顔色のない世界
神様は、人間の心を色で見ていた。
怒りは赤く滲み、嫌悪は濁った緑になり、
嘘は紫の膜を張る。
地上はいつも、その色彩で騒がしかった。
その日、神様は極彩色の街のなかに、
ぽつりと灰色に沈んだ一点を見つけた。
一人の青年だった。
彼にも、人の感情が色で見えていた。
昔は、人の気持ちがわかるのだと思っていた。
「君のためを思って言っているんだ」
上司の口元には、 不自然な黄色の笑みが浮かんでいた。
その下から、
赤い苛立ちと 濁った緑の嫌悪が滲み出している。
「気にしなくていいよ。 誰にでもあることだから」
声は穏やかなのに、
色だけが青年を責め続けた。
言葉だけを聞いていられたら、
どれだけ楽だったろう。
言葉と感情が食い違っている。
青年はその両方を、 断ることもできず受け取ってしまう。
改札で、会議室で、帰りの電車で、
いつも人の顔色を読み、目を伏せていた。
やがて会社へ行けなくなった。
ベッドの上で天井の木目を数えているうちに、
午前が終わる日もあった。
落胆の青黒さが、
いつのまにか色を失って、
自分の内側に沈んでいた。
神様は人間を平等に愛していた。
だから、たった一人を 特別扱いしてはならなかった。
それでも、その日だけは 筆を止められなかった。
青年の心と同じ灰色をパレットで練り、
筆先から一滴、地上へ落とした。
灰色は雨のように広がり、
音もなく世界を覆っていった。
カーテンの隙間から差し込む光が変わり、
青年は顔を上げた。
世界から色が消えていた。
空も、看板も、人々の服も、
すべてが濃淡だけの世界に沈んでいる。
街では誰もが立ち止まり、
失われた色を探して騒いでいた。
青年だけが、
久しぶりに まっすぐ人の顔を見た。
赤い怒りも、緑の嫌悪も、 紫の嘘も見えない。
声は消えていないのに、
他人と自分との間に 薄い膜が一枚だけ張られたようだった。
もう、他人の感情を読まなくてもいい。
誰の色も届かない場所へ行きたいと思った。
それだけの理由で、 青年は家を出て、湖へ向かった。
古い桟橋の板を踏みしめ、 その先端まで進む。
空と水の境界は、曖昧に溶けていた。
同じ灰色のはずなのに、
雲は柔らかく、
湖は銀に近い。
濡れた板は黒く沈み、
遠くの街は白い霞の向こうにあった。
風が水面を撫でるたび、
細波が鈍い光を返す。
色を失って初めて、
青年は世界に光と影があることを知った。
誰の感情でもない灰色が、
ただ静かにそこにあった。
ここに立っていてもいい。
息をしているだけで、
誰にも叱られない。
青年は深く息を吸った。
翌朝には色を戻すつもりだった。
神様はパレットに鮮やかな色を並べ、
それから、桟橋の上で ゆっくり呼吸する青年の背中を見つけた。
あと一日だけ。
誰にでもない言い訳をして、
神様は筆を置いた。
そのとき、青年の胸の奥に、
ごく淡い色がひとつ灯っていることに気づいた。
赤でも、青でも、黄色でもない。
顔色のない世界で、その色だけが、
青年の呼吸に合わせてかすかに明滅していた。
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