グラコロの湯気と、あの冬の彼女
グラコロが今年もまた発売された。あの匂いに触れると、昭和の冬がよみがえる。
当時、マルクスに傾倒していた私はバイトと学生運動に明け暮れ、冬の冷たい空気を溶かすほど熱くなっていたのは、いつも私自身だった。キャンパスの片隅ではブントの影響を強く受けた先輩たちが難解な情勢分析を語り合い、その輪に混ざるたび、自分も歴史を変えられる、きっと世界は変えられると本気で信じていた。
昭和四十年代の初め、私の暮らす高田馬場の古アパートは畳がほころびて波打ち、冬になれば窓の隙間から忍び込む風がラジオより大きな音で鳴いた。そんな暮らしの中で、唯一の贅沢といえば、バイト代が入ると決まって買ったグラコロ。
一緒に暮らしていた彼女は何でもないことを嬉しそうに笑う人だった。紺のコートの袖口はすり切れ、寒さで頬が赤くなると、少し恥ずかしそうにうつむく。銭湯の帰り道、駅前で買った紙包みを大事そうに抱え、指先を赤くしながら「熱い、熱い」と笑う姿は、貧しさよりも先に季節の匂いを教えてくれた。
アパートに戻ると、壊れかけたストーブの前に並んで座る。部屋はいつまでも温まる気配もなく、薄い布団を畳んで即席のテーブル代わりにし、その上に二つのグラコロを置く。湯気が立つたび、部屋の寒さがほんの少し後ずさりしたように思えた。
彼女はいつも一口目で上唇をやけどした。「あっつ」と声を上げて笑い、その笑い声だけで、生きていける気がして、きっと幸せってこんなことをいうのだろうと感じた。どんなささやかな出来事にも光を見つける彼女のやさしさに私はいつも救われた。
本格的な冬の訪れを告げるのは、暦でも年の瀬の慌ただしさでもなく、彼女の手にあるMと書かれた紙袋から立ちのぼる湯気だった。二人の暮らしには分不相応なほど甘やかで、ラジオから流れる拓郎のメロディーとともに、その場にそぐわないホワイトソースの匂いが部屋を満たしていく。
ただ、時というのは容赦がない。いつしかすれ違いが生まれ、心にすきま風が吹きすさび、気がつけば二人は別々の季節を歩き、別々の未来を描いた。別れはひどく静かで、そよ風が通り抜けるようにしてあっけなく終わる。それでも、ちゃぶ台の上に置かれた短い手紙を目にした瞬間、こうなるのはわかっていたはずなのに涙があふれ、私は声をあげて泣いた。
あれからしばらくして、彼女から一度だけ便りが届いた。生まれ故郷の長野に戻り、りんご農家の男性の元へと嫁ぎ、子が生まれ、穏やかな家庭を築いているとあった。それはきっと、「もう忘れてください、さよなら」という、彼女なりのけじめの言葉だったのだろう。だからこそ、返事を出さずにおくのが私なりの誠意と思い、途中まで書いたハガキは破って捨てた。
今でも街にグラコロの旗が揺れると、彼女の指先の赤みや、熱さに驚いた声がよみがえる。記憶というものは都合よくまとわりつくもので、一度は消えたはずの湯気が、またどこからともなく立ちのぼり、胸の奥がぐっと締め付けられる。
グラコロが特別な食べものではなくなって久しい。決して裕福とはいえないが、子や孫にも恵まれ、グラコロを好きなときに買うぐらいの余裕ならできた。反米を叫び、日米安保に反対していたわたしたちの“ご馳走”が、よりによってアメリカ生まれのマクドナルドだったというのも滑稽で、今にして思えばとんだお笑い草だ。
しかしあの頃の私は、そんな矛盾に気づくことさえなかったほど若かった。すべての根拠がほとばしる情熱だけの、まるでままごとのような恋。
それでも、二人にとってグラコロは、何事にも代えがたい「冬の明かり」だったのは確かだ。彼女が笑うたびに揺れていた、あの小さな湯気の明かりが、今でも胸のどこかでこだまする。
試しに昭和の景色を思い浮かべながらグラコロの話を書いてみたものの、よくよく考えてみれば、グラコロが発売されたのは平成に入ってからだった。記憶のほうが勝手に設定を上書きしていたらしい。人間の思い出なんて得てしてそんなものだ。また、やっちまった。いつもこうだ。
そもそも私は昭和四十八年生まれで、安保闘争も安田講堂事件もリアルタイムでは知るはずもない。むしろそういうのは親の世代の話。だいたいマルクスもエンゲルスもよくわからない。学生運動なんてまっぴらごめんだ。

