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短編小説『名前を書く場所』

 毎週金曜日は新作短編をアップしています。
今週は、「#未来に向けた挑戦」をネタにしました。


 三月の終わり、娘の里桜が引っ越していった後の子供部屋は、驚くほど広かった。
 カーテンを外した窓から差し込む春の光が、フローリングに四角い空白を描いている。昨日までそこにあったベッドや机の跡が、まるで古い地層のようにうっすらと残っていた。
 三浦佐和は、掃除機の手を止めてその空白をじっと見つめる。

 この春、里桜は県外の大学へ進み、息子の陽太は無事に第一志望の高校へ滑り込んだ。
 十五年以上続いた、息つく暇もない「母親」としての役割が、ある日突然、休戦協定を結んだかのように静まり返った。

 重い荷物をようやく下ろせたという解放感のすぐ隣で、自分の一部をどこかに置き忘れてきたような、頼りない静寂が耳の奥に張り付いている。

 朝の風景が、劇的に変わった。「陽太、お弁当はどうする?今日から作れるけど」
 今朝、キッチンでそう問いかけた佐和に、制服のネクタイを歪に結んだ陽太は、スマホに目を落としたまま素っ気なく答えた。

「あー、いいわ。高校、学食美味いって評判だし。友達と食うから」
「……そう。じゃあ、購買のパン代、置いとくわね」

 かつては、二人分の色とりどりのおかずを詰め込み、隙間を埋めるためにちくわの磯辺揚げをねじ込んでいた、あの戦場のような朝。今、佐和の手元に残ったのは、自分一人のための、何の飾り気もないトーストが一枚だけだ。

 市立図書館のバックヤードでのパートは、週に三日。それ以外の時間に、今はまだ名前がついていなかった。

 掃除を終え、洗濯物を干し終えても、時計の針はまだ十時を指したばかりだ。
これまでは、この隙間に買い物へ走り、塾の面談資料に目を通し、散らかったリビングを片付けていた。けれど今は、片付けるべきゴミもなければ、急かされる予定もない。

 佐和は、ダイニングテーブルの椅子に深く腰を下ろした。淹れたてのコーヒーから立ち上る湯気の向こうに、所在なげな自分の両手が映る。

(私、これから何をするんだろう)

 不安がないわけではない。けれど、それ以上に、心臓の奥が小さく、トクトクと脈打つのを感じていた。それは、何十年も忘れていた「期待感」に似ていた。

 数日後の夕食後、リビングでノートパソコンを広げていた陽太が、
独り言のように声を上げた。

「あー、このスライドの構成、どうしよ。地域の偉人紹介なんて、誰がやっても同じ内容になっちゃうんだよな」

 陽太の通う高校では、探究学習の最終課題としてプレゼンソフトを使った発表が義務付けられていた。佐和が横から画面を覗き込むと、そこには洗練されたテンプレートと、見覚えのある名前が並んでいた。

「『郷土の誇り・女子教育の先駆者、高科ゆきの』……?」

 佐和の指先が、わずかに震えた。
 陽太はマウスをカチカチと動かし、市役所の公式ホームページから文章を次々とコピー&ペーストしていく。

「そう。この人、今の学校の基礎を作った人でしょ? 夫を支えながら、私財を投じて貧しい子供を救った『聖母』みたいな人だって。資料も写真も揃ってるし、これでスライド作れば安泰だわ。楽勝すぎ」

 陽太の画面の中では、ゆきのの生涯が、整然とした箇条書きとパステルカラーの図解に収められていた。 「慈愛」「献身」「内助の功」。
 現代風に美しく加工された「聖人・高科ゆきの」が、そこにはいた。

「……違うわ」
 そう言ってから、佐和は自分で驚いた。
「え?」
 陽太が怪訝そうに顔を上げる。

「慈愛とか、内助の功とか。そんな、ふんわりした言葉で語れるような人じゃないのよ、彼女は。本当はもっと……」

 激しくて、孤独で、けれど誰よりも自由だった。

 二十年前、佐和が古い史料の山をかき分け、埃にまみれながら見つけ出した「本物のゆきの」が、記憶の中で今の佐和を真っ直ぐに見つめ返した。
「本当はって、何? ネットにはこう書いてあるし、市の資料なんだから間違いないでしょ」
 陽太が画面を指差す。
「……ちょっと待ってて」
 佐和はそれだけ言い残して、リビングを後にした。

 廊下のクローゼットの奥、積み上げられた古いアルバムの下から、ずしりと重い段ボール箱を引き出す。ガムテープを剥がすと、閉じ込められていた古い紙の匂いが鼻をついた。

 中から取り出したのは、大学のロゴが入った、厚手のフラットファイルに綴じられた書類の束だ。  佐和はそれを抱え、リビングへと戻った。

 ダイニングテーブルの上に置かれたその「塊」を見て、陽太が目を丸くする。
「え、何これ。お母さんの?」
「お母さんの大学の卒業論文。……陽太、あなたが今見ているそのホームページの元になった資料を、たぶん私は全部読んでる」

 佐和がファイルを開くと、そこにはワープロソフトで打たれた、今より少しだけ行間の詰まった文字がぎっしりと並んでいた。

 ページの一部には、手書きで書き込まれた注釈や、当時の地元の図書館でコピーしたであろう、端の欠けた古い書簡の写真が何枚も挟み込まれている。

「ここを見て。ゆきのが夫と並んで映っているこの写真。
市のサイトでは『夫婦で歩んだ教育の道』なんて説明されているけど、
この時の彼女の日記を読み解けば、全く逆の意味になる。

彼女、この時もう、夫に内緒で私塾の権利を自分の名義に移してるのよ。
追い出される覚悟でね」

 陽太が覗き込んだ。画面の中の綺麗なスライドと、
目の前にある、修正液の跡が残る泥臭い研究の記録。

「お母さん、これ、マジで全部自分で調べたの?この、昔の字みたいなやつも?」        陽太が、コピーされた崩し字の書簡を指差して、呆然と呟く。

「そうよ。高科ゆきのに関しては、今でも私がおそらく日本で一番詳しいわ。何かあったら何でも聞いて」

 佐和はファイルをめくる手を止め、少しだけ胸を張った。

 久しぶりに、自分が「誰かの母親」ではない場所に、
足先だけが触れたような感覚がした。

 しかし、再び陽太の画面に目を向けると、
そこには相変わらず「聖母」としてのゆきのの笑顔が踊っていた。
 佐和は溜息をつき、自信を持ってファイルを陽太の方へ押し出した。

「その課題、お母さんのこの論文をベースにして書いてもいいわよ。一次史料に基づいた、どこよりも正確な発表になるはずだから」

 陽太は、テーブルに置かれた分厚いファイルと母の顔を交互に見た。少し迷うような間があってから、控えめに首を振る。

「……それは、ちょっと難しいと思う」

「どうして?」

「これ、お母さんの卒論だよね。内容が悪いとかじゃなくて
……今だと、ソースとしては弱い」

 佐和は何も言わず、陽太の言葉を待った。

「二十年以上前の学生の論文って、今の基準だと、どうしても個人の記録になる。公的なサイトとか、最近の研究のほうが、『正しい情報』として扱われるんだ。学校の発表でも、そこは見られるから」

 言い終えてから、陽太は少し気まずそうに視線を落とした。

 ソースが、弱い。

 その言葉は、佐和の中で静かに留まった。
 否定する気にはなれなかった。陽太の言っていることは、
今の世界のルールとして、確かに正しい。

「……そうね」

 短く答え、佐和はファイルに視線を落とした。
 行間の詰まった文字。修正の跡。若いころの、自分の書き癖。

 途中で、終わっている。

「今のままでは、弱い」

 それは落胆でも、怒りでもなかった。
 ただ、事実をそのまま受け取っただけだった。

 しばらくして、佐和は小さく息を吐いた。

「だから……書き直す」

 声は低く、淡々としていた。

「今の研究も、当時の論文も、全部含めて。途中で終わらせない形にする」

 調べるだけなら、確かに個人の関心で終わる。
 集めて、理解して、それで満足することもできる。

 けれど、そうでは足りない。

 一本の論文としてまとめ、外に出す。
 評価される場所に置く。

 それを経て初めて、自分は「やった」と言える。

 楽しいだけでは済まないことも、時間がかかることも、結果が伴わない可能性も、すべて承知している。
 それでも、そうしないという選択肢は、もうなかった。

 佐和の胸の奥に、澄んだ感覚が広がっていく。

(……やっぱり、これなんだ)

 研究とは、いつもそうだった。
 自由で、孤独で、最後は自分の名前で引き受けるもの。

 陽太は何か言いかけて、結局、口を閉じた。
 佐和はファイルを抱えたまま、静かに立ち上がる。

 視線の先にあったのは、
 これからもう一度、自分が立つことになる場所だった。

「陽太。宿題は、あなたが納得できる形でやりなさい」

 それだけ言って、佐和は視線を画面に戻した。

「お母さんは……自分のことをやるから」

 言葉にしてみると、不思議なほど落ち着いていた。

 ファイルを机の端に置き、ノートパソコンを開く。
 新しい文書の画面が立ち上がり、白い余白が広がった。

「今年中に一本、論文を書くわ」

 それは宣言というより、予定の確認だった。

 これまでは「母親」であることが、生活の中心だった。
 それが終わったわけではない。
 ただ、もう一つ、引き受けられる場所が戻ってきただけだ。

「……本気なの?」

 陽太は戸惑いを隠さずに言った。

「今さら、そんな大変なことをしなくても……」

 佐和は、少しだけ考えてから、首を振った。

「今さら、じゃないのよ」

 穏やかな声だった。

「今だから、できる」

 それだけ言って、キーボードに指を置いた。

 軽く叩いたキーの音が、部屋に響く。
 それは、かつて何度も聞いた音だった。

 若いころと同じ姿勢で、同じ距離感で、
 もう一度、言葉に向かう。

 どこへ行き着くかは、まだ分からない。
 評価されるかどうかも、分からない。

 それでも、途中でやめないと決めた。

 白い画面の上で、最初の一行がゆっくりと形を取る。

 三浦佐和は、
 その名前を書くことを、もうためらわなかった。

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