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再開します

復活です。『庭から』に、主たる私が帰って参りました。本当は昨日更新したかったのですが、力尽きて今です。


2年半もの間ここを留守にしていたわけですが、さすがインターネットの庭は草ボーボーになることなどありません。かつてあったものが今も同じようにそこにあるだけです。いや、少しだけひんやりしていたかもしれませんが、そのくらいの温度の方が読み返すにはちょうど良いとさえ思いました。


なにもなかったかのようにまた始めれば良い。そう思わせるには十分な、変わり映えの無さでした。なので気の向くままに再開することにいたします。続けるかもしれませんし、続けないかもしれません。ほんのいっ時、どなたかの暇潰しになれば幸いです。


この庭を留守にしていたのは、私の日常的なアウトプットが『雑談の会』に重心を移したからです。始まりは2022年。『本番のない稽古』に参加してくださった俳優さんたちに声をかけ、ただ純粋に雑談を楽しむところから試行はスタートしました。その効用は存外大きく、何事にも真面目になることを強いてくるような当時の私を取り巻く空気を、撹拌し、風に乗って流れるように揺り動かしてくれました。やがてその効用を日々の実働に本格的に活かしたくなり、脚本アシスタントを募り、今も一緒に試行錯誤してくれている彼らアシスタントチームと、毎月のように雑談を繰り広げています。

アシスタントの皆さんに集まっていただいたのが2023年3月。『庭から』を離れたのが同年5月ですから、その頃が小さな節目であったことは間違いなさそうです。引っ越しもしたし。スタートから参加していたNHKのWDRプロジェクトが一区切りついたのも5月です。

そこからはまさに雑談に生かされた2年半でした。裏返せば、雑談に異様なほどのエネルギーを費やしてきた2年半だったとも言えます。今になってようやく気付いた次第ですが、つまり今が振り返る時なのだとも思います。よく喋ったよなあ。


私は書くことが苦手です。好きではあるが得意とは思わないという方が正確かもしれません。なのに書くことを生業の一部にしているもんですからちょっと大変なのです。書いている間は常にうっすらと、つらいなあ、やらないと怒られるなあ、うまくいかないだろうなあ、小さなパン屋を始めたいなあ、などと思っています。


どうすればこの辛さが薄まるのかということについては、ずっとずーーーっと考えてきました。そして至った対策が、いかに書く時間を短くするか、でした。

かつて、年中演劇をやっていた頃、やはり私は辛い辛いもう嫌だもう無理だと思いながら台本を書いていましたが、それでも一度も公演を飛ばすような失態を犯さなかったのは、書く時間と同じくらい稽古場にいる時間を過ごしていたからです。稽古をすることが、その後の執筆の支えになっていた。稽古する時間も打ち合わせをする時間も、全てが書くことと繋がっていて、私が書く前に、私の書くべきものが朧げに見えるところまで私を追い立ててくれました。得意でもないのに書けていたのは、仲間が待っている稽古場のお陰だったのです。

例えば一つの作品の完成に10の時間を要するとしたら、劇団では、執筆4:稽古場4:打ち合わせ2、という配分で動いていたように思います。しかし劇団の外に出れば、:稽古場4が無くなり、その時間が執筆と打ち合わせに流れ、執筆7:打ち合わせ3、というような配分になるのです。

ワシに死ねと言うとるのかと。ねえ。


私の理想は、執筆2:打ち合わせ2:その他6です。「その他」の中に、稽古や取材、作品鑑賞など、執筆に必要な様々な時間が含まれます。運動とかお出かけもね。そういったことでなるべく書くまでの時間を充実させ、いざ書く時には書きたくて書きたくて仕方がない、書かせてくれ!という状態にしていく。大半は眠っている“書き出したら早い私”を、意識的に発動させる作戦です。でも今の私には稽古場がない。どうしても執筆に時間を譲ってしまう。そこで生み出したのが、かつてはこの『庭から』であり、今は『雑談の会』というわけです。

でも、少し話すことに偏りすぎたかもしれないと思い始めました。

いつからそう思っているのかは定かではありません。話すことの有用性は間違いない。一方で、もう少し書く力を強めたい。そのための実践が必要なのではないかと感じていたのです。いっぱい書いてるんですけどね、脚本は。そういうのとは違う、もっと純粋な力と申しましょうか、私から出てくるものだけを書く。役に立たないものを書く力についてです。

それは有り体に言えば自分と向き合うということかもしれません。雑談は、情報交換であると同時に、自分の中にある感情や理論の言語化を進めてくれます。話しながらもよくよく相手のことや、話すテーマについて考えます。誰かと私の間で反射され、磨かれていくものがあります。一方、書くことは、少なくとも書いてどこかに掲示するまでは、自分しか反射させる相手がいません。それが、役に立たない文章であるならなおのことです。役に立たないからこそ価値がある。それは、自分にだってなにかしらの価値があるということかもしれません。もう少し自分を認めてやるべきだと、感じているとも言えそうです。

思えば最近の私は役に立ちそうなものを書きすぎたかもしれない。役に立つということは、誰かのためということでもあります。つまり、誰かのために書きすぎたとも言えます。悪いことではありませんが、意味のあることや役に立つことばかりで満足できるなら、そもそもこんな道を選んではいないとも思います。なくていいものに意味を見出せたからこの年まで生きてこられたのだから。


自分のためだけに書く。そういう時間を取り戻すところから動き出します。

実はその先に幾つかの壮大な夢があるのですが、それはまたいずれ。芸術家志望であることに変わりはありません。なるよたぶんね。3年、5年、10年先へと続く冒険の、今こそが始まりの時のような気がしています。


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