星めぐりの郵便局と、透明な手紙④
【第4章】沈黙の泉と、透明な祈り
木立が途切れ、すり鉢状になった森の最深部にその「泉」はあった。
水面は恐ろしいほどに凪いでおり、巨大な一枚の黒曜石のように、天頂の星々を狂いなく映し出している。波紋ひとつないその絶対的な静寂は、耳鳴りがするほどの無音空間を作り出していた。 シグナルの足音が苔に吸い込まれ、呼吸の微かな震えさえもが、底知れぬ泉の底へと引きずり込まれていく。
深く冷たい地下水脈が放つ、澄み切った鉱物の匂いだけが、そこが現実の場所であることを辛うじて証明していた。
「着いたよ」
ヨハネが水際で立ち止まり、振り返った。 彼が胸に抱えていた手紙は、まるで長い旅の終わりを確信したかのように、これまでで最も強く、そして柔らかく発光していた。脈打つ光の鼓動が、暗い泉の周囲を青白く照らし出す。
「宛先は、誰なんだい?」 シグナルは尋ねようとしたが、声はひどく掠れて音にならなかった。ルカが音もなくシグナルの足元をすり抜け、水面をじっと見下ろす。
ヨハネは無言のまま、光る手紙を水面の上へとそっとかざした。
水鏡に反射した手紙の光が、滲んで消えかかっていたインクの染みを、下から逆光のように照らし出す。すると、かすれていた星座のようなシミが、水面の反射の中だけで、くっきりと確かな文字の輪郭を結び始めた。
そこに浮かび上がった名前を見て、シグナルの心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように収縮した。
宛名は、他でもない『シグナル』。 ——そしてその横には、彼が一番大切な人にどうしても言葉を伝えられず、ただ黙って霧のホームへ消える背中を見送るしかなかった「あの日」の日付が、微かに、しかし確かな筆跡で記されていたのだ。
シグナルは息を呑み、無意識に一歩後ずさりした。 右手親指の爪の端を、左手の親指の腹で強く、皮膚が擦り切れるほどにこすった。
受け取ってはいけない。自分にはそれを受け取る資格がない。 自分はただ、宛先のない手紙を機械的に分類し、安全なカウンターの内側から世界を傍観しているだけの、空っぽの郵便局員でなくてはならないのだ。 この手紙に触れてしまえば、自分を守るために長年かけて築き上げた「沈黙」という名の氷の壁が、根底から崩れ落ちてしまう。
「僕は……」
シグナルが踵を返し、暗い森へ逃げ込もうとしたその時、ヨハネがまっすぐに彼を見て言った。
「言葉にできなかったからといって、想いが無かったことにはならないよ。君の沈黙もまた、あの人を想うゆえの、不器用で純粋な祈りだったんだから」
ルカが、シグナルの足首に青い尻尾をそっと巻き付けた。 「風はもう、君を責めていないよ、シグナル。もう、逃げなくてもいいんだ」
シグナルは、爪をこすっていた手をゆっくりとほどいた。 ひどく震える両手を前に伸ばし、ヨハネからその手紙を受け取る。
重い。 紙の質量などとうに超えた、途方もない時間がそこに詰まっていた。彼は深い息を吐き、ゆっくりと封を切り、中から折りたたまれた便箋を引き出した。
便箋を開いた瞬間だった。
そこに文字は一つも書かれていなかった。 代わりに、古い紙の隙間から堰を切ったように溢れ出したのは、純度の高い真昼の光と、遠い星々の瞬きを結晶化したような「透き通った音楽」だった。
それは精巧なオルゴールのようでもあり、春の雪解け水が岩肌を滑り落ちる音のようでもあった。
温かい光と音楽はシグナルの身体を包み込み、彼の内側に何層にもわたってこびりついていた冷たい泥を、極めて優しく洗い流していった。
『そのままでいい。あなたの不器用な優しさを、私は知っていたから』
文字を持たない声なき声が、光の粒子となって彼の細胞の隅々にまで浸透していく。 シグナルは目を閉じた。長年、分厚い氷の下で停止していた彼の内なる時計が、微かな音を立てて再び動き始めるのを感じた。
ぽつり、と。
水面に何かが落ちて、小さな波紋が広がった。それはシグナルの目から零れ落ちた、彼自身でさえ気づいていなかった涙だった。 波紋は手紙の光を乱反射させながら、暗かった泉の隅々へと、静かに、だが確かな温もりを持って広がっていった。
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