海神様|短編小説|お題:波の音
波の音を背負って海の上に立っているのは、褌一丁の大男だ。
もっと詳しく言うなら、全身はボディビルダー並の筋肉がテカテカと輝いており、スキンヘッドにねじり鉢巻きを巻いている。
顔面は怖いくらいの笑顔だ。
「何あの人」
隣の彼女がぽつりと呟く。
僕も同じ心境だ。
今日、僕と彼女は、心中しに来た。
大財閥の一人娘である彼女と、一般庶民の僕。
許されない恋の行き着く先、というやつだ。
今頃、彼女の親御さんの息がかかった強面のスーツ軍団が僕たちを探しているだろうから、僕たちはなるべく急いで入水しなければならない。
二人で何度も愛を誓いあい、覚悟を決めて、いざ海へ一歩二歩と足を踏み出したところへ、この珍事だ。
大男は僕たちの戸惑いを他所に、チンポジを直している。珍事がチンポジってやかましいわ。
「念の為に聞くけど、君の護衛の誰かじゃないよね」
「こんなムキムキ知らないわ。いたら絶対名前覚えるもの」
普段の彼女には護衛が何人もついている。彼女曰く「全員似たような体格に同じスーツとサングラスだから区別がつかない」だそうだ。
「そこな少年少女よ」
大男が喋った。日本語だ。
「少年少女って……」
僕たちは二人ともとっくに成人している。念の為に周囲を見回したが、冬の海だ、人っ子ひとりいない。
僕が恐る恐る自分を指差すと、大男は笑顔のまま豪快に頷いた。
「まだその時ではない」
大男の声量は、ガタイに似合わないほど静かだ。
なのに、大男がなにか喋る度に高い波がザッパンザッパンと大男にぶつかる。視界が非常にうるさい。
「その時ではないって、あんたが何を知ってるのよ」
僕の彼女が勇敢にも、大男に対して会話を試みた。
僕たちは色々と足掻き、反抗し、妥協を受け入れ、それでも叶わなかったからここにいる。
海の上に立つ人外めいた大男風情が何を知っているというのだ。
しかし大男は笑顔を崩さず、繰り返した。
「まだその時ではない。この海はお主らを受け入れぬであろう」
「どうしてよ!」
彼女が悲鳴に近い声を上げた。
その時、僕たちの背後から大男ではない人の声が聞こえた。
まずい、見つかった。
僕は彼女の手を引いて、大男のいない方向へ足を踏み出した。
僕の海での記憶はそこまでだ。
気がついたら、僕と彼女は毛布にくるまれて彼女の父親の持ち物である高級車の後部座席に座っていた。
後で聞いた話によれば、僕と彼女は間違いなく心中を決行し、彼女の護衛が駆けつけたときには、僕たちは波打ち際で倒れていたそうだ。
僕と彼女は死にそびれてしまった。
しかし、命懸けの行為が何かの証明になったのか、僕たちの結婚が認められることになった。
できれば命をかける前に認めていただきたかったが、結果オーライというところだろう。
彼女ーー今は奥さんーーと二人であの海へ何度か足を運んだが、あの大男に遭うことは二度と無かった。
