バスケ人生が終わった冬、私は日本一周を決めた
18歳のころ、私は10万円を握りしめて、日本一周を目指して旅に出ました。
持っていたのは、最低限の着替えと日用品、日本地図。
そして、ニコラ・テスラの伝記(笑)
旅行の計画を綿密に立てていたわけではありません。
泊まる場所を全部決めていたわけでもないし、
日本一周にいくら必要なのか、きちんと計算したわけでもありません。
とりあえず遠くへ行こう。
たぶん、それくらいしか考えていなかったんですよね。
ちなみに先に結果を言ってしまうと、日本一周はできていません。
おそらく4分の1くらい。
「日本一周しました!」と胸を張れるような旅ではなく、途中で終わっています(笑)
このことを書こうと思ったのは、Xのスペースで茨木さんの国語ラジオにゲストに呼んでいただいたのがきっかけで当時の記憶を書いてみたいと思ったからです。
旅をはじめたきっかけは、
知らない土地へ行きたかった、というのもあります。
でも本当は、
知らないあいだに終わってしまった自分の青春に、
何か区切りをつけたかった。
その気持ちのほうが強かったのかもしれません。
このマガジンでは、そんな18歳のころの旅を、
覚えている範囲で少しずつ書いていこうと思います。
第1回は、そもそもなぜ私が突然「日本一周しよう」なんて考えたのか。
話は、高校3年の冬まで戻ります。
先に、ひとつだけお断りを
その前に、このマガジンについてひとつだけ。
これから書くのは、18歳当時の記憶を手繰り寄せながら書く話です。
かなり昔のことなので、
「これは先やったかな」
「いや、こっちが先やったかも」
みたいな部分も普通にあります。
会話についても、一言一句そのまま覚えているわけではありません。
思い出というものは厄介で、時間がたつほど少し美化されたり、逆に嫌だったことだけ妙に鮮明に残っていたりします。
なので、これは正確な旅行記というより、
「あのころの私は、何を抱えて電車に乗ったのか」
を、今の自分が思い出しながら追いかける文章です。
そのあたりをご理解いただいたうえで、「まあ、昔の話やからな(笑)」
くらいの気持ちでお付き合いいただけるとうれしいです。
高校生活の最後は、バスケで終わるはずだった
高校3年の冬。
私は、進学も就職も選んでいませんでした。
中学から6年間続けてきたバスケットボール🏀
高校を卒業すれば、そこで終わりにするつもりでした。
大学へ進んでバスケを続ける、という選択肢は最初からありません。
だからこそ、
最後のウィンターカップに、6年間の全部を置いていこう
そんな気持ちで冬まで部活に残っていました。
私たちの学校は順当に勝ち進み、ベスト8まで進みました。
これだけでも、私のそれまでのバスケ人生から考えれば、かなりの快挙です。普通なら、
「ここまで来られただけでもすごいやん」
となるところなんでしょうけど、人間というのは欲深いものです。
ここまで来たら、もっと上へ行きたい。
どうせなら地区で一番になりたい。
そんな欲が出てきました。
当然、練習にもそれまで以上に力が入ります。
最後なんだから後悔したくない。
まだできる。
もっとやらないと。
そんな感じだったんでしょうね。
今なら、
「ちょっと肩の力抜きや」
と言いたくなります。
でも18歳の私は、そんなことを聞くタイプではありません(笑)
「大丈夫ですから!」が、どう見ても大丈夫じゃなかった
過ぎたるは猶及ばざるが如し、と言います。
何事も、やりすぎればいいというものではありません。
ある日の練習中。
チームメイトと接触した瞬間、膝に強烈な痛みが走りました。
立とうとしても、立てない。
膝がどうなっているのか確認する余裕すらなく、脂汗だけがどんどん出てくる。
顧問やマネージャーが駆け寄ってきました。
そんな状況で、私の口からとっさに出たのが、
「大丈夫ですから!」
でした。
いや、どう見ても大丈夫じゃない(笑)
立ち上がることすらできず、床にうずくまって脂汗を流している人間が、
「大丈夫です」と言ったところで、説得力はゼロです。
それでも、たぶん認めたくなかったんですよね。
ここで怪我をしたら、試合に出られないかもしれない。
だから「大丈夫」と言っておけば、本当に大丈夫になるような気がしていたのかもしれません。
そのまま私は保健室へ運ばれました。
養護教諭の先生が膝の状態を確認すると、すぐに声を上げました。
「すぐに救急車を!」
そのあたりから、記憶がかなり曖昧です。
痛みが強すぎて、意識もぼんやりしていました。
目を開けたら、知らない天井だった
次に覚えているのは、白い天井です。
目を開けた瞬間、「あれ、学校で寝てもうた?」
くらいに思った気がします。
でも、よく見ると見慣れた保健室ではありません。
そこは地域の総合病院でした。
検査を受け、告げられたのは、半月板断裂。
そんな診断名より、私が知りたかったのはひとつだけでした。
「試合には?」
今思えば、もう答えはなんとなくわかっていたんだと思います。
それでも聞かずにはいられなかった。
返ってきたのは、
「2〜3カ月は絶対安静。
というか、数週間はまともに歩けないと思うよ(笑)」
という言葉でした。
たぶん先生としては、深刻になりすぎないように言ってくれたんでしょう。
でも私の耳に入ったのは、
「試合には出られない」
という部分だけでした。
その瞬間、6年間続けてきた私のバスケ人生は終わりました。
引退試合を終えたわけでもありません。
最後の笛をコートで聞いたわけでもない。
気づいたら、終わっていました。
本気で「留年できないかな」と考えた
そこから2カ月くらいのことは、あまり覚えていません。
それくらい、何もする気になれなかったんだと思います。
人生を賭けるくらいの気持ちで挑もうとしていた試合に、出ることすらできない。
チームはまだ戦っているのに、自分だけが突然そこから切り離されたような感覚でした。
本気で留年することまで考えました。
もう一度、高校3年生をやればいいんじゃないか。
そうすれば、もう一回バスケができるんじゃないか。
今考えると、なかなか無茶な発想です(笑)
しかも皮肉なことに、高校3年生の私はかなり真面目に授業へ出ていました。
バスケに集中したかったので、補習なんかで練習時間を削られたくなかったんです。
そのおかげで卒業に必要なものは、きっちりそろっていました。
留年したくても、する理由がない。
じゃあ進学するかといえば、家庭の事情もあって、そんな金銭的な余裕はありませんでした。
結局、私に残されたのは、
そのまま卒業するという道だけでした。
誰もいない体育館で寝転がった
退院してから、一度学校へ行きました。
卒業を控えた3年生は、ほとんど登校していません。
なんとなく、いつもの体育館へ向かいました。
扉を開けると、中には誰もいませんでした。
下級生たちはランニングにでも出ていたんだと思います。
3年間、何度も走った体育館。
何度も怒られて、
何度も笑って、
何度もボールを追いかけた場所です。
私は体育館の床に、そのままゴロンと寝転がりました。
すると、いつも見ていたはずの天井が、やけに高く見えたんですよね。
あのとき何を考えていたのかは、もうほとんど覚えていません。
ただ、
「ああ、終わったんやな」という感覚だけは残っています。
バスケ部を辞めたわけではない。
自分で引退を決めたわけでもない。
なのに、自分のいないところで全部が終わっていく。
それが、ものすごく寂しかったんだと思います。
「何も成し遂げられなかった」が残った
それから間もなく、卒業式を迎え、私も無事、高校を卒業しました。
でも、気持ちは全然前へ進んでいませんでした。
胸の中に残っていたのは、
「私は何も成し遂げられなかった」
という、なんとも言えない虚無感です。
もちろん、そんなことはないんです。
6年間バスケを続けた。
高校ではチームの一員として練習してきた。
それだけでも、今の私なら十分やったと言えます。
チームも最終的にはベスト4まで進みました。
すごい結果です。
私が試合に出ていたとしても、結果そのものは変わらなかったかもしれません。
でも、当時の私はそんなふうに考えられませんでした。
私はコートに立っていない。
最後の試合を見てもいない。
試合が終わった瞬間の音も、空気も知らない。
あとからメンバーに、
「負けたよ」と結果を聞いただけです。
自分の青春だったはずなのに、最後のページだけ誰かに破られたような感覚でした。
もちろん、誰かが悪いわけではありません。
チームメイトが悪いわけでもない。
顧問が悪いわけでもない。
怪我をしたのは、不運もあったし、自分の不注意もあったのでしょう。
誰かを責めたところで、何も変わりません。
それは頭ではわかっていました。
ただ、
知らないあいだに終わってしまった青春を、どう処理すればいいのかわからなかった。
何かひとつ、自分の手で終わらせたかったんだと思います。
「そうだ、日本一周しよう」
そんなある日。
どういう思考回路だったのかは、今となってはよくわかりません。
突然、思いました。
「そうだ、日本一周しよう」
京都へ行こう、くらいのテンションで、日本一周です(笑)
でも当時の私の中では、妙にしっくりきました。
日本一周ができれば、何かひとつ成し遂げられる。
バスケでは最後までやり切れなかったけれど、今度は自分で始めて、自分で最後まで行ける。
そうすれば、このモヤモヤにも区切りがつくんじゃないか。
そんなことを考えていました。
思い立ったが吉日です。
すぐに近所のアルバイトへ申し込みました。
始まったのは、居酒屋とコンビニの掛け持ち生活。
朝から晩まで働きました。
目的はひとつ。
日本一周の軍資金をつくること。
1カ月ほど必死に働いて、貯まったお金は10万円でした。
日本一周、10万円。
どう考えても心もとない(笑)
さすがの私でも、
「これで日本一周は無理なんちゃうか」
くらいはわかっていました。
でも、
とりあえず出よう。あとは何とかなるやろう。
それくらいの気持ちでした。
というより、深く考えるのが怖かったのかもしれません。
せっかく見つけた「次にやること」を、現実的に考えすぎて手放したくなかった。
止まってしまったら、また何もない自分に戻ってしまいそうだったんですよね。
兄には「毎月、生存報告します」と約束した
旅に出ることを、家族のなかでは比較的仲のよかった兄に伝えました。
当然、
「日本一周してくるわ」
だけで、
「はい、いってらっしゃい」
とはなりません(笑)
いろいろ話した結果、
毎月きちんと生存報告をすること。
それを約束して、どうにか旅へ出ることを認めてもらいました。
あとから聞いた話では、兄は、
「どうせすぐ音を上げて帰ってくるやろう」
と思っていたそうです。
だから、下手に止めるより好きにさせよう、と。
今考えると、かなり正しい判断だった気もします(笑)
バッグに入れた「お守り」は、ニコラ・テスラ
旅の準備は、驚くほど雑でした。
足りないものは現地で買えばいい。
そんな考えで、
最低限の衣類。
日用品。
日本地図。
それくらいをバッグに詰めました。
今ならスマホひとつあれば、地図も宿も交通手段も調べられます。
でも当時は、そんなものはありません。
頼れるのは紙の地図と、自分の勘です。
そして、もうひとつ。
絶対に持っていこうと決めていたものがありました。
ニコラ・テスラの伝記です。
ニコラ・テスラは、交流電流の普及などに大きく関わった発明家・電気技術者です。
電気や無線、モーターなどの研究を行い、当時としてはかなり先を行く発想を持っていた人物として知られています。
ちょっと変わった人として語られることもあります。
でも、その発想の大きさと、とことん考え抜く姿勢に、私は子どものころから惹かれていました。
私がテスラを知ったのは、小学校の図書室です。
当時の私は、伝記にはまっていました。
ある日、名前を聞いたことのあったトーマス・エジソンの伝記を読んでいると、途中のページに一人の男性の写真が載っていました。
エジソンのライバルとして紹介されていた人物。
それが、ニコラ・テスラでした。

写真を見た瞬間、なぜか目が離せなくなりました。
すべてを見通しているような、澄んだ瞳。
子どもの私は、その顔に完全に心をつかまれました。
そこからテスラについて調べるようになり、いつしか勝手に「師」と仰ぐようになります(笑)
このあたりの話を始めると長くなるので、それはまた別の機会に。
ただ、私にとってテスラは、単に好きな歴史上の人物ではありませんでした。
機能不全の家庭で育った私にとって、
「この人の言葉なら信じられる」
と思える、数少ない大人の存在でもあったんです。
本を読みながら、
「テスラなら、どう考えるだろう」
と考える。
何か迷うことがあると、勝手にテスラの思考を想像してみる。
そんなことが癖になっていました。
だから、自分にとっては途方もなく大きな挑戦だった日本一周にも、テスラを連れていきたかった。
お守りみたいなものです。
いや、
「ちょっと見守っといてな」
のほうが近かったのかもしれません(笑)
目的地は、とりあえず「敦賀」
準備ができたら、もう止まりませんでした。
鉄は熱いうちに打て、と言います。
とにかく出発です。
まず向かったのは、地元の山科駅。
でも、ここで早くも問題が出ます。
日本一周すると決めたものの、最初にどこへ行くのかを決めていませんでした。我ながら、ひどい計画性です(笑)
なんとなく北へ行きたい。
駅で路線図を見ながら、
「山科から行ける、できるだけ遠いところはどこやろう」と考えました。
そこで目に入ったのが、
「敦賀」でした。
敦賀に何があるのか。
知りません。
何を見るのか。
決めていません。
泊まる場所も、おそらく決めていませんでした。
それでも、
「とりあえず、ここや」
と思いました。
今のように、スマホを取り出して、
「敦賀 観光」
と検索することもできません。
でも、その不便ささえ、当時の私にはどうでもよかったんですよね。
大事なのは、どこへ行くかではなく、
今いる場所から動くこと。
そこに行けば、何かが変わる。
あのころの私は、本気でそう信じていました。
10万円。
日本地図。
最低限の荷物。
そして、ニコラ・テスラの伝記。
それだけを持って、
私は敦賀へ向かう電車に飛び乗りました。
18歳の、日本一周未遂の旅が始まりました。
第1回は、ここまで
今回は、私が日本一周を目指すことになった経緯から、最初の電車に乗るところまでを書きました。
改めて振り返ってみると、計画性なんてほとんどありません(笑)
でも、当時の私には、それくらいの勢いが必要だったんだと思います。
バスケが終わってから、ずっと同じ場所で止まっていた。
何をしたいのかもわからない。
これからどうすればいいのかもわからない。
そんな自分を、とにかく今いる場所から動かしたかった。
そのために選んだのが、たまたま日本一周でした。
ここから敦賀へ向かい、その先でもいろいろな場所へ行くことになります。
もちろん、最初に書いたとおり、日本一周は達成できません(笑)
どこまで行ったのか。
旅先で何があったのか。
そして、なぜ途中で終わったのか。
記憶をひとつずつ掘り起こしながら、この先も書いていこうと思います。
よければ、18歳の私の無計画な旅に、もう少しだけお付き合いください。
※不定期のため次回がいつになるかは未定です。
