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ねちねちと「てにをは」を直す

WEB制作という職業病なのか、それとも生まれつきの性分なのか、自分でもはっきりとはわからない。ただ、文章であれデザインであれ、なにかを見たり読んだりするとき、自分はどうも表現の仕方そのものにばかり気を取られてしまい、肝心の中身が頭に残らないということが、思いのほか多い。

たとえば、小説を読むときもそうだ。本来、小説なんてものは好きなように読んで、好きなように感じ取ればいい。それなのに、気づけば文の運びや構成のほうにばかり意識が向いてしまう。

銀河鉄道の夜。夜空に、蠍の火が燃えている。イタチに追われ、井戸に落ちたその時、蠍はこれまでの自分の罪を悔い、自分の肉を神に捧げて、せめて他の生き物のためになろうと祈った。その祈りが、赤く燃える火となって、今も夜空に残り続けている。かおる子はその火を見上げながら、「やけて死んださそりの火」の話を始める。ジョバンニたちは、何も言わずにそれを聞いている。

主人公ジョバンニが「本当の幸い」について考えるきっかけとなった大切な場面だ。

私はといえば、美しい描写にばかり気を取られ、賢治の言わんとすることを飲み込みもせず、比喩だ、言い回しだ、修辞だと騒ぎ立ててばかりいる。まさに木を見て森を見ず、そんなものは単なる下衆の勘繰りでしかない。

絵画についても同じことが言える。美術館に足を運んでも、目が行くのはやはり構図ばかりだ。

この人物と背景の建物との配置が黄金比に沿っているから、見ていて心地よく感じるのかと考えてしまい、作品そのものが伝えようとしているメッセージからはずいぶん離れたところで一人納得している。そうしてひとしきり感心したあとになって、肝心な絵の内容そのものは、ほとんど記憶に残っていないことに気づく。

そして、美術館を出た後、いったいなにを見たのか覚えておらず、愕然とする。

まさに、葛飾北斎の冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」の浮世絵がそう。新千円札の裏面デザインにも採用されている、この有名な一枚は、ゴッホにも多大な影響を与えたと言われている。美大で専門的にデザインの技法を学んでいるのでもなければ、構図がどうのという話は本来どうでもよく、あの波の描写に宿る純粋な迫力を見て、「すごい絵だな」と素直に感じられれば十分なはずだ。

それなのに、一番上の波の部分と右端に流れる潮の配置が黄金比に沿っているから、だから見ていて気持ちがいいのかと、絵そのものとは別のところで一人感動している自分がいる。

歌だってそうだ。好きな歌がある。渡辺美里の「青空」。作曲は小室哲哉。小室哲哉の楽曲には名曲が数あれど、これほど言葉の切っ先が鋭い歌を、私は他に知らない。

「情熱もただの微熱さ あなたがいなければ」

情熱とは、自分ひとりの内側にあるものではない。誰かという鏡に映して、初めて燃え上がる炎だ。鏡がなければ、炎は自分の輪郭さえ見えない。「情熱」という激しい言葉を用意しておきながら、それを「微熱」というささやかな体温にまで落とし込み、対比の中にすべてを凝縮してみせた。

そこにこの曲の凄みがある。だが私はいつも、その凄みだけを取り出して、標本箱にピンで留めるようにして眺めている。歌というものは、本来、体温そのものであるはず、誰かを想って、知らず知らずのうちに上がってしまう、あの微熱そのものであるはずだ。それを、なぜ私は「凄み」などという言葉に変えて、額縁に入れてしまうのか。

そんなふうに、歌詞そのものを味わうよりも先に、比較検討の材料として、外側から、まるで他人事のように眺めている。

本来ならば、荘厳な小室メロディーと、渡辺美里の空まで突き抜けるほどの伸びやかな美しい歌声、そしてどこか遠い過去を懐かしむような情景さえあれば、それでいい。対比の技巧など、必要ない。

なのに、知らず知らずのうちに求めてしまうのは、設計の「上手さ」ばかりだ。

この「上手い描写」という感覚は、自分で文章を書くときにも、常につきまとってくる呪縛でもある。ある種の強迫観念と言ってもよく、些末な「てにをは」の使い方や、比喩、言い回しばかりが病的なほど気になってしまい、実際は何度も何度も書き直している。

裏を返せば、YouTubeで「緊急で動画を回しています」と大仰に切り出しておきながら、中身には緊急性のかけらもなく、大したことなど何ひとつ語られていない、あの手のクソ動画と同じで、なにも大したことが書かれていない私のnoteも、読む価値のない、腐れ記事の集合体だと言える。

なんだ、職業病でもなんでもなかった。考えて損した。

追伸、あの~葉月さん、これどうすればいいんでしょうか?

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