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掌編「かわいい工学部」

※この作品はフィクションです。
 既存の大学と似ているところもありますが、フィクションです。


 N女子大学のキャンパスには、鹿がいる。
それはもう見慣れた光景だけれど、入学したばかりの春は、まだ毎朝のように立ち止まって写真を撮っていた。
そのたびに、兄に送るメッセージの文面を何度も直しては消した。
「大学、楽しいよ」と書くには、まだ少し気恥ずかしかった。

 兄の湊は、K大学工学部の三年生。
小学生のころから、自由研究でロボットを作ったり、回路図をノートに描いたりしていた。
 わたしが理系を選んだのは、きっとその影響だ。
でも現実は甘くなくて、K大なんて夢のまた夢。
成績的にちょうど良かったN女子大に進学した。

 女子だけの工学部。
初めてキャンパスに来た日、掲示板に貼られた「人を笑顔にする設計を」のスローガンがまぶしかった。
 湊の大学とは、空気がまるで違う気がした。
でも、入学してすぐにその“やさしさ”の裏にある難しさを知る。

 数学。特に線形代数。
ベクトルが平行なのか独立なのか、いつも頭がこんがらがる。
夜、自習室でつまずくと、スマホを開いて兄にメッセージを送る。
「また行列で詰んだ。助けて」
すると数分後、返ってくるのは短いテキスト。

『まず基底を確認しろ。写像のイメージを図で考えろ。』

 それだけ。
でも、その言葉の背後に、兄の声が聞こえる気がして少し安心する。

 ――でも、わたし、本当にこの道に向いてるのかな。
窓の外、芝生の向こうを鹿が二頭並んで歩いていく。
K大にはない景色。
それを見ていると、少しだけ胸を張れる気がした。
難しい数式はわからなくても、やさしいものを作る力なら、きっとここで学べる。


 秋の学祭が近づいて、工学部の棟はどこもにぎやかだった。
廊下のあちこちで、はんだごての匂いと、マーカーのインクの匂いが混ざる。ポスターを描く班、プログラムを書き込む班、飾りつけのリボンを選んでいる班――。
 教室のドアを開けると、まるで雑貨屋のような光景が広がっていた。

 わたしたち一年生の展示テーマは「光る雑貨とミニガジェット展」。
といっても、難しいものは何ひとつない。
小さなLEDを埋め込んだしおり、音に反応して光るペンダント、
おばあちゃんでも組み立てられる簡単な回路のキット。
 机の上には、ピンクや水色の基板が並び、ラメ入りのコードが虹みたいに輝いていた。

 沙耶はその中心で、ポスターのデザインを仕上げていた。
手描きの丸文字で「かわいい工学部へようこそ」と書かれたタイトルの横に、ちょこんと鹿のイラストが添えられている。

「ね、これ絶対ウケると思わん?」
「うん、かわいい」
 そう答えると、沙耶は満足そうに笑った。
「“かわいい”って、大事やと思う。うちの先生も言ってたやん。
 “技術の先にあるのは笑顔”って」

 わたしは、机の上の小さな試作品を見つめた。
紙コップの内側に貼りつけた光センサーとLED。
音に反応して光るだけの、単純な花型ランプ。
「……でも、湊お兄ちゃんが見たら、笑うかも。こんなんで展示って」
「え、じゃあ見に来てもらおうよ!」
「えっ、いや、そういう意味じゃなくて!」
「いいじゃん。K大の人が見たらびっくりするって。“かわいい工学部”の本気、見せよう」

 沙耶はスマホを掲げてにやっと笑う。
「ねぇ、連絡してみなよ。“学祭くる?”って。
 紬ちゃんが頑張ってるとこ、ちゃんと見てもらお」
「……考えとく」
 口ではそう言いながら、胸の奥では、期待が小さく灯っていた。
もし兄がこの空間を見たら、何を思うんだろう。
 “かわいい”って言葉の向こうにあるものを、わかってくれるだろうか。


 学祭の日。N女子大の門の前には、やっぱり鹿がいた。
観光客のグループの間を、子鹿がのんびり横切っていく。
湊はその様子を見て、少しだけ笑った。
「……ほんとに、いるんだな」
「うん。この大学の顔みたいなもんだよ」
 わたしは照れくさく返した。兄がこの場所に立っているのが、まだ信じられなかった。

 中庭には模擬店や展示ブースが並び、風船と音楽でにぎやかだった。
 工学部のメイン展示はテントの下。
 “光る雑貨とミニガジェット展”の看板のまわりに人だかりができている。
リボンで飾られた机に、丸いスピーカーや光るペンダント、動くぬいぐるみ。

 沙耶が説明係をしていて、声を張り上げていた。
「このペンダントは、音に反応して色が変わります! “うるさくない可愛さ”を目指しました!」

 湊は腕を組み、しばらく見つめていた。
「……工作というより、デザイン展みたいだな」
 口調は穏やかだったけれど、眉の奥にわずかな戸惑いが見えた。
 でもその表情には、興味も混じっていた。
 「せっかくだから、奥も見る?」とわたしが声をかけると、うなずいた。

 ちょうどそのとき、説明を終えた沙耶が合流した。
「紬ちゃん、お兄さん来てくれたんだ!」
「うん、見て回ってるところ」
「じゃあ、私も行く!」
 そのまま三人で、奥の工作室へ向かった。

 建物の奥にある工作室は、メイン展示とはまるで雰囲気が違っていた。
ドアを開けた瞬間、はんだごての焦げた匂いと、ポスターカラーの絵の具の匂いが混ざり合う。
 壁には回路図とスケッチ。机の上には、色とりどりの試作品。
でも、そのひとつひとつに“かわいい”が宿っていた。

 ペットボトルをリメイクした加湿器。
 丸いボタンを押すと花びらが開く照明。
 音に合わせて光るペンダント、ふわふわのぬいぐるみ型スピーカー。
 どれも単純な構造なのに、見ているだけで楽しくなる。

「これ……全部、学生が作ったの?」
 湊の声がかすかに震えていた。
 沙耶がうなずく。
「そうですよ。班ごとじゃなくて、一人ずつ、自分で考えて。
 先生、最後に言ってたんです。“使う人の笑顔まで設計しなさい”って」
「笑顔まで……?」
 湊がその言葉を繰り返す。
 わたしは、兄の表情を横目でうかがった。
 いつもの理屈っぽい顔じゃなく、
 何かを見つけた子どものように、目の奥が少し明るくなっていた。

「こっちが紬ちゃんの展示です」
 沙耶が促す。
 わたしの机の上では、紙コップのランプが十個、音に合わせてゆらゆら光っている。
「おばあちゃんでも作れるようにしたくて。……かわいさも、ちょっと意識してみた」
 湊はひとつ手に取り、光を透かして見つめた。
「……悪くない。こういう光、俺たちの研究室じゃ出せないな」

 そうつぶやいて、少し考えるように視線を落とした。
「もしよかったらさ、今度K大にも来てみなよ」
「え?」
「うちの研究室は、こことは正反対。無機質で、音も色もない。
 でも、そういう場所を見ておくのも悪くない。
 たぶん――自分たちの強みが、もっとはっきりすると思う」
 その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
でも、兄の声がやさしかったので、それだけで少しうれしかった。

 窓の外、芝生の上を二頭の鹿がゆっくりと横切っていく。
その並んだ背中を見ながら、湊が小さく息をついた。
「……こっちは、のんびりしてるな」
「うん。授業の合間にもよく見かけるよ。
 ね、K大にはやっぱり、鹿いないでしょ?」
 湊は少し笑った。
「いないな。
 でも――こういう光景、嫌いじゃない」

 その声が、なぜか優しく響いた。
わたしは何も言わずにうなずく。
兄の目の奥で、何かが少しやわらいでいくのを感じた。


 帰りの電車は、観光客や学生で少し混んでいた。
窓の外を流れる街の灯りが、ガラスにぼんやり映っている。
湊はしばらく黙ったまま、スマホをいじるでもなく、景色を見ていた。
 ようやく口を開いたのは、この街を離れるころだった。

「……正直、驚いたよ」
「なにが?」
「今日の展示。技術的には、まだまだ拙い。
 でも、“かわいい”って発想そのものがすごい。
 あれ、K大では絶対に出てこない。男子ばっかりだと、ああいう方向にい  かないんだ」

 湊の声は、分析感心というより感心に近かった。
「工学って、効率とか性能ばかり見てるだろ。
 でも、今日見たのは“人を笑顔にする設計”だった。
 カルチャーショックだったよ。……いい意味でね」

 わたしは、少し照れくさく笑った。
「みんな、普通にやってるだけだよ。かわいいのが好きだから」
「そこなんだよ」
 湊が小さく笑った。
「その“普通にやってるだけ”が、たぶん強みなんだ。
 たとえ工学部女子が増えたとしても、男子が多い大学では、あんな空気は生まれない。
 女子大だからこそ、あの文化が根づく。
 ……今日、それがよくわかった」

 わたしは、手を膝の上でそっと握った。
湊がこんなふうに褒めてくれるのは、めずらしい。

「工学に女子が必要だって、今日初めて実感した。
 多様性って、言葉だけじゃなくて、
 ああやって“発想のかたち”として現れるもんなんだな」

 湊は言葉を切って、少し窓の外を見た。
電車の窓を流れる光が、横顔を照らしていた。

「ただ、もったいないのは、その環境が紬たちにとって“当たり前すぎる”ことだ。自分たちの強みを、強みとして意識できてない。
『かわいい工学部』って、鹿と同じくらい、貴重な存在なんだよ。
 他の大学を見れば、その価値がもっとわかると思う」

 わたしは静かにうなずいた。
鹿と同じくらい――その言葉が、胸の奥でやさしく響いた。
湊は少し照れたように笑って、続けた。
「デザインだけじゃなくて、勉強も頑張れよ。……あの感性に理論が追いついたら、きっと、誰にも真似できない仕事ができる」
「うん。……やってみる」

 兄は何か言いかけて、結局やめた。
代わりに、そっとあくびをかみ殺す。
その仕草を見て、わたしも笑った。

 車窓に映る自分の顔が、少し赤く見えた。
外の闇の向こうで、街の明かりがゆっくり遠ざかっていく。
兄の言葉が、静かに胸の中に灯っていた。

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