鉄には、五つの時計があった
沈黙の地層から聴こえる古代の声
弥生社会編 第2部・第2回
今回の現在地
時代:弥生時代中期から後期を中心に、鉄と交易のネットワークが列島各地へ広がっていった時期
場所:北部九州から北陸(小松市)、信濃、関東(神崎遺跡)まで。鉄と水の道でつながる列島各地
確かめること:鉄は、どんな速さで、どんな形で各地に根づいたのか(「鉄の五つの時計」)。そして、水田で見たムラ内部の調整から、鉄や玉、土器を運ぶ「水の道」によって、社会のつながりは地域と地域へどう広がったのか
第3章 鉄の時間地図
水田について調べたあと、私は鉄が気になった。木を切り、土を掘り、木材を加工し、武器を作る。石より鉄の方が便利なら、鉄をたくさん手に入れた地域ほど農業生産も高まり、人口も増え、強い社会になったのではないか。そう考えるのは自然だった。
ところが、列島の鉄器を調べ始めると、また話が簡単ではなくなった。北部九州では早くから鉄器が現れるが、すぐにすべての石器が鉄器へ置き換わったわけではない。北陸にも比較的早い段階から鉄が入る。一方、人口も大集落も多い近畿では、鉄器そのものの出土数が意外に少ない時期が長く続く。私はここで、「鉄が伝わった」という一つの言葉に、いくつもの違う出来事を押し込めていたことに気づいた。
鉄には、五つの時計がある
鉄について、五つの時間を分けて考えることにした。
鉄がその地域へ到着した時間
鉄素材を継続して手に入れられるようになった時間
鉄を加工し、修理し、作り直せるようになった時間
鉄器が日常の仕事へ広く入り込んだ時間
それまで使っていた石器が役割を終える時間
同じ「鉄器時代」と言っても、この五つは同時ではない。一本の鉄斧が持ち込まれたからといって、その地域が鉄器社会になったわけではない。次の鉄を継続的に入手できるのか、加工できる人がいるのか、どの仕事から鉄へ変わるのか。私はこれを、「鉄の五つの時計」と呼ぶことにした。
北部九州でも、鉄は一気には広がらなかった
鉄を考えるなら、やはり北部九州から始まる。朝鮮半島に近く、鉄素材や鉄製品を入手しやすい地域だった。しかし、ここでも鉄の普及は段階的だった。初期の鉄器が現れたあとも石製工具は長く使われ、鉄製の斧や小型の刃物などが広がっても、農作業の道具すべてがすぐ鉄になったわけではない。
これは私には意外だった。鉄があれば、まず農業に使うと思っていたからである。鉄が来ることと、農業が鉄器化することの間にも時間がある。一本目の時計と、四本目、五本目の時計は同じ時刻を指さない。
鉄が来ても、石器はすぐ消えなかった
さらに面白かったのが北陸だった。石川県小松市の八日市地方(ようかいちじかた)遺跡は、現在のJR小松駅周辺に広がる弥生時代中期の大規模な環濠集落である。玉作りや遠隔地との交流でも知られている。
ここでは鉄製工具が使われ始めても、石器がただちに姿を消したわけではない。「石器から鉄器へ」という教科書の一本の矢印では説明しにくい。人々は、石だから捨てた、鉄だから採用した、という単純な選択をしたのではなさそうだ。木を切る仕事にはこの道具、細かな加工にはこの道具、収穫にはこの道具と、道具は素材ごとではなく仕事ごとに再編された。鉄器時代とは、ある日を境に石器を全部捨てた時代ではなく、石、木、骨、鉄のそれぞれの素材が、仕事の中で役割を変えていく時代だった。
鉄が少なく見える近畿
そして、私は近畿で少し困った。大和には唐古・鍵のような巨大集落があり、大阪平野にも大きな農耕社会が成立している。ところが北部九州と比べると、弥生時代の鉄器そのものがあまり出てこない時期がある。
では、近畿は鉄を持っていなかったのか。そう簡単には言えない。鉄は腐食し、壊れれば再利用もできるため、発掘された鉄器の数をそのまま当時使われた鉄の量と考えることはできない。近畿では石器が姿を消す時期から鉄器普及を推定する研究もあれば、鉄器そのものや砥石、鍛冶関連遺物を重視すべきだという議論もある。
ここで、大事なブレーキを覚えた。鉄器がたくさん出る地域が、そのまま大きな社会だったとは限らない。逆も同じで、鉄器が少ない地域を「遅れた社会」と呼ぶこともできない。
鉄は、山を越えて東へも来ていた
鉄は西日本だけのものではなかった。関東にも鉄器は広がっていく。さらに内陸の信濃でも、驚くような鉄器が見つかっている。長野県北部、木島平村(きじまだいらむら)の根塚(ねづか)遺跡では、弥生後期の鉄剣が出土している。特殊な装飾を持つ鉄剣もあり、朝鮮半島南部との関係が論じられている。
海峡から遠く離れた、山に囲まれた信濃である。それでも海の向こうにつながる物が届いている。鉄は、ただ西から東へ少しずつ染み込むように広がったのではなく、海を渡り、川や谷を通り、峠を越え、人から人へ渡った。
鉄は、誰の手を通ったのだろう
鉄は列島では簡単に手に入らない貴重な素材だった。とくに弥生時代には、鉄素材を列島外に頼る時期が長い。そうであれば、誰でも自由に鉄を手に入れられたのだろうか。海の向こうから入った鉄を誰が受け取り、誰が内陸まで運び、どのムラへ渡すかを誰が決めたのか。加工する技術者はどこにいたのか。
鉄を見るだけでは答えは分からない。しかし分布を地図に置くと、物が動いた道と、その道をつないだ人々の存在が浮かぶ。鉄は、単なる便利な道具ではなく、人と地域の関係を映す痕跡になる。
五つの時計は、同じ時刻を指さなかった
改めて列島を眺めてみる。北部九州では鉄の入手が早い。北陸では鉄と石器が長く併用された。近畿では大きな農耕社会がありながら、鉄器そのものは見えにくい時期がある。東へも鉄は広がり、山に囲まれた信濃にも届く。そこには、「鉄を持っている社会」と「持っていない社会」という単純な二分はなかった。
鉄が到着し、継続して手に入り、加工でき、日常へ浸透し、石器が役割を終える。五つの時計は、どの地域でも同じ時刻を指してはいなかった。
そしてもう一つ、鉄を早く持った地域が、そのまま後の政治的中心になったわけでもない。鉄が比較的少なく見える近畿から、やがて大きな政治的動きが生まれてくる。なぜだろう。
鉄を自分で多く持つこととは別に、鉄を運ぶ人とつながる力、鉄を加工する人とつながる力、鉄を持つ別の地域と関係を結ぶ力も、社会の力だったのではないか。だとすれば、次に見るべきものは鉄そのものではない。鉄が通った道である。
第4章 水の道がつくったもう一つの社会
前章では、鉄の広がり方を追った。すると、鉄そのものよりも気になることが出てきた。鉄は、どうやって運ばれたのだろう。鉄だけではない。ヒスイや碧玉(へきぎょく、緑色の石材)も動き、土器も動き、土器の作り方や祭祀の形まで動いている。人も移動した。では、人と物は何を通って動いたのだろう。
地図を開く。海があり、川があり、湖がある。そして私は、簡単な答えを見つけたような気になった。「水の道だ」と。しかし調べていくと、これも簡単ではなかった。
地図の青い線には、気をつけなければならない
地図を眺めていると、つい時間を忘れる。この川を下れば海へ出る、こちらの谷を上れば峠があり、その向こうには別の川が流れている。「なるほど、ここを通ったのか」と思わず言いたくなる。
しかし、ここには罠がある。現在の川がつながっているからといって、二千年前に舟が同じように通れたとは限らない。川筋そのものが変化していることもある。だから、地形的につながることと、実際に交易路として使われたことは別である。
水の道を調べるときに必要なのは、地図の青い線だけではない。その道の両側から同じ特徴の土器が出るのか、遠方の石材が見つかるのか、鉄が動いているのか、人そのものが移動した痕跡があるのかという、物証を重ねなければならない。
水路と陸路を乗り継ぐ道
それでも、水は大量の物を運ぶには圧倒的に有利だったはずである。ただし、舟だけですべての目的地へ行けるわけではない。海から川へ入り、川を遡る。舟で進めなくなれば荷を下ろし、陸路を歩き、谷や峠を越える。別の水系へ出れば、再び舟を使うこともある。
つまり、私たちが「水の道」と呼んでいるものは、最初から最後まで水上を進む一本の航路ではない。水路と陸路を乗り継ぐ道でもあった。重要なのは、川の大きさだけではなく、海、川、湖、谷、峠を、どれだけつなぎやすかったかである。
日本海を動いた、緑色の石
このことを考えるとき、分かりやすいものがある。玉である。石川県小松市の八日市地方遺跡では、碧玉などを使った玉作りが盛んだった。さらに日本海を北東へ進んだ新潟県糸魚川周辺には、ヒスイの産地がある。
採る場所、運ぶ場所、加工する場所、使う場所。それぞれが同じとは限らない。一つの地域がすべてを抱え込む必要はなく、必要なものを持つ地域とつながっていればよい。前章で鉄を見ながら感じたことが、玉でも出てきた。
玉を古代の「貨幣」と呼びたくなる気持ちもあるが、貨幣のように共通の交換尺度として使われていたことを示す証拠はない。玉はむしろ、遠くまで運べ、希少性があり、人間関係や威信を表現できる価値の高い品物だった、と考える方がよさそうである。
海の石が、山の中へ入っていく
長野県北部、千曲川沿いの塩崎(しおざき)遺跡群では、ヒスイ製品やヒスイ原石、玉作りに関わる痕跡が確認されている。海辺の石が、内陸の信濃まで届いている。どの道を通ったのか、一つの経路だったのか、何度も人の手を渡ったのかまでは分からない。しかし、山は人と物の移動を止める壁ではなかった。川、谷、峠を組み合わせれば、山の中にも広い交流圏ができた。
土器は、人の移動も教える
さらに驚いた遺跡がある。神奈川県綾瀬市の神崎(かんざき)遺跡である。弥生時代後期の環濠集落で、出土土器の大半が愛知県東部から静岡県西部に特徴的な製作技法を持つ。これは単に東海地方の土器が運ばれてきたのではなく、東海地方から人々が集団で移住したことを示す重要な資料と評価されている。
交易を考えると、私は物ばかり見ていた。鉄が動き、玉が動き、土器が動く。しかし実際には、人が動いている。家族で移住した人、技術を持った人、婚姻によって別の地域へ入った人もいただろう。人が動けば、技術、習慣、祭祀、そして記憶も動く。水の道が運んだのは、品物だけではなかった。
大和盆地は、本当に内陸だったのか
ここで大和へ戻る。奈良盆地は海に面していない。地図だけを見ると、内陸の閉じた世界のようにも見える。
ところが、唐古・鍵遺跡では、岡山県東部や静岡県西部などから持ち込まれた土器が確認され、青銅器鋳造の痕跡もある。海がないから孤立していたのではなく、むしろ、いくつもの違う地域から到達できる内陸だった可能性がある。どの川を使い、どの峠を越えたかは個別に慎重に考えなければならないが、重要なのは海岸からの距離ではなく、水路と陸路をどれだけつなぎやすかったか、だったのではないだろうか。
物は、一方向には動かなかった
「進んだ西日本から、遅れた東日本へ文化が伝わった」という一本の矢印だけでも説明できない。水田稲作そのものは西から東へ広がり、鉄も大陸に近い西日本が早い。しかし、その後まで物と人が一方向にだけ動いたわけではない。
東海から南関東へ人が移り、北陸と信濃のあいだで石材や技術が動く。各地域は中央から新しい文化を受け取るだけの場所ではなく、自分たちが持つものを送り、別の地域から必要なものを受け取った。列島の交流は、一本の矢印ではなく、いくつもの往復する矢印でできていた。
水辺では、物に新しい価値が加わった
水の道の途中にある大きな集落を見ると、単なる「中継地」とも少し違う。物が来るが、そのまま通過するだけではない。石を加工し、鉄を修理し、玉を作り、土器を作る。そして加工したものを別の場所へ送り出す。
交通の結節点では、物が集まるだけでなく、物の価値が作り替えられる。人が集まれば、知識も集まる。そこは「交通の便利な場所」というだけでなく、出会った物と人を組み合わせ、新しいものを生み出す場所でもあったのではないだろうか。
水のネットワークは、社会もつないだ
同じ相手と何度も交換するには、関係を続けなければならない。誰が相手なのかを覚えておき、約束をし、次の交換まで関係を保ち、婚姻を結び、遠くから来た人を受け入れる。交易のネットワークは、物だけでなく、社会と社会を結ぶネットワークでもあった。
ここで前章までの話とつながる。水田はムラの内部で人と人を結びつけた。水の道は、ムラの外で地域と地域を結びつけた。
しかし、それなら列島全体が同じ社会になってもよさそうなものだが、実際にはそうならなかった。水田があっても、鉄があっても、交易していても違う。では、何が違ったのだろう。
次は、西暦180年から200年頃という観察窓に立って、列島各地にどんな地域社会が並んでいたのかを、一度同じ地図の上に置いてみたい。
主な参照資料・注
国立歴史民俗博物館、弥生時代の鉄器・鉄器生産に関する研究
北部九州における鉄器の出現と普及に関する研究
小松市・八日市地方遺跡関係資料
神奈川県埋蔵文化財センター、弥生時代金属器関係資料
木島平村、根塚遺跡関係資料
日本海沿岸の弥生時代玉作り・石材流通に関する研究
長野県埋蔵文化財センター「塩崎遺跡群」
神奈川県「国指定史跡 神崎遺跡」
田原本町「唐古・鍵遺跡」
