見出し画像

「名もなき者」たちのマシーン

自然言語処理が高度化して生成AIがいよいよ人と普通に会話するようになって、AIとの関係はより親和的になってきている。そうなると、わたしたち日本人が思い出すのが人に優しい、あのロボットのことである。

友だちのいない、いじめられっ子のためのテクノロジー

数回前のこの記事(#53 AIの民主化と、AIによる民主化─イノベーションの望ましい帰結)で、AIエージェントに絡めて「ドラえもんはのび太からの指示や依頼によって行動するわけではない。のび太の窮状を見かねて『もう、しょうがないなぁ……』などと言って、四次元ポケットを漁るわけだ。」と書いた。
AIエージェントの自律性について、ドラえもんのあり方を比喩にしたのだが、後になって「IT批評」でも取材させていただいている慶應大理工学部教授で人工知能学会の会長でもある栗原聡先生が新著『AIにはできない 人工知能研究者が正しく伝える限界と可能性』(角川新書)で、AIエージェントについてドラえもんを比喩にされていることを知った。栗原先生は以前から人の意のままに操る「道具型AI」に対して、「ドラえもん型AI」としてAIの自律性に言及されてきた。
すでに数年前に配信された東洋経済オンラインの記事「AIは今後『ドラえもん型』を開発すべき納得の根拠 きちんと認識すべき「生成AIの本質」とその怖さ」のなかにも次のような発言されている。

今の人工知能は「道具」、つまり人が命じるままに動くものです。そういう意味で、もしも個人適応が実装されたとしたら、フィルターバブルがどんどん進みます。それはさすがにまずいので、やはり必要なのは[中略]のび太の言うことをたまに聞かないこともある「ドラえもん型」なのだと思います。

『AIにはできない 人工知能研究者が正しく伝える限界と可能性』

誰もが知っているように、ドラえもんはのび太の道具ではない。道具はドラえもんのポケットから出てくるものだが、こうした道具ものび太の性格ゆえにか、ユーザーであるのび太のベネフィットに適わない結果をもたらしたりもする。
ドラえもんはのび太のパートナーであり、メンターであり、自律した思考ができる。未来の世界からグータラなのび太を教育するためにやってきたロボットなのだ。のび太はドラえもんによって──道具の力のみによってではなく──エンパワメントされて、個人的な課題や問題に対峙する。
同書のなかで、栗原先生は自律型のAIには目的や動機が必要となると述べている。ドラえもんは、のび太を「ちゃんとした人間に変える」という目的をもっている。そのAIの自律への途は、これまでのように巨大なデータの集積と学習によって創発されて生まれる可能性が高い。ディープラーニングやLLM(大規模言語モデル)で注目されてきたスケール則では、パラメータ数、学習データ量、計算量といった量的な拡大が性能を向上させてきた。こうした量の競争において、日本のAI開発はすでに米中には遠く及ばない。そこで、栗原先生は大型のAIモデルではなく「小粒」なAIモデルを多様な機関で開発し、そのネットワークによってスケール則を超える創発を実現できるのではないかという群知能の重要性を論じている。
この小粒で多様な個性のネットワークというコンセプトそのものが、IT企業のみならず日本社会から見捨てられようとしているものではないかという気がする。
本稿は、この脆弱で小粒な個性の多様性についてふれていく。
数回前の記事では、のび太のようなマイノリティをエンパワメントするドラえもん的なテクノロジーの登場こそ、AIの望ましい進化の方向のひとつであるべきではないかと書いた。現在の効率性や生産性の向上ばかり目指すAIの提供のあり方、効率性・生産性の追求はむしろ現在の富者や強者、マジョリティをさらに強化するだけなのではないかと。
AIといった先端テクノロジーが、わたしたちを幸福にするにはいま現在のビジネスのロジックから漏れてしまうような視点や論点が必要だからだ。
このメリトクラシーの世の中で、わたしたちに心理的安全性を確保してくれるようなテクノロジーこそ、求められるべきだと強く信じている。

音楽ビジネスの外から登場した才能たち

ビジネスのロジックを逸脱して、マイノリティをエンパワメントしたテクノロジーとして、わたしがすぐに想起するのはボーカロイド(VOCALOID)である。ヤマハが開発した音声合成技術である。ボーカロイドはゼロ年代初頭に製品として発売された。今では「ボカロ」という略称のほうが有名だろう。
ボカロは、サンプリングされた人声をもとに歌声を合成できるソフトウェアだ。札幌のクリプトン・フューチャー・メディアが発売したバーチャルシンガー・ソフトウェアのキャラクターである「初音ミク」が爆発的にヒットしたのは、ボーカロイド発売後しばらく経った2007年になってからだ。これが「初音ミク現象」と呼ばれるブームを巻き起こす。
若者が自分で制作した楽曲や動画を公開する共有サイトとして立ち上がっていたニコニコ動画をプラットフォームとして、初音ミクに歌わせた楽曲とともにボカロのユーザーは増加していった。ニコ動のユーザーも「初音ミク現象」に牽引されて短期間で急増する。この頃は、ネット文化や同人文化が非常な盛り上がりを見せはじめた時期であり、初音ミクは特にオタク層の若者を中心に絶大な人気を博していった。
初音ミクの歌声は独特な機械的音声で人間のボーカリストでは歌いこなせないような音程も歌うことができ、ユーザーの楽曲制作の自由度を広げた。この点は文化を醸成するうえで重要だったと考えられる。なぜなら、より自由な環境で制作された楽曲には、ユーザー個々のリアルで不定形な感情が十二分に表現されたからだ。やがてそれは独特な感情表現を生み出し、初音ミクにキャラクターとしての立体性をもたらした。初音ミクによる、それまでにない歌唱が、ユーザーでもある聴衆の共感を強く刺激し、さらに新しい楽曲を生むというサイクルができ、それは巨大化していった。現象は音楽だけでなく、アートやゲームなどさまざまな分野に影響を及ぼしていく。
「初音ミク現象」はそれまでの音楽ビジネスのロジックからはまったくオルタナティブなシーンから生まれた。そのブームを牽引したのはメジャーレーベルなどの既存の音楽ビジネスには収まらない才能だった。初音ミクは当初はオタク層のものであり、たくさんの友人に囲まれリアルな生活を充実させていた若者から少し外れたマイノリティの人たちのものだったのだ。
ボカロの楽曲制作者たちは「ボカロP(プロデューサー)」と呼ばれた。制作された楽曲が数百万回再生されるような才能が次々に登場した。これらは、ボカロのための楽曲制作という新しいロジックとインターネット上での公開という文化がなければ登場し得ない才能だったはずだ。
それが誰の発言だったかは忘れてしまったのだが、当時、ネット上に名を馳せていたボカロPの一人が雑誌のインタビューに答えて、「メジャーには行きたくない。メジャーのミュージシャンが幸せそうに見えない」と言ったのが強く印象に残っている。既存のロジックが壊されていくような衝撃だった。

J-POPインヴェイジョン

エンタメ社会学者を名乗る中山淳雄の『クリエイターワンダーランド 不思議の国のエンタメ革命とZ世代のダイナミックアイデンティティ』(日経BP)は、ボカロがいかにグローバルな市場を獲得するに至ったかを詳細に論じる名著だ。
このなかで中山は、それまでマスメディアといった巨大資本に“見出される”ことによってしか、クリエイターは知名度をあげ作品を大衆に向かって発信する術を持たなかったが、インターネット文化によって大きな変化を遂げたことを指摘する。もう、巨大資本に従って“幸せそうにみえない”創作活動に勤しむことがクリエイターのあり方ではなくなったのだ。

様々なクリエイターがアマチュアから登場してきた10年間だった。ボカロP、歌い手、絵師、作家、ユーチューバー、Vチューバー。[中略]巨大企業が入念にクリエイターを集め、巨額の制作費と広告費をかけなくても、ファンたちが拾い上げて支えるものがメジャーを圧倒するようにもなってきた。

『クリエイターワンダーランド』

米グラミー賞の主催団体が今年に入って公開した「5 Music Trends You May See In 2025: The Rise Of J-Pop, Music Video Craze & More(2025年の音楽トレンド5選: J-POPの台頭、ミュージックビデオの流行ほか)」という記事のなかで、「J-Pop Will Boom(J-POPがブームになる)」と、J-POPがグローバル市場を侵略すると述べられている。
同記事は、米津玄師やYOASOBIらの名を挙げ言及している。彼らの出自がボカロPであることはよく知られたことだ。ボカロP名ハチを名乗った米津玄師は、楽曲制作のみならず自作のイラストによる動画も公開していた。YOASOBIのAYASEもボカロPで世に出た。
こうしたミュージシャンたちのグローバル市場進出に大きな影響を発揮したのは、いうまでもなくアニメのOP曲である。海外の日本アニメファンから、J-POPに火がつきヒットする例は枚挙に遑がない。藤井風のようにアニメのOP曲に頼らないでヒットを出すクリエイターもいるし、CITY POPという1970年代の日本のニューミュジックシーンへの世界からの注目もアニメの影響とは言い難い。しかし、インターネットを通じたコミュニティからグローバル化した点においては現代性において通底している。
中山は『クリエイターワンダーランド』のなかで、こうした状況を社会背景も捉えながら詳細に分析している。そのなかで、わたしにとって重要なのは、こうしたクリエイターたちがみずからのアイデンティティを求めるために、自分の居場所や役割を得るために新しいテクノロジーにエンパワメントされてきたという論点だ。
中山はマイノリティの存在がクリエイティブを通じて社会のなかで重要性を増していると述べる。マイノリティとテクノロジーが手を結ぶとき、これまでのロジックを突き破る社会や文化が誕生しうるのだ。
アイデンティティというと欧米風の自己同一性を思い浮かべるかもしれない。しかし、中山はヴァーチャル空間おける多重なアカウント保有、メタバースにおける実社会での属性をまったく離れたアバターになることについて、この時代のテクノロジーとクリエイティビティに与えられたアイデンティティだと述べている。
実社会において疎外され孤独を託つわたしたちに、新しいテクノロジーはこれまでにない自由を与えてくれる。メタバースにおいては性別も年齢からも解放される。50歳のおじさんが14歳の美少女になって20代の男性(アバター)と恋愛さえできるのだ。
個性の多様性と個人の──ポリフォニックな──多重性こそが、わたしたちの社会を、スケール則をこえて創発しうるものではないだろうか。
テクノロジーがわたしたちの多様性と多重性を担保し、そのフィードバックによってテクノロジーも創発される。そういう日本ならではのテクノロジーの進化こそ望むべきものなのだと思うようになっている。

ニューロダイバーシティVS.メリトクラシー

中山の『クリエイターワンダーランド』で紹介されていたことで手にとり示唆を受けた本が2つある。ひとつは『江戸とアバター 私たちの内なるダイバーシティ』(池上英子、田中優子著/朝日新書)であり、もうひとつが『マイノリティデザイン─弱さを生かせる社会をつくろう』(澤田智洋著/ライツ社)だ。
『江戸とアバター』はアバター(分身)をもつという文化そのものが、すでに江戸時代からあり「別世」というマルチバースを彷彿させる考え方で、さまざまな名前を使い分け俳諧という二次創作に興じるコミュニティを形成したことを論じながら、現代社会から疎外されている「非定型インテリジェンス」を取り込んだ「ニューロダイバーシティ(神経構造の多様性)」の重要性に言及される。
発達障害などを抱える人たちの神経系は健常者とは違いがあるだけで症状として区分すべきではないと池上はいう。そこには個性の違いのみがあり、それが多様性を生んでいるのだと。「非定型インテリジェンス」こそ、ここ最近の記事でとりあげてきた能力主義社会(メリトクラシー)の単一的な数値化の基準からこぼれ落ちる知性や技能のことだ。
池上はニューヨークに拠点をおく歴史社会学者として江戸時代における芸能を通じた公共圏を研究するなかで、江戸庶民のあり方に欧米風の個性では計りきれない分身性を見出し、そのなかに健常とは言えない人々の個性がいかに包含されていったのかを知る。
わたしも前々回、江戸時代について「社会的弱者とみなされる人々も、当時の身分制の枠内で一定の役割を果たし、生計を立てる道が制度的・慣習的に保障されていた」と述べておいたが、池上もウェブ空間でさまざまなアバターと交流するなかで、自閉症スペクトラムなどの多様な個性をもつひとたちの公共圏と江戸庶民のそれとの共通を見つけていった。
一方、共著者であり法政大学の総長でもある田中優子は、生物はアルゴリズムであり人間は異なるアルゴリズムの集合であるという。これはユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』上下(柴田裕之訳/河出書房新社)のなかで述べた考えに準拠したもので、それによれば、人間もコンピュータと同じように定められたルールに従って情報を処理していくというアルゴリズムで細胞や器官ごとに多様な処理を行う集合体という意味だ。わたしたちはさまざま多様な数値やデータとその処理が合わさって個人を現出させているということだ。それは先述した栗原先生の創発についての考えと通底する。さまざまな処理を行う細胞の集合が生命あるいは感情や意思を創発するように、この時代において多様なデータからなるアルゴリズムが個人を存在させるのかもしれない。
そのうえで、田中は本稿にとって重要な点を以下のように述べている。

このアルゴリズムの集合体としての個人、という個人概念はもちろん江戸時代にはない。だからデータ量の格差について今議論する必要はないだろう。しかし江戸時代では、才能の集合体としての個人、という考え方は連[筆者註:共通の趣味や活動、信仰などを通じて結びついた人々の集団のこと]を見る限りごく普通のことだ。上田秋成は「わたくしとは才能の別名なり」(一八◯八年『胆大小心録』)と書いている。なによりも、近代自由主義が信じる個人概念に比べ、アルゴリズムの集合体としての個人概念のほうが、江戸時代の個人概念に近いのである。だからこそ、創造は個人のみの自由の発揮ではなく、互いの関係のなかで動的になされるものであった。

『江戸とアバター』

近代的なコンセプトとしてのアイデンティティを超えて多様で多重な個性によってクリエイティビティを発揮することが、個人の集合としての社会をより柔軟でアクティブな場所に変えていくのではないか。そう読み取れる。インターネットにしろ、メタバースにしろ、テクノロジーがもたらした新しい公共圏の意義をそこに見出すことはさほど難しいことではないはずだ。
さて、もう一冊の『マイノリティデザイン』だが、我が子の盲目を知った大手代理店のコピーライターだった著者が福祉の世界に飛びこんだことで見えてきた、この社会の可能性について述べられている。著者の澤田は「弱さ」のなかにこそ多様性があるという。それは池上が「ニューロダイバーシティ」と呼ぶ多様性と同一のものだ。
能力主義の現代では「強さ」は単一的だ。なぜならルールが統一されなければ競争は成り立たず、能力を示すための基準がなくなるのだから。
多様性の源泉としての「弱さ」をくみとり、わたしたちが住む社会を豊かにする手段は、テクノロジーにこそ求められるものだ。

階級を脱出するためのオルタナティブなレース

現代日本は厳密な意味での階級社会でない。他国と地を接しない島国のなかに同じ言語を使う、ほぼ同じ民族が住んでいる。かえってそのことで個性の差別化──優越化ではない──の手段としてクリエイティビティが求められたりする。空気を読みながら同調していく表層的な社会活動とは別に創造性をもって別名で参加するコミュニティが求められてしまう。
欧米では現在においても明確に階級社会である。資本家・経営者からなる上層階級があり、専門職やサラリーマン層からなる中流階級があり、労働者の階級がある。能力主義社会においては、この階級差は個人の能力によって越えていけるものとしてある。しかし、その実、階級差は、社会学者のピエール・ブルデューのいう経済資本、文化資本、社会関係資本の差によって親から子へと再生産されている。上層階級にとって能力主義の競争はスタート地点から優利にできているのだ。
英ニューカッスル近郊の労働者階級の出身であるミュージシャンのスティングはかつて「この街を出るにはミュージシャンになるか、サッカー選手になるしかなかった」と述べている。スタート地点から不利なレースでは、なんらかオルタナティブの手段を用いるかオルタナティブなレースに参加しなければ階級から脱出できない。身体的な能力や創造的な能力は端的なものだ。身体的な能力は持って生まれた才能に大きく左右されるが、一方の創造的な能力は社会が有する価値観が多様であるほど個性によって後天的に変化させうるものだ。
このスティングの言葉を思い出すとき、わたしが現在のJ-POPのグローバル市場への進出と同じことが、1960年代ブリティッシュ・インヴェイジョンと言われた、ビートルズを象徴とする英ロックバンドの米音楽市場への侵略において起きていたのだと考える。
ミック・ジャガーのように中産階級出身者もいるのだが、ワーキングクラスヒーロー(労働者階級の英雄)と歌ったジョン・レノンをみるまでもなく、多くが労働者階級の出身だった。
彼らはその少し前に電化されたギターを武器に、まさに電化によって発生するフィードバックノイズを新しい音として鳴らして世界に現れたのだ。
大西洋の対岸でも同様だ。人種としても社会から疎外されていた黒人たちは楽器さえも手にせず作曲の技術も身につけず、ターンテーブルを並べることで新しいビートを生み、言葉の奔流をのせるという新しい文化を発明し、社会に居場所をつくっていった。
そして日本では、ボーカロイドとニコ動を武器にマイノリティがいまやグローバル市場にポジションを確保するまでに至っている。大衆音楽の歴史として正統ともいえる展開なのだ。
いや、大衆音楽の正当な歴史のうえで本稿のテーマとしても見落としてはならないムーブメントがある。パンクだ。

「名もなき者」は名も捨てる

その本の帯には「パンクは、虐げられた者たちが世界を変える、反逆の声だった。」とある。なんの本かといえば、倉敷芸術科学大学准教授の川上幸之介が書いた『パンクの系譜学』(書肆侃侃房)だ。パンクは信奉者、ファンの多いジャンルである。パンクについての本はこれまでにも数多あった。本書が特別なのは、プルードンやバクーニンに遡りアナキズムの思想潮流、マルクスの共産思想からの影響をみながら、DADA、シュールレアリズムといったアヴァンギャルド芸術から受けたクリエイティビティへの影響、シチュアシオニスト・インターナショナルからの直接的な行動主義への影響を詳細に読み解いていることだ。
パンクはイギリスにおいてはまさに労働者階級の反逆であった。セックスピストルズのジョニー・ロットンはアイルランド移民としての疎外感を憎悪し、それを発露した。そういえば、ジョニー・ロットンの本名はジョン・ライドンだということを思い出せば、パンクミュージシャンにはふざけた変名が多い。ロットンは「腐っている」という意味だし、ピストルズのベーシスト、シド・ビシャスのビシャスは「凶暴」という意味を掛け合わせていたり、クラッシュのジョー・ストラマーも「かきむしる」といった意味にとれる。この変名のセンスも「山手馬鹿人(やまのてばかひと)」やら「宿屋飯盛(やどやのめしもり)」「南陀楼綾繁(なんだろうあやしげ)」などという江戸庶民のそれに通じるものを感じる 。江戸庶民もこうした変名で幕府を嘲り、あいもかわらぬ馬鹿げた世の中を笑うという反抗を示したのだ。
その一方で、アメリカにおけるパンクには、都市近郊の、いわゆるアメリカン・サバービア的な均一主義や保守性への違和感、反抗がある。日本のパンクシーンも──ニューヨークのノーウェーブシーンの直接の影響もあるが──、社会からの同調圧力への反抗が大きなモチーフになっており、アメリカのパンクに近い。
同書の第1章では、それこそ大学など中産階級の進学先から外れた若者たちが通ったアートスクール──the Jamにその自由を歌う同名曲がある──という労働者階級のコミュニティを取り上げている。アートスクールからは音楽のみならず、より自由な表現をもつクリエイターが多く輩出されている。多様性がもたらしたクリエイティビティが、社会へ若者を通す手段としていかに有用だったのかをこの例も示している。
パンクが思想性を深めていった1980年代は、レーガン、サッチャーの新自由主義経済が始まった時代でもある。現在へと続く競争激化の能力主義社会が萌芽した時代なのだ。この時代にパンクは、マイノリティのための政治力を発揮していく。移民や女性といったマイノリティに社会に対する表現力を与えたのだ。こうしたなかで、米西海岸のハードコアパンクバンドのデッドケネディーズのジェロ・ビアフラのように政治活動家として影響力をもつようになった人物も生んだ。
これはヒップホップのグラフィティにもつながるが、町中の壁にステンシルで落書きをし、メッセージし、ファンジンというパンフレット──ミニコミなどと呼んでいた──を発行してメディアをもつ。こうしたパンクの流儀はそれ以前の歴史の流れのなかから生まれ、パンクによって定着していった。パンクのコミュニティが力をもったのはこうした多様な動きが先進国の都市の隅っこの至るところで発生したからだ。それこそスケールしたのだ。
いまとなっては為政者までがパンクに言及するし、明らかにシチュアシオニスト・インターナショナルからパンクを通過したバンクシーのアートがその価値を社会的に認められるまでになっている。
本書ではパンクのみならず、大衆音楽におけるルーツについても深く分析されている。たとえばフォークがアメリカ国内での共産主義運動と深く関わっていた点などは重要だ。ウディ・ガスリーはレッドパージの標的になってきたし、民衆に土着したフォークやブルースを録音して後世に伝えたアラン・ローマックス、彼らと活動しフォークムーブメントを起こしたピート・シーガーなどに言及していく。
ウディ・ガスリーなどは、ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』上下(伏見威蕃訳/新潮文庫)の物語さながらに、季節労働者のホーボー(Hobo)として列車に無賃乗車することで全米各地を渡り歩き、そのなかでいくつもの曲をつくった。ガスリーは貧困をむしろ誇りとしていた人物である。「弱さ」を表現の武器にしたと言ってもいい。
しかしフォークの時代は変化を迎える。新たな天才がフォークとパンクの反逆性を橋渡しする。その天才とはウディ・ガスリーに大きな影響をうけたボブ・ディランである。

ガスリーは何百もの曲を作り出したものの、そのほとんどは録音されなかったが、ディランと同世代のフォークシンガーたちが彼の遺産を受け継いだ。そしてディランは、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルのステージにエレキギターを持って登場し、フォークとロックンロールを組み合わせ、パンクに連なる新しい「ロックスタイル」を作り始めた。

『パンクの系譜学』

ボブ・ディランがニューヨークに出てきて、この1965年のニューポートのステージ上でエレキギターを掻き鳴らすまでの時代を描いたのが、話題の映画「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」(ジェームズ・マンゴールド監督)である。
ディランはニューヨークにでてさっそくガスリーの入院する病院をつきとめて会いにいく。そこでピート・シーガーにも出会い、その場で「ウディに捧げる歌」を歌う。ディランを演じたティモシー・シャラメは吹き替えなしで演奏する。その歌は、名曲であることを割引いても涙を誘うほどの歌であった。
シャラメは「北国の少女」「時代は変わる」「くよくよするな」「悲しきベイブ」などを披露するのだが、とくに圧倒的なのは「風に吹かれて」だ。この時代のフォークがもっていた反逆性を見事に体現しているからだ。
若き日のディランがアイデンティティさえ好んで混乱させるスタイルだった点も絶妙に映像化されていた。ロバート・アレン・ジマーマンという本名を捨て、「サーカスでギターを習った」と嘘の生い立ちを語り、そしてフォークの天才という名声を暴力的に破壊してしまう。
この名前やアイデンティティからの逸脱、そしてクリエイティビティによる価値観の多様性の発現はここまでの本稿の内容と合致する。

テクノロジーがもたらした新しいクリエイティビティが、マイノリティをエンパワメントし、それがもたらす多様性こそが社会を豊かにできる。
「名もなき者」の集合知がスケールするとき、新しい社会が創発される。
わたしはそう信じている。
映画「名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN」のなか、ディランがガスリーのギターを抱えると、そのボディにはあの有名な「THIS MACHINE KILLS FASCIST(このマシンはファシスを殺す)」のステッカーが貼られているのが映った。
本稿では、新しいクリエイティビティをもたらすテクノロジーを「武器」と述べてきた。それは、このガスリーのギターがファシストに抵抗する武器になるという意味を背景においていたことを付記しておきたい。
ギターがガスリーのそれであったように。
エレキギターがディランのそれであったように。
VOCALOIDがボカロPたちのそれであるように。
ドラえもんはのび太のそれである。


いいなと思ったら応援しよう!