日々の暮らしは、誰によって続いていたのか
沈黙の地層から聴こえる古代の声
弥生社会編 第4部・第3回
今回の現在地
時代:弥生時代を中心に、縄文時代の繊維加工にもさかのぼります。
場所:北部九州、奈良盆地の唐古・鍵、佐賀・宮城の縄文遺跡など。
今回確かめたいこと:巨大な事業から毎日の暮らしへ視線を移します。一軒の家には誰が暮らし、布を一枚つくるまでに、どのような技術や仕事があったのでしょう。
第3章 日々の暮らしは、誰によって続いていたのか
田へ出る。水を見る。草を取る。収穫する。木を削る。魚を捕る。糸をつくり、布を織る。食事を用意し、子どもを育てる。
社会のほとんどの時間は、巨大な墓を造るためではなく、こうした毎日の暮らしの中にあった。
ところで、墓造りへ行った人の田を考えたとき、私は無意識に「家に残った人」を思い浮かべていた。
そもそも、弥生時代の一軒の家には、誰が暮らしていたのだろう。
一軒の家が、一つの家族とは限らない
竪穴住居が一軒あれば、父親、母親、子ども。そんな家族を想像したくなる。けれど、一軒の住居をそのまま現代の核家族と結びつけることはできない。
北部九州などの集落研究では、数軒の住居と倉庫、墓地が一つのまとまりをつくっていた可能性が指摘されている。暮らしや仕事を支えるまとまりが、一軒の住居だけでは完結していなかった可能性もある。
『魏志倭人伝』にも、「父母兄弟、臥息するところを異にす」という、少し不思議な記述がある。父母や兄弟が寝起きする場所を異にするという意味だが、これだけで、実際にどのような家族構成だったのかを復元することはできない。
三世紀の人々が、「ここまでが私の家族で、ここから先は他人」と、私たちと同じ線を引いていたとは限らない。
そう考えると、田を守る仕事も、食料を用意する仕事も、子どもを育てることも、現代の一つの家庭をそのまま古代へ置いて考えるわけにはいかない。誰が何を担っていたのかは、地域や時代によって違っていたかもしれない。
では、その暮らしの中で、人々はどのような仕事をしていたのだろう。今度は、毎日の生活に欠かせない布作りを見てみたい。
弥生時代になって、急に布を知ったわけではない
佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡では、縄文時代早期、今からおよそ7000年前の編みかごが多数見つかっている。木や蔓を加工し、形あるものへ編み上げる技術が、すでにあった。
また、宮城県栗原市の山王囲(さんのうがこい)遺跡では、縄文時代晩期の編布(あんぎん)が見つかっている。植物の繊維を撚って糸をつくり、それを編んで布にする技術も、縄文社会にはあった。
つまり、弥生時代になって初めて、人々が植物の繊維から布をつくるようになったわけではない。
一方、弥生時代には、水田稲作の広がりとともに、大陸系の機織り技術も列島へ伝わり、織物生産が広がっていく。福岡市の雀居(ささい)遺跡では、縄文時代晩期の溝から機織具が見つかっており、稲作文化が広がり始める頃の技術の変化を考える手がかりになる。
古い技術が消え、新しい技術へ丸ごと入れ替わったのではない。すでにあった繊維加工の上に、新しい機織りの技術が重なっていった。
弥生時代は、すべてがゼロから始まった時代ではなかった。
第1部で、水田稲作が入ってきても、列島にもともとあった暮らしが一度に消えたわけではないことを考えた。布作りの中にも、同じような時間の重なりが見えてくる。
布を一枚つくるまで
奈良盆地の唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡では、紡錘車(ぼうすいしゃ)や糸を扱う道具、縫い針などが出土している。紡錘車とは、繊維に撚りをかけて糸をつくる際に用いる道具である。
布を一枚つくるまでには、材料となる植物を得て、繊維を取り出し、糸にし、織るという仕事がある。衣服にするなら、さらに裁ち、縫う作業も必要になる。
完成した一枚の布の後ろに、多くの仕事がある。
唐古・鍵では、時期によって紡錘車の出土が特定の区域へ集中する傾向が確認され、布生産の分業化を考える研究もある。専門職人という固定的な身分があったとまでは言えないが、作業がどのように分担されていたのかを考える手がかりになる。
布を織る仕事は、毎日の暮らしに欠かせない。しかし、それが誰の仕事だったのかは、道具だけでは分からない。自分の家で使う布をつくったのか。ほかの人々のためにもつくったのか。材料や完成品を誰が管理していたのか。
そこまでは、まだ見えてこない。
服にも、人の違いはあったのか
佐賀県の吉野ヶ里遺跡からは、麻だけでなく絹も見つかっている。しかも、ただの布片ではない。日本茜による赤色や、貝紫による紫色が確認された絹があり、袖を縫いつけたと考えられる布もある。
私は、ここで少し驚いた。弥生時代の衣服というと、布を身体に巻きつけたり、頭からかぶったりする単純な姿を想像していた。しかし、実際には、染め、織り、縫うという技術を組み合わせた衣服もあったらしい。
では、こうした衣服を着ていたのは、どのような人々だったのだろう。
「絹は偉い人、麻は普通の人」と整理したくなる。しかし、素材だけで身分表を作ることはできない。染色、糸の細さ、布目、仕立て、かけられた手間の違いが、人の立場と関係していた可能性はあるが、誰がどのような衣服を着ていたのかを、細かく復元することはできない。
むしろ、今の私が気になるのは、完成した布より、その向こうにいた人々である。
糸をつくる人、織る人、縫う人。どのような分担があったのかは分からないが、日々の暮らしを支える技術と仕事が、そこにあった。
歴史の倉庫には、腐って消えた棚がある
布や木製品は腐る。石や金属とは違う。
布や木製品がよく残る遺跡には、低湿地など、有機物が残りやすい条件がある。だから、布が多く見つかる地域だけが布作りをしていたとは限らない。
見つからない布の方が、ずっと多かったかもしれない。
歴史に残った物だけで社会を見ると、残りやすい物を使った人々ばかりが歴史に登場する。
歴史の倉庫には、腐って消えた棚がたくさんあるらしい。
そして、消えてしまったのは布だけではない。誰が糸を紡ぎ、誰が布を織り、どのような仕事を分担していたのか。その人々の名前も、ほとんど残っていない。
「女性が糸を紡ぎ、布を織った」と書けば分かりやすい。しかし、後の時代の姿をそのまま弥生時代へ戻すことはできない。女性が中心だったのか。男性も行ったのか。年齢で仕事が分かれていたのか。そこまで決められる材料はない。
だから、ここでは、糸を紡いだ人、布を織った人、とだけ書いておこう。
現代の家族像や性別役割を、古代へ置かないためである。
一枚の布の後ろにも、長く受け継がれてきた技術と、さまざまな仕事があった。けれど、誰がそれを担い、材料や完成品をどう扱ったのかは、簡単には分からない。
そして、日々の暮らしを考えるなら、健康な働き盛りの人ばかりを思い浮かべていても、まだ社会の一部しか見ていないのではないか。
主な参照資料・注
[1]『三国志』魏書東夷伝倭人条(通称『魏志倭人伝』)。「父母兄弟、臥息するところを異にす」という住居・家族に関する記述を参照。この記述だけから、倭人の具体的な家族構成や居住形態を復元することはできない。
[2]唐古・鍵遺跡における集落構造、繊維生産に関する調査研究。小林青樹監修『弥生布の出現と展開:紡錘車と布目圧痕土器』奈良大学、2022年。科研費課題18K01076「秦漢以前に弥生文化に渡来した中国中原系絹織物の研究」の成果では、唐古・鍵の紡錘車の出土分布が時期とともに特定区域へ集中する傾向から、専業的な分業生産の可能性が検討されている。役割の固定化や具体的な管理者の存在を直接証明するものではない。
[3]吉野ヶ里歴史公園「中のムラ」、東名遺跡、山王囲遺跡、雀居遺跡など、縄文時代から弥生時代にかけての植物繊維利用、編組製品、織りに関連する発掘調査・研究成果。吉野ヶ里遺跡の麻・絹織物、染色・縫製に関する資料も参照。布の素材だけから身分や性別による仕事の分担を決めることはしていない。
