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「すごいね」が、子どもを"ほめ依存"にする。アドラー13年実践の作業療法士が、13年かけても捨てられなかった「ほめる」との向き合い方

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プロローグ——逆上がりができた娘に、私はまた「すごいね」と言ってしまった

先週末、娘が逆上がりをやってみせてくれた。

公園の鉄棒で、何度も失敗して、手のひらを赤くして、それでも諦めずに挑戦して、やっとくるんと回れた。

その瞬間、私の口から出た言葉は、これだった。

「すごいね!」

本気で言った。心から出た言葉だった。娘は、誇らしそうな顔で私を見た。

——でも、その夜。

娘が寝たあと、私はふと考え込んでしまった。

私は13年間、アドラー心理学を実践してきた。アドラーは「ほめるな」と言う。「すごいね」は、上の立場の人が下の立場の人を評価する、縦の関係の言葉だ。アドラーが最も避けるべきとする関わり方だ。

頭ではわかっている。それなのに、私はまた「すごいね」と言ってしまった。

13年だ。13年実践してきて、まだ捨てられない。

私は作業療法士16年目、特養勤務のHSP・ISFJだ。アドラー心理学を13年実践してきて、100人近くの方の最期に立ち会ってきた。

このアドラーシリーズも、今日で8回目になる。これまで「課題の分離」「目的論」「怒りの目的」「5本柱」などを書いてきた。

今日のテーマは「勇気づけ」だ。

アドラー心理学の中で、いちばん有名で、いちばん実践が難しい技術。「ほめる」でも「叱る」でもない、第三の関わり方。

先に、正直に書いておく。

この記事は、「勇気づけを完璧にマスターした作業療法士が、その方法を教えます」という記事ではない。

「13年やっても、まだほめることを捨てられない作業療法士が、それでも勇気づけと向き合い続けている話」だ。

きれいごとは書かない。私自身の、生々しい揺れごと書く。

第1章——「ほめる」と「勇気づけ」は、何が違うのか

まず、いちばん大事なところから書く。

「ほめる」と「勇気づけ」は、似ているようで、まったく違う。

ほめるとは、評価することだ。

「すごいね」「えらいね」「よくできました」——これらの言葉には、ある前提が隠れている。

「評価する人」と「評価される人」が、いる、という前提だ。

つまり、上下関係がある。先生が生徒を、上司が部下を、親が子を、上から評価する。一見ポジティブな言葉でも、そこには必ず「ジャッジする側」と「ジャッジされる側」という縦の構造が含まれている。

これに対して、勇気づけは、評価ではない。

アドラー心理学の創始者アルフレッド・アドラーと、その思想を子育てに広げたルドルフ・ドライカースは、こう考えた。

人を上から評価するのではなく、対等な横の関係から、相手が自分の力で立ち上がる勇気を分け与える。それが勇気づけだ。

具体的に、言葉で比べてみる。

子どもがテストで100点を取ったとき。

ほめる言葉は、「100点なんてすごいね、えらいね」。

勇気づけの言葉は、「頑張って勉強してたもんね。やってみてどうだった?」。

違いが、わかるだろうか。

ほめる言葉は、結果を、親の物差しで評価している。勇気づけの言葉は、本人の努力に目を向け、本人の感覚を尊重している。

主役が、違う。

ほめるは、主役が「評価する親」だ。勇気づけは、主役が「本人」だ。

ドライカースは、これをひとことで言い表している。

「行為に目を向けよ。その人を評価するな」

「あなたはすごい子だ(人への評価)」ではなく、「よく頑張ったね(行為への注目)」。

たった一語の違いに見える。でも、受け取る側の心の中で起きることは、まったく違う。

第2章——「すごいね」が、子どもを"ほめ依存"にする

ここで、少し怖い話をしたい。

アドラーやドライカースが「ほめるな」と言った理由は、精神論ではない。実際に、ほめられ続けた子どもに、ある変化が起きることがわかっているからだ。

子どもが、「ほめられること」に依存するようになる。

ほめ依存、とでも言えばいいだろうか。

「他人の評価」がないと、自分の価値を感じられなくなる。自分で自分を評価できなくなり、常に「誰かに認めてもらえるかどうか」を基準に行動するようになる。

これは、研究でも裏づけられている。

コロンビア大学のキャロル・ドゥエックという心理学者が、有名な実験をしている。

子どもたちに課題をやらせて、できた後に2通りの声をかけた。

一方のグループには、「頭がいいね、賢いね」と、その子の能力をほめた。

もう一方には、「よく頑張ったね」と、その子の努力に目を向けた。

その後、子どもたちに「次はどの課題に挑戦する?」と選ばせた。

すると——。

「賢いね」とほめられた子どもたちは、簡単な課題を選んだ。

なぜか。失敗して「賢くない」と思われるのが怖かったからだ。せっかく得た「賢い」という評価を、失いたくなかった。

一方、「頑張ったね」と努力をほめられた子どもたちは、より難しい課題に挑戦した。

挑戦して失敗しても、自分の価値は揺らがない。「頑張る」というプロセスにこそ意味がある、と知っているからだ。

これは、私にとって衝撃だった。

「すごいね」「賢いね」とほめることは、よかれと思ってやっている。子どもの自信を育てているつもりだ。

でも実際には、子どもを「失敗を恐れる人間」に変えてしまうことがある。

挑戦しなくなる。簡単な道ばかり選ぶ。他人の評価に怯えるようになる。

ちなみに、これは子どもだけの話ではない。

「好きで描いていた絵」に、ごほうびを与え続けると、その子は「ごほうびがないと描かない」ようになる——という現象も、心理学では知られている。好きでやっていたことが、評価やごほうびを基準にした行動に、すり替わってしまう。

大人の職場でも同じだ。「えらいね」と評価され続けた人は、いつのまにか「評価されるためにやる人」になる。上司が見ていないところでは、頑張れなくなる。

これが、ほめることの、見えにくい副作用だ。

評価という飴は、よく効く。即効性がある。相手の顔が、ぱっと輝く。

でも、その飴に依存させてしまうと、長い目で見て、その人の自立を奪う。

第3章——特養の現場で、私が「ほめる」をやめた理由

ここで、特養の現場の話を書きたい。

私は機能訓練指導員として、利用者さんのリハビリに関わっている。

リハビリの現場では、つい、こう言いたくなる。

「すごいですね! 立てましたね!」「えらい! 10歩も歩けましたよ!」

悪気はない。むしろ励ましているつもりだ。

でも、あるとき気づいた。

この言い方は、利用者さんを「子ども扱い」していないか、と。

人生の大先輩に対して、私が上から「えらいですね」と評価している。これは、完全に縦の関係だ。

しかも、こういう言い方をすると、利用者さんの中には、こう感じる方がいる。

「立てたらほめられる。じゃあ、立てない日は、ダメな日なんだ」と。

ほめられることが基準になると、できない日の自分を、責めるようになる。リハビリが「評価されるための試験」になってしまう。

そこで私は、声かけを変えた。

「立てましたね、すごい」ではなく、「ご自分の足で立ってる感じ、どうですか?」

「10歩も歩けてえらい」ではなく、「昨日より、足が前に出てる気がしますね。ご自分でも感じます?」

主役を、私の評価から、本人の感覚に、移す。

すると、利用者さんの反応が変わる。

「そうやなあ、ちょっと軽い気がするわ」と、自分の身体に意識が向く。自分で自分の回復を、感じ取ろうとする。

これは、作業療法的にも、すごく理にかなっている。

リハビリの本質は、「療法士に評価されること」ではない。「自分の身体を、自分で取り戻していくこと」だ。

勇気づけは、その主導権を、本人に返す技術なのだ。

「私がリハビリさせてあげている」のではない。「あなたが、あなたの力で回復していく。私はそのお手伝いをしている」。

この横の関係に立てたとき、利用者さんは、自分から動き出す。

「ほめて伸ばす」より、「その人が、自分の力を思い出すのを、隣で待つ」。

これが、現場で13年やってきて、私がたどり着いた関わり方だ。

第4章——看取りの現場での「最期の勇気づけ」

勇気づけは、回復する人だけのものではない。

私は、これまで100人近くの方の最期に立ち会ってきた。

人生の最終盤にいる方に対して、「すごいですね」「頑張りましょう」という言葉は、ときに残酷だ。もう頑張れない身体の人に、「頑張れ」は届かない。

では、最期の場面で、勇気づけとは何か。

私はこう考えている。

その人が、その人のままで、ここに居ていいと伝えること。

何かができるから価値があるのではない。歩けるから、喋れるから、役に立つから価値があるのではない。ただ、そこに在るだけで、その存在には意味がある。

そう伝わる関わりが、最期の勇気づけだと思っている。

以前、野球が好きな利用者さんがいた。亡くなる直前まで、私は野球の話を続けた。「森下、打ちましたよ」と声をかけたら、口元がわずかに動いた。

あのとき私は、何も評価していない。「すごい」とも「えらい」とも言っていない。

ただ、その人が好きだったものを、最期まで一緒に味わった。あなたが大事にしてきたものを、私も大事にしている、と伝えた。

これも、勇気づけの一つの形だと思っている。

評価ではなく、共有。ジャッジではなく、横に座ること。

アドラーが言う「共同体感覚」——自分はここに居ていい、という感覚——は、最期の瞬間にこそ、いちばん必要なものなのかもしれない。

人は、最期に「あなたはよく頑張った」と評価されたいわけではない。ただ、最後まで、ひとりの人として、隣に居てほしいだけなのだと思う。

第5章——それでも私は、娘をほめてしまう

ここまで、勇気づけの理屈を書いてきた。

ほめることの危険も、勇気づけの本質も、頭ではわかっている。13年間、現場で実践もしてきた。

それなのに——。

冒頭に書いたとおり、私は娘の逆上がりに「すごいね!」と言ってしまう。

スイミングでタイムを縮めたとき、跳び箱の段が上がったとき、私は本気で「すごいね」「よく頑張ったね」と言ってしまう。

アドラーの教えに厳密に従えば、これは「評価」であり「縦の関係」だ。避けるべきとされる。

13年実践してきて、ここだけは、どうしても完全には飲み込めていない。

でも、最近、私はこう思うようになった。

完璧に勇気づけを実践しようとして、娘の喜びに冷静に対応するのは、それはそれで、何か違うのではないか、と。

娘が逆上がりに成功した、あの瞬間。

そこにあったのは、評価が必要な場面ではなく、「喜びを分かち合う」場面だった。

私の「すごいね!」は、上から評価したというより、娘の喜びに、私が一緒に飛び込んだ叫びだった。

ほめは、キャンディーのようなものだと思う。

少しなら、とても満たされる。でも、摂りすぎると、問題を起こす。

ほめか勇気づけか迷ったとき、私は自分にこう問うようにしている。

「この言葉を、友達にも言うだろうか?」

逆上がりができた友達に、「すごいね! やったね!」と一緒に喜ぶ。これは、ごく自然なことだ。友達相手なら、これは縦の評価ではなく、横の共有になる。

問題なのは、「すごい」が「飴」になり、娘がそれに依存し始めることだ。「すごいと言われないとやらない」「パパが見ていないとやらない」——そうなったら、危険信号だ。

でも、心からの喜びを、その瞬間に分かち合うこと自体は、たぶん間違っていない。

だから今の私は、こう使い分けている。

喜びの瞬間は、一緒に喜ぶ。「やったね!」「できたね!」と、全身で。

でも、日常の関わりの土台には、勇気づけを置く。「自分で決められたね」「やってみてどうだった?」「最後まで諦めなかったね」と、本人の努力とプロセスと選択に、目を向け続ける。

飴は、たまにでいい。土台は、勇気づけ。

これが、13年かけてたどり着いた、私なりの落としどころだ。

第6章——妻に「なんで怒ってくれないの」と泣かれた日

もう一つ、正直な失敗を書いておきたい。

結婚する2ヶ月前のことだ。

妻が、感情をぶつけてきたことがあった。詳しい経緯は省くが、彼女は泣きながら、強い言葉を私に投げてきた。

そのとき私は、アドラーを使った。

「これは妻の課題だ」と心の中で線を引き、冷静に、淡々と対応した。感情的にならず、論理的に受け止めようとした。

——そうしたら、妻は、もっと泣いた。

そして、こう言った。

「なんで、怒ってくれないの」

私は、固まった。

正しくアドラーを実践したつもりだった。課題の分離をして、冷静に対応した。なのに、妻を、もっと傷つけていた。

あとから、わかった。

完璧な冷静さは、ときに「あなたに関心がない」というメッセージとして相手に届く。

近い関係では、感情を分かち合うことそのものが、相手への勇気づけになる。

「あなたのことを、私も自分のことのように感じている」——それが伝わることが、相手の支えになる。

私は、技術を使うことに必死で、妻と「横に並ぶ」ことを忘れていた。

勇気づけの本質は、テクニックではない。「あなたを信じている」「あなたと一緒にいる」という、姿勢そのものだ。

冷静に正しい言葉を選ぶことより、隣に座って、同じ温度で感じること。家族のような近い関係では、それが何より効く勇気づけになる。

13年やってきて、私はようやく、そこに気づいた。

正しさは、ときに人を遠ざける。横に並ぶことは、いつも人を近づける。

第7章——自分を勇気づけられない人は、他人も勇気づけられない

最後に、いちばん伝えたいことを書く。

勇気づけは、他人にするものだと思われがちだ。子どもに、部下に、利用者さんに。

でも、いちばん大事なのは、自分自身を勇気づけられるかどうかだ。

HSP・ISFJの私は、放っておくと、自分を責める。

「あの声かけ、間違ってたかな」「もっとうまくやれたはず」「私はダメな親だ」——夜中まで、一人反省会が止まらない。

これは、自分で自分を「評価」している状態だ。自分を上から裁いている。縦の関係を、自分自身に向けている。

ここに、勇気づけを使う。

「間違ったかもしれない。でも、その場で精一杯考えて選んだよね」「うまくやれなかった。でも、やろうとしたこと自体は、悪くなかった」と。

結果ではなく、努力とプロセスに目を向ける。自分の選択を、責めるのではなく、認める。

ドライカースは、勇気づけの核心を、こう言った。

「子どもには、不完全である勇気が必要だ」

これは、大人にも、自分自身にも当てはまる。

完璧でなくていい。失敗していい。間違えていい。

それでも前に進もうとする自分を、責めるのではなく、勇気づける。

自分にそれができる人だけが、他人にも、本当の勇気づけができる。

私は、まだできていない。13年やっても、自分を責めてしまう夜がある。娘をほめてしまう瞬間がある。妻と横に並べないときがある。

でも、それでいい。

アドラーは「正解」ではなく「道具」だ。完璧に使えなくていい。少しずつ、使ってみればいい。

不完全なまま、勇気づけと付き合い続ける。それ自体が、勇気づけの実践なのだと、今は思っている。

エピローグ——「すごいね」の代わりに

あの夜、逆上がりの記憶を思い返しながら、私は決めた。

次に娘が何かをやり遂げたら、その瞬間は、思いっきり一緒に喜ぼう。「やったね!」と。飴は、たまにでいい。

でも、その後で、こう付け足そうと思っている。

「何回も失敗したのに、最後まで諦めなかったね。あれ、すごく難しかったでしょ。やってみて、どんな気持ちだった?」

主役を、私の評価から、娘の感覚に、そっと返す。

それが、評価に依存しない子に育てる、ということなのだと思う。

そして、家に帰ってきて疲れている自分にも、こう言ってやりたい。

「今日も、よくやろうとしたね」

明日も特養で、誰かの隣に立つ。「すごいですね」ではなく、「ご自分で、どう感じます?」と問いかけながら。

家に帰って、娘と将棋を指す。負けても、勝っても、その勝負を一緒に味わいながら。

夜、妻と他愛もない話をして眠る。今度はちゃんと、横に並んで。

勇気づけは、技術じゃない。

その人を信じて、その人の隣に、対等に座り続けること。

13年かかって、ようやく、その入り口に立てた気がしている。

あなたは今日、誰かに——あるいは自分自身に——どんな言葉をかけますか。

それは、評価する言葉ですか。それとも、勇気づける言葉ですか。


プロフィール

作業療法士16年目|特養・ユニットケア勤務|元認知症ケア指導管理士|HSP・ISFJ|中学からテニス継続|7歳娘の父|アドラー心理学13年実践|106kgから77kgへ減量|うつ・対人恐怖を経て、薬なしで生きられるようになった現場ベースの発信を続けています。


📌 ハッシュタグ

#アドラー心理学 #勇気づけ #嫌われる勇気 #子育て #作業療法士 #褒めない育児 #横の関係 #エッセイ


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