掌編「用意周到な友人」
今週の掌編です。毎週金曜日に新作をアップしています。
今回は、「受験生応援」がテーマです。
朝の空気は、いつもより少し冷たかった。
台所のテーブルに、母が詰めた弁当箱が置かれている。
「起きてる? そろそろご飯食べなさいよ」
母の声は、いつも通りだった。
その“いつも通り”が、今日はやけにありがたい。
悠真は「うん」とだけ返して、椅子に腰を下ろす。
食パンをかじりながら、受験票を取り出した。
受験票、鉛筆、消しゴム、時計。
順番に指で触れていく。
全部そろっている。
……はずなのに、胸の奥が落ち着かない。
昨日、塾の先生が言っていた。
「当日は気負いすぎるな。
普通に会場についたら、それだけで勝ちだ」
その“普通”が、今日はやけに遠く感じる。
母は弁当箱を差し出しながら、
「寒いから、カイロ入れといたからね」と言った。
それ以上は何も言わない。
“がんばれ”を口にしないのが、この家のやり方だ。
「行ってきます」
玄関でそう言うと、
母は台所から顔を出して、
「気をつけてね」とだけ返した。
ドアを閉めた瞬間、深く息を吸う。
胸の奥が、きゅっと縮む。
今日が共通テスト初日だという事実が、
ようやく身体に追いついてきた。
階段を降りながら、
「大丈夫、大丈夫」と小さくつぶやく。
言葉にしておかないと、
足が止まりそうだった。
駅のホームには、同じ方向に向かう受験生らしい人たちが並んでいた。
誰も喋らない。
手には参考書や単語帳。
冬の冷たい空気の中で、
ページをめくる音だけがやけに大きく聞こえる。
電車が来て、押し込まれるように乗り込んだ。
座れないのは分かっていたが、
立っているだけで心臓が落ち着かない。
周りを見ると、
みんな何かしら開いているように見える。
資料集。
単語帳。
マークシート用の鉛筆。
(……なんで、そんなに平気そうなんだよ)
悠真もカバンから参考書を出してみる。
ページを開いた瞬間、文字が目に滑った。
読んでいるはずなのに、
頭に何も残らない。
--普通に会場についたら、それで勝ち。
昨日の言葉を思い出す。
そう思おうとしても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
ふと、向かいの席に視線が止まる。
参考書を閉じたまま、窓の外を見ている人がいた。
イヤホンをした横顔が、やけに落ち着いて見える。
(……余裕かよ)
その静けさが、逆に重い。
悠真は無意識に背筋を伸ばした。
電車が揺れるたび、
手の中の参考書が小さく震える。
ページをめくる気にはなれず、
ただ、目的の駅を待っていた。
駅を出ると、同じ方向へ向かう受験生の流れができていた。
その中に、見慣れた後ろ姿がある。
(……あれ、陽斗?)
黒いダウンに、いつものリュック。
歩き方が、ほんの少しだけ跳ねている。
「おー、悠真。おはよ」
振り返った陽斗は、いつも通りの調子だった。
この空気の中で、その明るさは少し浮いている。
「緊張してる?」
「……まあな」
「だよな。俺も手汗やばい」
そう言いながら、リュックをガサゴソ探り、
のど飴の袋を二つ取り出す。
「レモンとハチミツ、どっちにする?」
「いや、今はいらね……てか、なんで二つあるんだよ」
「気分で変えるんだよ」
「変えるなよ……」
そのやり取りだけで、
胸の奥の固さが少し緩んだ。
校舎に入り、受験票を見せて教室へ向かう。
貼り出された座席表の前で、陽斗が声を上げる。
「あ、同じ教室じゃん」
「マジで?」
「ほら。お前の斜め前」
確かに、名前が近い。
それだけで、足取りが軽くなる。
教室には、すでに何人かが座っていた。
静かにページをめくる音。
二人も席に着き、机の上に受験票と筆記用具を並べる。
陽斗は落ち着かない手つきで、
今度はモバイルバッテリーを二個、机に置いた。
「……なんで二個?」
「片方がダメだったら困るだろ」
「そもそもモバイルバッテリーいらんだろ。」
小声のやり取りに、
前の席から小さな笑い声が聞こえた気がした。
試験官が入ってくる。
「これより地理の試験を始めます」
教室の空気が、一段階沈む。
問題冊子が配られ、裏返しで置かれる。
悠真は一度、息を吸った。
(……やるしかない)
開始の合図を、じっと待った。
地理の試験が終わった瞬間、
教室の空気がふっとほどけた。
椅子を引く音。
小さく伸びをする気配。
あちこちで、短い息が漏れる。
(……終わった)
悪くはない。
でも、良いとも言い切れない。
その曖昧さが、まだ胸の奥に残っている。
「おつかれー」
斜め前から、陽斗が振り返る。
いつもの調子だが、目の下に薄く影がある。
「どうだった?」
「まあ……普通」
「だよな。俺も普通」
その一言で、
お互いの不安はいったん脇に置かれる。
昼休みのアナウンスが流れ、
教室のあちこちで弁当箱のフタが開いた。
悠真もカバンから弁当を取り出す。
母が作ってくれた、いつものやつ。
卵焼きの黄色が、妙に目に残る。
(食べて、午後に備えよう)
そう思って、箸袋を探す。
……ない。
もう一度、探す。
……ない。
カバンの底。
教科書の下。
ポケット。
――ない。
(あ……)
一瞬、朝の台所が頭に浮かぶ。
急いでいた母の背中。
弁当箱を差し出す手。
(……ああ、たぶん、入れ忘れたな)
母が時々やるやつだ。
そして、自分も確認しなかった。
(今日に限って、か)
頭の中が、すっと白くなる。
「どうした?」
「……箸、ない」
「は?」
「箸。入ってなかった」
一拍おいて、
陽斗が腹を抱えて笑い出した。
「お前……今日それ来る?」
「いや、俺のせいじゃねぇし……!」
笑いながら、陽斗はリュックを探り、
箸を二膳、机に置く。
「ほら。念のため。こんなこともあろうかと」
「いや、普通ねーよ……助かったけど」
周りから、くすっと笑いが漏れる。
その音で、教室の空気が少し柔らぐ。
箸を受け取りながら、
胸の奥の張りが、すっと抜けた。
(……まあ、こういう日もある)
卵焼きを口に運ぶ。
その味が、
いつもより少しだけ、優しかった。
夕方の冷たい風が、試験会場の校門を抜けていく。
一日目の科目が終わり、受験生たちはそれぞれの方向へ散っていった。
悠真と陽斗も、駅へ向かって歩き出す。
「おつかれ」
「おつかれ」
言葉は短い。
でも、午前中より声が軽い。
「なあ」
陽斗が、ぽつりと言う。
「昼のさ。箸のやつ」
「……ああ」
思い出すと、少しだけ顔が熱くなる。
「お前、めっちゃ焦ってたよな」
「そりゃ焦るだろ。今日だぞ?」
「だよな。でもさ」
陽斗は前を向いたまま、少し笑った。
「俺、あれで逆に落ち着いたんだよ」
「は?」
思わず足を止める。
「共通テストの昼休みに箸忘れるやつ、普通いないじゃん」
「……言うな」
「いい意味でだって。
“ああ、いつも通りの悠真だな”って思ったんだよ」
肩をすくめる気配。
「緊張、ちょっと飛んだわ。ありがとな」
「……なんだよ、それ」
照れくさくて、前を向き直る。
しばらく、並んで歩く。
夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていた。
駅が近づいたところで、
陽斗が思い出したように言う。
「じゃあさ。明日も予備の箸、持ってくるわ」
「いらねーよ!」
即答だった。
「二日連続はさすがにない」
「今日の感じ見てると、分かんないぞ?」
「用意周到すぎだっての」
笑い声が、駅前に軽く響く。
改札が見えてくる。
悠真は、歩く速さを少しだけ上げた。
明日も試験は続く。
それでも、朝より足取りは軽かった。
明日、創作メモをアップします。
