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『三十位の空』

 毎週金曜日は、掌編をアップしています。
今回は、ミラノコルティナのオリンピックに触発されたスポーツものです。


 ナイター照明が、斜面を昼のように白くしていた。

 その外側は、完全な夜だ。
一月の蔵王の山は黒く沈み、観客席のざわめきだけが浮かび上がっている。

 ゼッケンは、5。

 三十八人のうちの、五番目。

 高校二年の佐伯ひかりにとって、
 ワールドカップは、本来テレビの向こう側にあるはずの舞台だった。

 強い選手たちは、まだベンチで板を撫でている。
 私は先に、空へ放り出される。

 本当は、ここにいるはずじゃなかった。

 昨日の練習。
 一つ上の桐谷まどかが転倒した。

 担架に乗せられる前、桐谷は私を見て言った。

「ひかり、行ってこい」

 あれは命令だ。
 慰めじゃない。

 ヘルメットの内側で、息が白く曇る。
 助走路は氷の筋になって、闇へ吸い込まれていく。

 コーチが風を読む。
 旗は、まだ上がったまま。

 照明の光の粒が、空中で細かく揺れている。
 風は止まない。
 止まる必要もない。

 合うかどうか、それだけだ。

 旗が、ゆっくりと下がる。

 スタートバーが落ちる音が、やけに大きい。

 私は、膝を折る。

 踏み切り台は、すぐそこにある。

 ――いく。

 板が、闇へ滑り出した。

 ***

 ――その夜に至るまでのことを、少しだけ遡る。

 高校二年の冬。
 十二月の名寄は、乾いた寒さだった。

 ジャンプ台の下に並ぶ仮設テントは、どれも似たような色をしている。息を吐くたびに、白い煙がゴーグルの下をかすめた。

 一本目は、悪くなかった。

 飛距離は自己ベストに近い。着地も崩れていない。電光掲示板に出た順位は、暫定六位。

 悪くない。
 でも、足りない。

 一つ上の桐谷まどかは、その三人後に飛んだ。

 私より少しだけ長く、少しだけ高く。空中で板が静かに揃う。着地は、ほとんど音がしなかった。

 暫定四位。

 数字が入れ替わる瞬間を、私は板を抱えたまま見ていた。

「惜しいね」

 横から声がする。

 振り向くと、コーチが肩をすくめた。

「高さは出てる。踏み切り、ほんの少し早い」

 ほんの少し。

 それが埋まらない。

 桐谷が戻ってくる。ヘルメットを外しながら、私を見て笑った。

「今日、いいじゃん」

「そっちも」

「まあね」

 それだけの会話。

 でも順位は、いつも同じ並びになる。

 四位と六位。
 五位と七位。

 表彰台の一番下には、だいたい桐谷がいる。

 私は、その一段下だ。

 二本目の準備が始まる。
 風は少し変わった。

 助走路を見上げながら、私は板のエッジを軽く叩く。

 届きそうで、届かない。

 その距離を、私はまだ越えられない。

 呼び出しのアナウンスが流れる。

 二本目が始まる。

***

 スタート台に座ると、一本目よりも風がはっきり分かった。

 横からではない。
 正面からでもない。

 斜面の下から、ゆっくりと押し上げてくる。

 悪くない、と思う。

 旗が下がる。

 滑り出す。

 助走の振動は、いつもより静かだった。板が氷を削る音が、まっすぐ耳に届く。踏み切り台が迫る。

 踏む。

 浮き上がる瞬間、風が当たった。

 違う。

 当たったんじゃない。

 合った。

 板の角度を、ほんのわずかに開く。体が軽くなる。空気が、板の下に入り込む。沈まない。落ちない。斜面が遠ざかる。

 視界の端で、ラインがゆっくりと流れる。

 ――いける。

 肩の力が抜ける。顎を引きすぎない。腰を落としすぎない。

 空中が、長い。

 着地。
 雪を踏んだ感触が、柔らかい。

 テレマークが決まる。身体が前に流れず、止まる。

 歓声が上がる。

 掲示板に距離が出る。一本目より伸びている。ジャッジの点も高い。

 暫定一位。

 数字の横に、自分の名前がいちばん上に並ぶ。

佐伯ひかり。

 高校二年の名前が、いちばん上にある。

 板を外しながら、私はその表示を見た。

 あと、何人。

 考えない。

 どうせ、抜かれる。

 それでも、いまは一番上にいる。

 選手が一人、二人、飛ぶ。

 順位は動かない。

 ざわめきが、少し変わる。

 二人後。
 桐谷の番。

 助走の姿勢が、きれいだ。踏み切りの音が、私より軽い。

 空中で、板が静かに揃う。

 長い。

 着地も、乱れない。

 掲示板の数字が出る。

 総合で、わずかに上。

 私の名前が二番目に下がる。

 桐谷が戻ってくる。

「いい風、掴んだね」

 桐谷は、少しだけ息が荒かった。

「そっちも」

 私は笑う。

 届きそうで、届かない。

 それでも、今日は確かに掴んだ。

 風の形を、覚えている。

***

 名寄から数日後、連盟の公式サイトに代表メンバーが発表された。

 蔵王ワールドカップ。
 地元開催枠、四人。

 海外を転戦する本当の代表とは別に、国内成績をもとに選ばれる枠だ。

 桐谷まどかの名前が、その中にあった。

 私の名前は、その下。

 補欠一番手。

 分かっていた。

 総合でわずかに届かなかった差は、そのまま選考にも残る。

 悔しい、とは思った。

 でも、不思議と納得もしていた。

「行くだけ行く?」

 コーチはそう言った。

 補欠も、合宿から帯同する。
 何かあれば、すぐに入れるように。

 私はうなずいた。

 年が明けて、蔵王での事前合宿が始まった。

 山は深く雪に覆われている。

 蔵王は、特別だ。

 ジャンプ台はノーマルヒルしかない。
 男子のワールドカップは来ない。

 だからここは、女子の舞台だ。

 日本で初めて女子ワールドカップが開かれた場所。

 照明のついた斜面は、ずっとテレビの中にあった。

 表彰台の後ろに並ぶ樹氷。
 ナイターの白い光。
 世界のトップ選手が、同じ助走路を滑る。

 小学生のころ、録画を何度も見返した。

 あの斜面。
 あの踏み切り。
 あの空。

 そこに、自分が立つ可能性がある。

 補欠でも、いい。

 バスが山道を上っていく。
 窓の外は雪に覆われている。

 桐谷は隣の席で、黙って板のエッジを触っていた。

「夢の舞台だね」

 私が言うと、彼女は小さく笑った。

「まだ早いとか言うなよ」

「言わない」

 早いのは、分かっている。

 それでも、蔵王は別だ。

 世界に一歩だけ近づく場所。

 その斜面の下で、私は初めて
 本気で、あの空に触れたいと思った。

 蔵王の山は、静かだった。

 リフトの支柱が軋む音と、板を運ぶスタッフの足音だけが、雪の上に残る。ジャンプ台の斜面は昼間でも白く光り、ナイターの照明塔がその横に並んでいる。

 ノーマルヒルだけの台。

 大きなラージヒルはない。
 男子のワールドカップは来ない。

 だからここは、ジャンプ女子の聖地だ。
 その斜面の下に、自分が立っている。

 海外の選手たちは、思っていたよりも小柄だった。けれど板を履いた瞬間、空気が変わる。動きに迷いがない。助走姿勢が、もう違う。

 ウォームアップエリアの奥で、日本のレジェンドが静かにストレッチをしていた。

 葛城あかね。

 五輪の団体メダリスト。
 ひかりが小学生の頃から、ずっとテレビの中にいた人。

 誰かが声をかけると、軽く笑ってうなずく。
 派手さはない。けれど、立っているだけで空気が締まる。

 桐谷は、その横顔をじっと見ていた。

「同じ大会、だよ」

 ひかりが言うと、桐谷は短く笑った。

「分かってる」

 公式練習が始まる。

 一本目。
 海外勢の飛距離は、軽くヒルサイズを超える。踏み切りの鋭さが違う。空中で板が揺れない。着地まで一直線。

 日本の上位陣も安定している。

 ひかりは補欠用のビブを着たまま、スタート台の横でそれを見ていた。

 ここに立つのは、まだ遠い。

 二本目の公式練習。

 桐谷の番が来る。

 助走はいつも通り。踏み切りも悪くない。

  けれど空中で、ほんのわずかに板が揺れた。

 あ、と私は思った。

 着地の瞬間、スキーがずれた。

 エッジが噛まない。

 雪煙が横に流れる。

 転倒。

 一瞬、会場が静まる。

 どうしていいか分からず、それでも足が勝手に動いた。

 桐谷は起き上がろうとして、膝を押さえた。

 スタッフが駆け寄る。
 医療チームが呼ばれる。

 担架に乗せられる前、桐谷はひかりを見た。

 悔しさは、隠していなかった。

「行ってこい」

 名寄のときと同じ声。

 慰めでも、諦めでもない。

 命令だ。

 ナイター照明が点き始める。

 蔵王の斜面が、夜の中に浮かび上がる。

 ひかりは、自分の手の震えに気づいた。

 世界は、すぐそこまで来ている。

***

 蔵王の助走路が、闇の中に伸びている。

 照明に照らされた氷の筋は、まっすぐで、冷たい。

 ゼッケン5。

 まだ観客の歓声は大きくない。
 後ろには、世界の上位陣が並んでいる。

 旗が揺れる。

 膝を折る。

 踏み切り台が近づく。

 踏む。

 その瞬間、板の下に空気が入った。

 押し返されるのではない。
 持ち上げられる。

 板の角度が、自然に決まる。
 肩の力が抜ける。
 顎を上げすぎない。

――こんなジャンプ、したことがない。

 斜面が遠い。

 風が、下から支える。

 浮力が、逃げない。

 ――長い。

 あのときより、高い。
 怖さがない。

 ただ、静かだ。

 自分の体重が消えて、
 板と風だけがある。

 斜面が近づく。

 着地の位置が、見える。

 踏み込む。

 雪を捉える。

 テレマークが、きれいに入る。

 流れない。
 崩れない。

 歓声が、遅れて広がる。

 掲示板に距離が出る。

 ヒルサイズを、越えている。

 ジャッジの点が並ぶ。

 高い。

 暫定一位。

 名前が、いちばん上にある。

 私は板を外しながら、斜面を見上げた。

 まだ三十人以上が、後ろにいる。

 それでも。

 あの空中の一瞬だけは、
 誰にも抜かれない。

***

そのあと、上位陣は当然のように飛んだ。

 助走の姿勢が違う。踏み切りが鋭い。空中で板が揺れない。

 私の名前は、静かに下がっていく。

 二位。
 三位。
 十位。

 やがて二十位を過ぎる。

 歓声は、後半になるほど大きくなる。

 私は斜面を見上げたまま、掲示板を見ないようにしていた。

 最後の数人が飛び終わる。

 拍手がひときわ大きくなり、数字が確定する。

 三十位。

 いちばん下に、私の名前が残っていた。

 二回目に残った。世界の舞台で三十位。

 息が、ゆっくり抜ける。
 奇跡ではない。

 でも、背伸びでもない。
 あの一跳びが、残した位置だった。

 ナイターの光は、一本目よりも強く感じた。

 順位は三十位。
 最初に飛ぶ。

 さっきと同じ風ではない。

 踏み切りは悪くない。
 けれど浮き上がりが浅い。

 空中で板が、わずかに沈む。

 伸びない。

 着地は無難。

 歓声はあたたかい。

 掲示板の数字は、平凡だった。

 総合三十位。

 それで終わり。

 一本目の高さは、もう出ない。

 私は、まだ二本を揃えられない。

 板を片づけていると、足音が近づいた。

「いい一本だったね」

 顔を上げる。

 葛城あかねが立っていた。

 テレビの中よりも、ずっと小さく見える。

 でも目は、まっすぐだ。

「あの高さ、ちゃんと掴んでた」

 私は、何も言えない。

「二本目は、まあ、普通」

 少し笑う。

「でも、最初の一本は覚えておいたほうがいい。あの一本、忘れないで」

 彼女はそれだけ言って、スタッフに呼ばれていった。

 私はジャンプ台を見上げる。

 ナイター照明の向こうに、黒い空が広がっている。

 三十位。

 ワールドカップポイント、一点。

 たった一点。

 それでも、世界の記録に名前が残る。

 あの空中の一瞬は、本物だった。

 届いたかどうかは、分からない。

 でも確かに、触れた。


 以上です。
明日、創作メモをアップします。


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