたおいしいものだった。
甘くて、ちょっぴりほろ苦い、シャキシャキとしたサヤエンドウのおいしさが存分に表れたものだった。
「おいしいなあ。わたしはこんなに贅沢をしていいのだろうか。」と思いながらも、食べる手をとめられなかった。
またある日の夜ご飯は、アスパラガスを使って、母がクリームパスタを作ってくれた。
春の味覚の一つ、アスパラガス。
これもまた美味しかった。
アスパラガスとベーコン、しめじと玉ねぎがクリームソースとよく絡まっていて、濃厚な味だったが、食べるにつれて、あっさりした感覚であった。胃もたれも感じないまま、わたしは二人前を食べきった。
春を存分に楽しみ、満喫するわたしたち家族なのであった。
